2025年6月6日金曜日

6月1日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「隠れたことを見ておられる神がおられる」

「隠れたことを見ておられる神がおられる」

聖書箇所 ルカ24:44-53。155/470。

日時場所 2025年6月1日平安教会朝礼拝式

来週はアメリカのサンディエゴからPOVUCC教会の方々がきてくださいます。アメリカのトランプ大統領もいろいろな政策を打ち出し、以前のようなアメリカではなくなったことを感じるようになりました。どのように考えたら良いのかよくわからなくなりました。そういうときはアメリカに関する本をなんとなく読んでみるのがよいと思い、ウォルト・ホイットマンの詩集を読んでみました。

ウォルト・ホイットマンは1819年生まれのアメリカの詩人です。1892年に天に召されています。アメリカ文学において最も影響力の大きい作家の一人であると言われています。アメリカの学校ではホイットマンの詩を学ぶのだと思います。

ホイットマンは1860年6月ニューヨークで、日米修好通商条約(1858)の批准書交換のために滞在していた江戸幕府の使節団が行進をしていたの見物しています。ホイットマンはアメリカ南北戦争のときに、北軍を鼓舞する愛国的な詩「叩け!叩け!太鼓を!」を発表しています。アメリカ南北戦争は、1861年4月12日から1865年4月9日のことです。ホイットマンが42歳-46歳くらいのときです。新島襄がアメリカにやってくるのは、1865年7月20日です。新島襄は1874年に帰国し、そして1875年に京都に同志社英学校を設立します。そして1876年に私たちの平安教会が設立されるというような感じの時代です。新島襄は1890年1月23日に天に召され、ホイットマンはその2年後の1892年3月26日に天に召されています。アメリカの独立戦争を経て、ウォルト・ホイットマンはアメリカの人たちから愛されている詩人です。

ホイットマンの詩に「わたしはアメリカが歌うのを聞く」という詩があります。

「わたしはアメリカが歌うのを聞く」

わたしはアメリカが歌うのを聞く、そのさまざまな喜びの歌をわたしは聞く、

機械工たちの歌を、めいめいがじぶんの歌をそれにふさわしく陽気に力強くうたうのを、

大工が厚板(あついた)や梁(はり)の寸法を測りながらじぶんの歌をうたうのを、

石工が仕事の用意にとりかかりながら、また仕事を止めながら、自分の歌をうたうのを、

船員が船のなかで自分に属することを歌うのを、甲板(かんぱん)水夫が汽船の甲板の上で歌うのを、

靴屋が仕事台に腰かけながら歌うのを、帽子屋が立ったまま歌うのを、

木こりの歌を、朝の道すがら、昼の休み、また日暮れどきの百姓の子の歌を、

母親の、仕事にいそしむ若妻の、また縫いものや洗濯をする少女の、こころよい歌を、

ひとつひとつ男女めいめいのもので、他の誰のものでもないものを歌い、

昼には昼につきものの歌をー 夜には逞しい人なつっこい若者の一団が、

口を大きく開いてかれらの力強い調子のよい歌をうたうのを。

この「わたしはアメリカが歌うのを聞く」というホイットマンの詩を読んでいると、現代のアメリカの労働者の人たちの気持ちがわかるような気がします。機械工が、大工が、石工が、船員が、靴屋が、木こりが、母親が、少女が、若者が、誇りをもって歌を歌いながら働くことができるような社会であってほしい。素朴なアメリカの人たちはそんな気持ちをもちながら過ごしているような気がします。しかしそうした気持ちにアメリカ政府は政策として答えてくれなかったという気持ちがあるのでしょう。自分たちの声を聞いてもらえなかったという気持ちがあるのだと思います。

ホイットマンは「わたしは聞く、聞く、聞く」という詩を書いています。

「わたしは聞く、聞く、聞く」

Ⅰ 存在を感ずるまで

いまわたしは、ただ聴くだけにしよう、

わたしの聞くものをみな、この歌の中へと増やしていき、音響をそこへ役立てよう

わたしは聞く、小鳥たちの華麗なさえずりを、成長する小麦のざわめきを、炎の饒舌を、わたしの食事を煮る薪のはぜる音を、

わたしは聞く、わたしの愛するひびきを、人間の声のひびきを、

わたしは聞く、ともに駈け、結合し、融けあい、追いかけあう、あらゆるひびきを、

都市のひびき、都市の外のひびき、昼と夜のひびき、

じぶんを好いてくれるものにたいする話しずきの若者たち、食事どきの労働者たちの高笑い、

仲違いした友人間の怒った低音、病人の消えいるような声の調子、

机にしっかり両手をかける判事、死刑宣告をするその血の気の失せた唇、

・・・・・

・・・・・

そして、それこそ、われわれが《存在》と呼んでいるものなのだ。

長い詩なのでここまでとしますが、「わたしは聞く、聞く、聞く」の書き出しの「いまわたしは、ただ聴くだけにしよう」というのは、印象的な言葉です。いろいろな問題に対して、「解決策はこうだから、こうしましょう」と一方的に押し付けられるのではなく、人はやはりまず「聞いてほしい」のです。「聞いてもくれない」ということで、まあこじれていくわけです。やはりホイットマンのように、「わたしは聞く、聞く、聞く」「いまわたしは、ただ聴くだけにしよう」というところから回復し、よき世界になってほしいと思います。

