「イエスさまがいつも一緒に」
聖書箇所 マルコ8:27-30。298/484。
日時場所 2026年3月8日平安教会朝礼拝・受難節3
周りの人が、何をしているのかということは、とても気になることです。こどもだって、周りのことが気になります。こどもが小さなときに、「○○の映画に連れて行って」とか「○○の遊園地に連れて行って」というようなことがあります。娘は言います。「みんないっとんよ」。「そんなはずないやろ。ひろむ君、ほんとにいった?」。「女の子はみんないっとんよ」。「え、そんなはずないって」。「みさきちゃんはいったんよ」。「やっぱりみさきちゃんだけやないか」。「いや、みんないっとんよ」。だいたいちいさなこどもの「みんな」っていうのは、自分と仲良しの子の数人のことです。でもこれはうそをついているというのではなくて、小さい子の世界観というのは、私たちの世界観とちがっているということだけのことです。ですから、「『みんな』ゆうてうそついて、3人だけじゃないの」と怒るのは、これは間違いです。それでもまあ、小さい子どもたちだって、周りのことが気になるわけです。
こうした子どもの要求に対しては、私たち、まあ案外冷静ですけれど、しかしことがこどもの成長のことになると、私たちは浮き足立ちます。「ひろむは、もう字がかける」とか、「みさきちゃんはおりこうそう」とか、そうしたことはなんかとても気にあるわけです。どうしても比べてしまったりします。「なんでうちの子は、いつまでたっても、こんなに食べるのが遅いんだろう」とか、わたしの家でもよく思っていました。
しかしまあ、やはり人の子と比べるということよりも、私たちは「自分の子をしっかりと見る」ということが大切であるわけです。周りの子と比べていると、自分の子をしっかりと見ることができなくなります。不安ばかりが募ります。しかし「わが子をしっかりと見る」とき、「わが子もまた、私たちをしっかりと見てくれるのです」。かわいいわが子と、すてきな私たちが、しっかりと見つめ合う。このことが大切であるわけです。
そして私たちが、何を大切に生きているのかを、はっきりともっていることが大切です。みなさんは「何が一番大切ですか」。わたしにとって大切なことは、「イエスさまがわたしを救ってくださり、イエスさまがいつも一緒に歩んでくださっている」ということです。ほかのことは、自信をもっていうことができませんが、「イエスさまがわたしを救ってくださり、イエスさまがいつも一緒に歩んでくださっている」ということだけは、わたしは自信をもっていうことができます。
今日の聖書の聖書の箇所は「ペトロ、信仰を言い表す」という表題のついている聖書の箇所と「イエス、死と復活を予告する」という表題のついている箇所の一部です。マルコによる福音書8章27節には【イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた】とあります。イエスさまについては、みんながいろいろなことを言っていました。そこでイエスさまは弟子たちに、自分のことをどのように思っているのかを聞いてみられました。
マルコによる福音書8章28節には【弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」】とあります。洗礼者ヨハネは、マルコによる福音書1章に出てくる預言者です。ちょっとこわい感じの人です。ヨハネは荒れ野で人々に「悔い改めよ」と叫んでいました。そして多くの人々が、その呼びかけに応えて、自分たちの罪を悔い改めていました。バプテスマのヨハネのことを快く思っていないユダヤの指導者たちは、ヨハネを捕らえて、牢獄に入れていました。しかし人々からは神さまの使いとして、絶大な人気のある人でした。エリヤも旧約聖書に出てくる重要な預言者です。世の終わりの時に、預言者エリヤが現れるというふうに言われていました。イエスさまは洗礼者ヨハネだという人もいたり、預言者エリヤだと言われたりするわけです。みんなイエスさまがすごい人であるというふうに考えていたようです。
しかしイエスさまはまた弟子たちに問われました。マルコによる福音書8章29ー30節には【そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。ペトロが答えた。「あなたは、メシアです」。するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた】とあります。「メシア」というのは、ギリシャ語では(クリストス)、救い主ということです。イエス・キリストというのは、「イエスさまは救い主」ということを表している名前です。
イエスさまは「わたしのことを人は、いろいろと言っているけれども、あなたはどう思うのか」と、弟子たちに問われました。「人はいろいろと言っているだろう。でも、あなたはどう思うのか」。そんなふうにイエスさまは問われました。そして使徒ペトロは、「あなたは、メシアです」。「あなたはわたしにとっての救い主です」と、使徒ペトロは答えました。
イエスさまは言われます。「周りを見回すだけでは、大切なことは得られないんだ」。「どうだペトロ、おまえはどう思うんだ」「ペトロ、おまえはどう生きるんだ」。そんなふうにイエスさまは、使徒ペトロに問われたのでした。なかなか立派な答えができたわけです。
しかしそのあと聖書はペトロがイエスさまのことをあまりわかっていなかったということを記しています。「イエス・死と復活を予告する」という表題のついた聖書の箇所です。今日の聖書の箇所の続きとなります。
イエスさまはご自分が歩まれる十字架への道について、弟子たちに話されました。いままでイエスさまは病の人々をいやされたり、また神さまのことをお話しされたりしていました。またいろいろな奇跡を行われ、人々からたよりにされ、尊敬されていました。だからこそ、ペトロもイエスさまを救い主としてついていこうと思ったわけです。イエスさまがゆくゆくはえらい人になってくださると、ペトロは思っていました。しかしイエスさまはご自分が十字架につけられて殺されると言い始められるのです。
