2026年3月21日土曜日

3月22日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「あなたのほしいものは何ですか」

 「あなたのほしいものは何ですか」

聖書箇所  マルコ10:32-45。306/305。

日時場所 2026年3月22日平安教会朝礼拝式・受難節第5週

      

年をとってくると、若い時のように、「これがほしい。あれがほしい」というような気持ちがちょっと落ち着いてくるような気がします。もちろんもうすでにもっているということもあると思います。冷蔵庫もあるし、テレビもあるし、スマホもあります。自動車などは、「これがほしい」ということよりも、「いつ手放すのか」ということのほうが、年をとってからの話題であるわけです。わたしはこの3月17日で、63歳になりました。サザエさんのお父さんの磯野波平さんは54歳ということですから、わたしのほうがほぼ10歳年上です。わたしも63歳ですから、その年齢でできることを考えます。「またスキーをやってみたいなあ」とか「オートバイに乗ってみたい」とか、もうあと10年経ったらぜったいできないことについて、いまならできるのではないかと考えてみたりします。そういう意味では、逆算して、いろいろなことを考えたりすることがあるわけです。若い時というのは、そういう考え方をすることは、あまりありません。ただやってみたいとか、ただほしいというようなことを考えます。ほしいものなども、若い時は「これ、ほしい」と思ったけれども、もう年をとったのでいまさらほしいとは思わないというような気持ちにもなります。わたしも10年前は、いろいろなものをインターネットで検索して、「ああ、これいいなあ」「これほしい」というようなことをしていましたが、いまは「まあ、そんなに必要ないやろ」と思い直すことが昔に比べて多くなりました。

「マダム・イン・ニューヨーク」というインド映画を先週見ていました。シャシという主人公がいう言葉に「恋は要らないの。欲しいのは尊重されること」のがあります。シャシは二人の子供と夫のために尽くすけれども、英語がはなせないということで、ときどき家族からも失礼な振る舞いをされたりします。シャシは「恋は要らないの。欲しいのは尊重されること」と言います。人によって、また年齢によって、状況によって、ほしいものはさまざまでしょう。イエスさまは今日の聖書の箇所で、「あなたのほしいものは何ですか」と問われます。

今日の聖書の箇所は「イエス、三度目の死と復活を予告する」「ヤコブとヨハネの願い」という表題のついた聖書の箇所です。「ヤコブとヨハネの願い」という聖書の箇所は、ヤコブとヨハネが出世したいと、イエスさまに願い出たという話です。地位や名誉を願い出たという話ですから、若い時はとても気になる聖書の箇所ですけれども、年をとったいま読んでみると、若干、自分のこととして考えにくい聖書の箇所になっているなあというような気もいたします。願い出た内容は置いておいて、ヤコブやヨハネやイエスさまの弟子たちの前に進んでいく勢いみたいなものは、それはそれでうらやましいような気もします。しかし、勢いだけで生きていくのは、ちょっと違いますと思いますから、すこし落ち着いて自分の歩む姿勢を整えていくということもまた大切なことだと思います。

イエスさまは自分の死と復活について、弟子たちに話されました。イエスさまが自分の死と復活について話されるのは、これで三度目です。今日は受難週第5週の始まりです。来週の日曜日は棕櫚の主日です。イエスさまが子ロバにのって、エルサレムに入城され、そして受難週の歩みをされることになります。

イエスさまはエルサレムに行かれます。そして祭司長たちや律法学者たちによって捕まえられ、裁判にかけられます。イエスさま裁判で死刑の宣告をうけられます。そして十字架を背負ってゴルゴタの丘へと歩み、人々から蔑まれ、侮辱され、唾をかけられ、兵士によってむち打たれ、そして十字架にかけられ、天に召されます。そして三日ののちに、イエスさまはよみがえられます。

神さまはイエスさまによって私たち人間の罪をあがなってくださり、そして私たちは神さまの前に救いを得ることができました。イエスさまは私たちの罪のために、十字架についてくださいました。イエスさまは神さまの御子であったのですが、ほめたたえられることを望まず、人々に仕えて、そしてすべての人のしもべとなる生き方をされました。その生き方について、イエスさまは「死と復活を予告する」ということを話すことによって、弟子たちに伝えようとされたのですが、しかし弟子たちはそのことを理解することはありませんでした。

そして今日の聖書の箇所の「ヤコブとヨハネの願い」という話になるわけです。マルコによる福音書10章35−40節にはこうあります。【ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」】。

