「人をさげすむ世界は消え去り」
聖書箇所 ルカ20:9-19。303/313
日時場所 2023年3月26日平安教会朝礼拝式・受難節5
小野一郎牧師が、2023年3月19日(日)に、神さまのところに帰られました。悲しみの中にある方々のうえに、神さまの慰めがありますようにとお祈りいたします。今日は娘さんの高田みぎわさんと小野順さんが、礼拝に出席してくださり、礼拝後にご報告とご挨拶をしてくだいます。
小野一郎牧師は、私たちの平安教会の牧師として長い間、私たちのために牧会をしてくださいました。私たちを愛し、私たちのために祈ってくださいました。小野一郎牧師と親しく交わることができた幸いな方々もおられますし、また小野一郎牧師が平安教会におられたのは、20年ほど前のことですから、そのときはまだ教会に来ておられないという方もおられるだろうと思います。わたし自身も平安教会に来るまで、小野一郎牧師とお話をしたということはありませんでした。
わたしにとって小野一郎牧師は、わたしがまだ同志社大学神学部で学んでいたときに、平安教会で牧師をしておられた小野一郎牧師。そして小野一郎牧師はそのとき、部落解放運動に日本基督教団のなかで一生懸命に取り組んでおられた。それがわたしにとっての小野一郎牧師の一番の印象です。わたしはそのとき小野一郎牧師にお会いしたことがありませんでしたので、部落解放運動にも取り組んでおられる厳しい牧師先生というイメージを勝手にもっていました。しかし平安教会でお会いした小野一郎牧師は、みなさんもご存知のように、とてもやさしい方でした。それだけに、小野一郎牧師の内に秘められた神さまの義を求めるこころはとても強いものだったのだろうと思います。
差別というのは、人をおとしめる行ないです。その人に問題があるわけではないにもかかわらず、レッテルを貼って、人をおとしめる行ないであるわけです。ですからそれはとても恥ずかしい行ないです。そうした神さまの前にはずかしい行ないに対して、小野一郎牧師はなんとかしなければならないと思っておられたのだと思います。
2022年は日本初の人権宣言と言われる「水平社宣言」100年の年でした。ことしは101年の年です。1922年3月3日に京都市の岡崎公会堂に、部落差別に苦しむ人たちが集い、そして全国水平社を結成し、水平社宣言が読み上げられました。水平社宣言のなかの言葉に次のような言葉があります。「犠牲者がその烙印を投げ返す時が来たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が来たのだ。吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」「犠牲者がその烙印を投げ返す時が来たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が来たのだ。吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」。水平社宣言には、人をさげすむ社会との決別が謳われています。
今日の聖書の箇所は「ぶどう園の農夫のたとえ」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書20章9ー12節にはこうあります。【イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。】。
イエスさまの時代は、広い農地をもっている人がいて、ぶどう園を農夫たちをやとって管理をするというようなことが行われていました。そうしたことがこの物語の背景になっているわけです。ぶどう園でまあ暴動が起きているということのようです。収穫の時期に、ぶどう園の主人が、僕を農夫たちのところに送るわけですが、袋だたきにあって返されます。一人、二人、三人と僕を送ったわけですが、みんな農夫に袋だたきにされて、ぶどう園の主人のところに帰ってくるのです。
ルカによる福音書20章13−16節にはこうあります。【そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。】。
ぶどう園の主人は自分の愛する息子なら敬ってくれるのではないかと思って、農夫のところに息子を送ります。しかし農夫たちはこの息子を殺してしまいます。この息子を殺せば、ぶどう園が自分たちのものになるだろうと考えたからでした。ぶどう園の主人は、ぶどう園にやってきて、農夫たちを殺します。そしてぶどう園をほかの人たちに管理してもらうことにします。
まあ、なんとも殺伐とした話であるわけですが、まあイエスさまの時代はそうした殺伐とした時代であるわけです。たぶん聞いている人たちは、「まあそう言えば、あのぶどう園はそんな感じのことが起こったよね」というふうに聞いています。まあだからイエスさまがたとえ話として話をしているわけです。「そんなことあるはずがないじゃないですか」ということであれば、それはたとえ話にならないわけです。