イエスさまにそんな不吉なことを言われると困りますということで、ペトロはイエスさまをいさめたのでした。しかしペトロは逆に、イエスさまから叱られます。「サタン、引き下がれ」という厳しい調子で、ペトロはイエスさまから叱責されたのでした。ペトロはショックだったと思います。しかしペトロはイエスさまのことがわかっていなかったのです。イエスさまは私たちの罪のために十字架につけられるために、この世に来られたのでした。ペトロはこのとき、イエスさまの十字架について理解することはできませんでした。ペトロはイエスさまのことを理解できていなかったわけですが、しかしペトロがイエスさまに言った、「あなたは、メシアです」、「あなたは救い主です」という言葉は真実でありました。のちにペトロはそのことを知ることになるわけです。
よくミュージシャンがいうせりふに「わたしは、best oneではなく、only oneでありたい」というセリフがあります。いつもヒットチャートの一番にあがるというのではなくて、「わたしはだれがなんていったってこの人」と思われるようなミュージシャンになりたいということです。「まあちょっとかっこ良すぎるかなあ」とか、「やっぱりミュージシャンは売れてなんぼやろう」という気もするわけですが、「best oneではなく、only one」というのは、人生を歩む上で、大切なことだと思います。私たちの世の中は、いろんなことで、周りを見回したり、比べたり、比べられたりしながら、しのぎを削らされるというような世の中です。また周りを見回していると、不安も募ります。「わたしはこんなことしていて、だいじょうぶなんだろうか」「この子は、こんなことしていて、だいじょうぶだろうか」。そんなふうにも思えてきます。
しかしイエスさまは使徒ペトロに問われました。「みんなわたしについて、いろいろなことを言っているけれども、ペトロ、おまえはどう思うんだ」。そして使徒ペトロは答えました。「あなたはわたしにとっての救い主です」。すばらしい答えですね。しかし、まあこう言いながらも、結局、使徒ペトロはイエスさまを裏切って、イエスさまが十字架につけられるのを、見殺しにしてしまったわけです。人間はそうした弱さをもっています。しかしそのあと、ペトロは十字架につけられ、よみがえられたイエスさまと出会い、やっぱりイエスさまに付き従う歩みをしました。苦しいとき、悲しいとき、もうだめだと思えるとき、使徒ペトロを支えたのは、救い主イエス・キリストだったのです。ペトロは裏切ったけれども、イエスさまはペトロを裏切りませんでした。いつもペトロを支え、励まし、導き、その生涯を守り、弱いペトロを神さまへと導かれたのでした。
わたしもまたやっぱりイエスさまが一番だと思います。この世の中に頼るものは、いろいろとあります。お金の力に頼る人もいます。やっぱり腕力だという人もいます。地位や名誉がなくてはと思う人もいます。学力が大切だ。そう考える人もいるでしょう。結局、頼れるのは、自分の力だと思う人もいるかも知れません。でもわたしはこの世のいろいろなものは、頼りにしていると、裏切られるような気がします。やっぱりわたしはイエスさまが一番だと思うのです。
「主、われを愛す」という賛美歌があります。讃美歌21の484番の讃美歌です。「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ」「わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われをあいす」。「アイス」「アイス」と出てくるので、こどもたちにとってもなじみのある讃美歌です。「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ」。「わたしなんか大したことないけど、イエスさまはたいした方なんだ。だからイエスさまにおかませ。で、だいじょうぶ」。なんとも安心できる讃美歌です。
こどもさんびかというふうに、この讃美歌は言われますが、キリスト教の本質を表している讃美歌です。この讃美歌は、英語ではこう歌われています。Jesus loves me ! this I know, For the Bibel tells me so.(イエスさまがわたしを愛してくださっている。そのことをわたしは知っている。聖書がわたしにそのことを告げているから)。「イエスさまが私たちを愛してくださっている。そのことをわたしは知っている。聖書がわたしにそのことを告げているから」。
よくできた讃美歌だなあと思います。これはひとつの信仰告白であるわけです。「イエスさまがわたしを愛してくださっている」「そのことをわたしは知っている」。「そのことをわたしは知っている」。イエスさまがペトロに、「おまえはわたしのことをどう思うんだ。ひとじゃなくて、おまえは」と問われ、ペトロが「あなたは、メシアです」と答えました。それと同じように、この讃美歌は、「イエスさまがわたしを愛してくださっている」「そのことをわたしは知っている」と、「わたしは知っている」と歌っているわけです。ほかのだれが知っているわけではない。人が言っているということでもない。「わたしは知っている」と言うのです。
いつもイエスさまが一緒にいてくださっている。不安なときも、悲しいときも、つらいときも、「自分のことを愛してくれている方がおられる」。このことは、人生を歩む上で、大きなやすらぎを与えてくれます。悲しみは喜びに、不安は希望に変えられます。私たちはひとりで人生を歩んでいるのではなくて、いつもイエスさまが一緒に歩んでくださっています。そしてわたしはそのことを知っているのです。イエスさまと共に歩みましょう。イエスさまは私たちが崩れ折れそうなときも、私たちをしっかりと抱きしめ、私たちと共に歩んでくださいます。
(2026年3月8日平安教会朝礼拝・受難節3)
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