ヤコブとヨハネは、イエスさまの弟子のなかで、とてもよく用いられた弟子でした。ヤコブとヨハネは、イエスさまに「イエスさまがえらくなったときは、私たちを特別に用いてください」とお願いをします。しかしイエスさまはヤコブとヨハネに対して、「あなたがたはよくわかっていない」と言われました。イエスさまが十字架への道を歩まれると話しておられたのに、ヤコブとヨハネは自分たちの出世の話をするからです。イエスさまは「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と、ヤコブとヨハネに問いました。「わたしが飲む杯」というのは、イエスさまの十字架ということであり、ヤコブとヨハネもイエスさまと同じように、迫害を受け、そして辱めを受けて、殺されるかも知れないということです。ヤコブとヨハネは、イエスさまが言っておられることの意味もよくわからず、「できます」と答えます。イエスさまは「あなたたちはわたしと同じ苦しみを受けることになるだろう。しかしわたしの右や左に誰が座るかということは、神さまが決められることであり、わたしが決めることではない」と答えられました。

マルコによる福音書10章41−45節にはこうあります。【ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。】。

ヤコブやヨハネがイエスさまに自分たちの出世を願い出たことについて、他の弟子たちは腹を立てます。みんなヤコブやヨハネと同じように、自分たちも出世したいという思いをもっていたからです。まあみんな若者であるわけですから、仕方がないのです。弟子たちはみんな若いですから、勢いで生きています。逆に、勢いがなければ、イエスさまについて行くというようなことはできないのです。

しかしイエスさまは弟子たちを諭されます。みんな知っていると思うが、世の中では支配者と見なされている人々が民を支配し好き勝手なことをしている。偉い人たちが権力をもって、人々を虐げている。そんな世の中、あなたたちはどうもうのか。そんな世の中でいいのか。世の中は力やお金で動いているけれども、あなたたちのなかはそうであってはだめだ。偉くなりたい人はみんなに仕える人になってほしい。いちばん上に立つ者は、みんなの僕になってほしい。そうした生き方をしてほしい。そうした生き方を神さまは喜ばれる。わたしもまたそのように生きている。わたしは人々の罪のために十字架につくために、わたしはこの世に来たのだ。そのようにイエスさまは言われました。

私たちは昔に比べて、宗教性を失った社会に生きています。自分のことばかりを考えて、自己中心的な考え方に陥ってしまい、周りの人のことも考えるというような道徳的なことは後回しにされるような社会です。宗教性を失った社会は、さみしい社会になっていきます。島田裕巳(しまだ・ひろみ)という宗教学者は、「宗教で読み解く現代世界-ニヒリズムの時代に対抗する宗教」というカルチャーセンターでの講義のなかで、エマニュエル・トッドの『西洋の敗北』(文藝春秋)(P.170)を紹介しています。

エマニュエル・トッドは宗教の衰退の段階を三つに分類しました。活動期、ゾンビ段階、宗教ゼロ段階。活動期というのは、宗教が世の中で活発に行なわれている状態です。そしてゾンビ段階というのは、信仰心は失われているけれども、洗礼・結婚式・葬儀などの儀礼習慣は残っているという状態です。そして宗教ゼロ段階というのは、宗教的な習慣も消えてしまい、宗教が支えていた道徳観や価値観が失われてしまっている状態です。いまの西洋社会の状態はそのような状態だということです。宗教はみんなを柔らかく一つにまとめる働きをしていたわけですが、それさえもなくなり、社会はニヒリズム(虚無主義)に陥っているということです。エマニュエル・トッド自身は、「わたしは神を信じていない」と言うわけですが、それでもこの宗教ゼロ社会という世界の状況は、とても危機的な状況だと言うわけです。宗教ゼロのエマニュエル・トッドであるわけですが、宗教ゼロの社会はとても危険な社会だというわけです。

日本でもそうですけれでも、「お天道(てんとう)さまが見ているよ」というようなことが、社会のなかにはあったわけです。自分以外の誰かが見ているという視点をもって、多くの人々は生きてきたわけです。しかし現代ではそうした感覚は失われ、「いまだけ」「かねだけ」「じぶんだけ」というような感覚が、この世をうまく生きる上での指針であるかのような主張が得意げにされるようになってきます。他者の視点というのが失われてしまっているわけです。

実際の世の中は、多くの人々が助け合うことによって動いています。また自分の代以前の人の良き働きによって、いまの社会が成り立っています。私たちは言葉を自分でつくったわけではないですし、また私たちは先人たちが獲得した法律の恩恵によって生きています。