このたとえ話は、「ああ、そういうことあったよね」ということだけでなく、律法学者たちや祭司長たちに対する非難のたとえ話として語られています。ですからルカによる福音書20章19節に、【そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。】と記されているわけです。
このたとえ話に出てくるぶどう園の主人というのは、神さまです。そしてぶどう園の農夫たちというのは、律法学者たちや祭司長たちです。ぶどう園の主人の僕たちというのは、預言者たちです。そしてぶどう園の主人の跡取りというのは、イエスさまです。神さまが律法学者たちや祭司長たちのようなユダヤというぶどう園を治めている人たちのところに、預言者たちを送る。しかし律法学者たちや祭司長たちは、預言者の言うことを聞かず、好き勝手にして預言者たちを袋だたきにする。それで神さまが、自分の大切な御子であるイエスさまを送ったら大切にしてくれて、言うことを聞いてくれるだろうと思う。しかしそんなことはなく、律法学者たちや祭司長たちは、神さまの御子であるイエスさまを十字架について殺してしまうということです。そして悔い改めることのない律法学者たちや祭司長たちは、神さまによって罰を受けるということです。
ルカによる福音書20章17−19節にはこうあります。【イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。】。
この【『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』】という言葉は、詩編118編22節からの引用です。詩編118編22節にはこうあります。【家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。】。イエスさまが言われることは、あなたたち律法学者たちや祭司長たちは、自分勝手にこれが大切な石だ、これが大切なことだと決めて、自分の意にそわないものは取り除くということをしている。しかし神さまの目から見れば、あなたたちが取り除いたものが、神さまの意に添っているものなのだ。だからあなたたちは裁きを受けるだろう。というようなことが言われているわけです。
今週は受難節の第5週に入ります。来週の日曜日、4月2日は棕櫚の主日です。イエスさまがエルサレムにやって来られ、そしてイエスさまは苦しみを受けられ、そして十字架につけられます。マルコによる福音書15章16節以下に「兵士たちから侮辱される」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の95頁です。マルコによる福音書15章16−20節にはこうあります。【兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。】。イエスさまは兵士たちにあざけられ、唾を吐きかけられ、侮辱されて、そしてそのあと、ひとびとからののしられながら十字架へと歩まれます。イエスさまの十字架への道のりは、蔑みの言葉に充ちています。
この蔑みの言葉に充ちている世界が、私たち人間の世界であるわけです。人を蔑むことによって、そして自分が少しでもえらくなったような気になる。人をバカにすることによって、自分がえらいものだと思い込もうとする。皮肉を言ったり、小馬鹿にしたり、怒鳴ったりして、人を蔑み、そして自分がそうではないことを証明しようとします。
人を蔑む私たちの世界のなかにあって、イエス・キリストは十字架についてくださいました。イエスさまは人々から蔑まれながら、十字架につけられます。そして神さまはイエスさまを三日目によみがえらせてくださいました。そのことによって、神さまは私たちが蔑む人間でも、蔑まれる人間でもなく、ただ神さまから愛されている人間であることを、イエス・キリストの十字架によって、私たちに示してくださいました。私たちは神さまから愛されている人間であり、人を蔑む必要はないのです。人を蔑む世界は消え去ります。それは神さまの御心にかなったものではないからです。神さまの御心にかなわないものを消え去っていきます。そして神さまの御国がくるのです。私たちは主の祈りを祈り、「御国が来ますように」と祈ります。神さまの御心にかなわない世界は消え去り、神さまの御国が来るのです。
レント・受難節も第5週になりました。私たちの中にある邪な思いや、いじわるな思いと、しっかりと向き合いながら、このレント・受難節のときを過したいと思います。そして神さまの御心にかなわないものは消え去っていくことを、しっかりとこころに留めたいと思います。悔い改めつつ、このレント・受難節のときを過しましょう。
(2023年3月26日平安教会朝礼拝式・受難節5)
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