今日の聖書の箇所は「弟子たちに現れる」「天に上げられる」という表題のついた聖書の箇所の一部です。来週は弟子たちに聖霊がくだる「聖霊降臨日」、ペンテコステです。イエスさまは十字架につけられたのち、三日目によみがえられ、女性たちに姿を現されます。そして弟子たちの前に、イエスさまは現れます。そして弟子たちにこれからのことを託し、そして天に帰って行かれます。

ルカによる福音書24章44ー46節にはこうあります。【イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する】。

モーセの律法と預言者の書と詩編というのは、いわゆる聖書、私たちの時代では「旧約聖書」ということです。旧約聖書には神さまと人間との約束が記されています。神さまの約束はすべて実現する。神さまは私たち人間を許してくださる。メシア、救い主であるイエス・キリストの十字架と復活の出来事によって、人間の罪は許されると、イエスさまは言われます。

ルカによる福音書24章47−49節にはこうあります。【また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」】。

イエス・キリストの十字架によって、神さまは人間の罪を許してくださり、人々は悔い改め、イエス・キリストを信じるようになる。イエスさまの弟子たちはエルサレムから始めて、イエスさまのことを世界に宣べ伝えていく。そしてイエスさまは「父から約束されたもの」である聖霊を、弟子たちのところに送る。聖霊に満たされて、新しい力をえて歩み始めることができるまで、いましばらく都であるエルサレムにとどまっていなさい。そのようにイエスさまは弟子たちに言われました。

ルカによる福音書24章50−53節にはこうあります。【イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。】。

イエスさまは弟子たちと一緒に、ベタニア辺りまで一緒にいかれます。そしてイエスさまは手を上げて弟子たちを祝福されました。イエスさまは弟子たちを祝福しながら、天に帰られました。弟子たちはイエスさまが伝えられたことをしっかりと受けとめます。「エルサレムから始めて」と言われましたので、エルサレムに帰り、そして神殿の境内で、神さまを賛美し、そしてイエスさまが自分たちに聖霊を送ってくださることを待ちました。

イエスさまの弟子たちは、イエスさまが十字架につけられたときは、イエスさまのことを信じることができずに逃げ出す弱い人たちでした。しかしよみがえられたイエスさまに出会い、イエスさまから赦され、祝福を受け、神さまを信じて新しく歩み始めます。

私たちの時代、とくに20世紀から21世紀にかけて、神さまを信じて歩むということが、だんだんと薄らいでいった時代であるような気がします。そして個人主義的な傾向が強くなり、自分の力で生きているかのような錯覚に陥ることが多くなったような時代です。自己責任が強調されるようになり、運良く時代の勝者になった人が自分の力でそのようになったと錯覚することが多くなったような時代であると思います。困っている人、悩んでいる人の声に耳を傾けることが少なくなった時代であると思います。そして分断がすすみ、2つに分かれて、極端な対立をするということが多くなりました。

ひと言で言えば、「神を求めない時代」と言えるかも知れません。自分の力で生きていると錯覚しているわけですから、神さまを求めることはないでしょう。しかしそういう時代であるからこそ、「神さまを求めて生きる」ということが、とても大切なことであると、わたしは思っています。

イエス・キリストは弟子たちに、「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」と言われました。イエス・キリストの証人として歩んでいきなさいと、聖書は私たちに告げています。

イエスさまは「隠れたことを見ておられる父が、あなたがたに報いてくださる」と言われました。マタイによる福音書6章4節、マタイによる福音書6章18節の言葉です。人間の評価がすべてであり、この世で評価されなければすべては無駄であるかのような世知辛い世の中にあって、神さまが私たちのことを知っていてくださり、私たちのことを愛してくださっていることを大切にして歩んでいきたいと思います。

神さまが私たちのことを知っていてくださる。神さまが私たちの声を聞いてくださると思えるとき、私たちは対立ではなく、愛によって互いにわかりあう道へと導かれていきます。憎しみではなく、愛によって生きていく道へと導かれていきます。互いに声を聞きあい、互いに尊敬しあって歩んでいくことができます。

来週は聖霊降臨日、ペンテコステを迎えます。神さまの霊である聖霊を待ち望みつつ、神さまにより頼んで歩んでいきたいと思います。


  

(2025年6月1日平安教会朝礼拝式)


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