わたしはエマニュエル・トッドと違って、神さまを信じていますから、世界がこのような状態になっていることに対して、わたしが神さまのことをもっともっと一生懸命に伝えたらよかったとの思いがあります。もっともっと人々が神さまを信じるようになり、まっとうな世界に戻ってほしいという思いがあります。

イエス・キリストは神さまの御子であったわけですが、私たちの世にきてくださり、私たちのために十字架についてくださいました。そして弟子たちに、自分のことだけを考えて生きるのではなく、隣人のことを考えて、みんなで一緒に助け合って生きていくことを進めました。そしてなかなかできることではないかも知れないけれども、自分が偉くなりたいというような志の高い人々は、人に仕える生き方を心がけてほしいと言いました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。

イエスさまはヤコブとヨハネに「何をしてほしいのか」「あなたのほしいものは何ですか」と問いかけられました。ヤコブとヨハネは「出世したい」「えらくなりたい」と答えたわけです。でもイエスさまは「あなたのほしいものと、あなたが本当に必要としているものは、おなじものではない」と言われます。あなたのほしいものは、出世することやえらくなることかも知れない。でもあなたが本当に必要としていることは、そうしたことではない。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」。あなたが必要としていることは、謙虚な思いになって、隣人と共に歩んでいくことだ。わたしがそのようにしたように、あなたもまたそのようにしてほしいと、イエスさまはヤコブとヨハネ、そして弟子たちに言われました。

レント・受難節も第五週を迎えました。私たちはイエス・キリストの歩みを、こころに深く受けとめたいと思います。イエスさまは仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来られました。そのイエスさまの愛の姿を、こころに受けとめて、私たちもイエスさまの愛にふさわしい歩みでありたいと思います。


  

(2026年3月22日平安教会朝礼拝式・受難節第5週) 


     

3月15日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「イエスさまは十字架へと歩まれた」

 「イエスさまは十字架へと歩まれた」

聖書箇所 マルコ9:2-10。301/300

日時場所 2026年3月15日平安教会朝礼拝・受難節4


十字架というものは不思議なもので、刑罰の道具であったものが、いまではジュエリー・アクセサリの形として使われています。京セラジュエリーの「ダイヤモンド プラチナネックレス」(計0.3カラット/クロスモチーフ/4月誕生石)《BPDD3185W》、131,000円。高いんだか安いんだかさっぱりわかりませんが、十字架にダイヤモンドがついていて、なかなかりっぱです。いまなら「金の十字架がいいですか、ダイヤモンドの十字架がいいですか、木の十字架がいいですか」と、いろいろ選べるわけですが、イエスさまの時代はそういうわけにもいきませんでした。イエスさまは木の十字架につけられました。ゴルゴタの丘に十字架の縦の部分が埋まってあって、そしてそこに十字架刑を受ける人が十字架の横の部分を、自分で運んでくるわけです。

それはそれで道理にかなったことです。十字架は刑罰の道具であったわけですが、しかしイエスさまが十字架につけられたことによって、栄光のしるしとなったからです。教会の屋根の上に十字架があるということは、まあふつうのことであるわけですが、イエスさまの時代に建物の上に十字架をつけていたりすると、それはちょっと不吉な建物と見られたことでしょう。十字架は恥さらしで不吉なものであったわけですが、しかしいまは十字架は聖なるものとされています。

今日の聖書の箇所は「イエスの姿が変わる」という表題のついた聖書の箇所の一部です。この聖書の箇所は、「山上の変容」と言われる聖書の箇所です。マルコによる福音書9章2ー4節にはこうあります。【六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた】。

マルコによる福音書において、今日の聖書の箇所は、マルコによる福音書8章31節以下で、イエスさまが死と復活を予告されたあとの話として出てきます。イエスさまはご自分の死と復活を予告され、そして群衆と弟子たちに【わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい】と言われました。

その六日あとに、イエスさまはペトロとヤコブとヨハネをつれて高い山に登られます。そしてペトロたちは山上の変容と言われる神々しい出来事に出会います。今日の旧約聖書の箇所では預言者モーセが十戒を神さまからいただくことになるシナイの山に登るという話が出てきます。山というのは神聖な場所であるわけです。

ペトロたちは山の上で、イエスさまの姿が神々しく変わるという出来事に出会いました。イエスさまの服は真っ白に輝いています。そしてイエスさまのほかに、エリヤとモーセが出てきて、そしてイエスさまと話をされます。エリヤは偉大な預言者で、世の終わりの時に再び現れると言われていた預言者でした。そしてモーセはエジプトで苦しんでいたイスラエルの民を導き出した偉大な預言者です。モーセは神さまから律法のもととなる十戒をいただきました。その偉大なエリヤと偉大なモーセが、イエスさまと語り合っているのです。もうペトロたちは神々しいやら、うれしいやらで大変だったことでしょう。

マルコによる福音書9章5−6節にはこうあります。【ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである】。

あまりにすばらしい出来事だと思えたので、ペトロはそれを記念するために、イエスさまとモーセとエリヤのために仮小屋を三つ建てましょうと提案します。仮小屋というのは、まあ記念碑ということでしょう。【ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった】とありますが、ペトロとしては「おれ、なかなかいいこと言っている」と思えたでしょう。わたしであれば「それではイエスさまとエリヤさまとモーセさまで、わたしのスマホでお写真をとりましょう」とか言ってしまいそうですが、それよりはペトロのほうが気が利いていると思います。

しかしこのペトロの提案はあとで考えるとあまりふさわしい提案ではありませんでした。「ペトロは何もわかっていなかったのです」と、後の人々は言うわけですが、それでもわたしもイエスさまが神々しい姿をして、エリヤとモーセと一緒に話をしておられるというところを見てみたいと思います。ペトロが有頂天になる気持ちもわかります。

マルコによる福音書9章7−8節にはこうあります。【すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。】

ペトロがイエスさまに記念の仮小屋について提案をしたあと、雲が現れ、イエスさまとエリヤとモーセは雲に覆われて見えなくなってしまいます。雲の中から、「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と聞こえました。ペトロたちはエリヤやモーセを捜すのですが、しかしもうエリヤとモーセはいなくなり、イエスさまだけがペトロたちと一緒におられました。現実であったのか、幻であったのか。ペトロたちには「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という声だけが、こころに響いていました。

マルコによる福音書9章9−10節にはこうあります。【一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った】。

ペトロたちは山の上での神々しく不思議な出来事を経験して、頭がぽわーんとなっていました。夢なのか幻なのか、いまも耳に響いている「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という言葉は、どういうことなのか。そのうえイエスさまは山から下りる途中に、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と言われます。ペトロたちはわからないことだらけでした。

「イエスさまの姿が変わる」という山上の変容の出来事は、神の御子であることを表す出来事です。イエスさまが神々しい姿で、エリヤとモーセと一緒に語り合っているというのは、いわば天上でのイエスさまの姿です。それは栄光に満ちています。ペトロたちがうれしがるのも無理はないことです。ただ地上でのイエスさまが神さまから託されていることは、ぼろぼろになって十字家につけられるということです。それは不吉な出来事であり、ペトロたちにとってはそれはあってはならないことです。ですからイエスさまが十字架と死を予告したときに、ペトロはイエスさまをわきへお連れしていさめ始めたのでした。マルコによる福音書8章31節以下の「イエス、死と復活を予告する」という出来事です。

ペトロたちにしてみれば、神々しい姿のイエスさまがずっと続いてほしいのです。神々しい姿で、エリヤとモーセを従えて、悪い律法学者たちやファリサイ派の人々をやっつけてほしいのです。そして自分たちも神々しいイエスさまの一番弟子として、できればすこし格好のいい姿をして、人々から「ペトロさま、ペトロさま」と言われたい。

しかし神々しいイエスさまの姿は天上の姿であって、それは地上での姿ではないのです。結局、エリヤやモーセはいなくなり、イエスさまだけがペトロたちと一緒におられます。そして天の声は「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と響きます。神さまは十字架への道を歩まれるイエスさまこそが、わたしの愛する子だと言われます。ペトロたちは十字架への道を歩まれるイエスさまに従っていくのです。エリヤやモーセではなく、十字架への道を歩まれるイエスさまに聞くのです。

フィリピの信徒への手紙2章1節以下には「キリストを模範とせよ」という聖書の箇所があります。フィリピの信徒への手紙は、使徒パウロが書いた手紙です。フィリピの信徒への手紙2章6−9節にはこうあります。【キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました】。

この箇所は使徒パウロが独自に考えたことではなくて、使徒パウロ以前からあった信仰告白のようなものだと言われています。初期のクリスチャンたちは「イエス・キリストってどういう方ですか」という問いに対して、私たちの信じているイエス・キリストはこういう方ですと告白していたのです。【キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました】。

私たちは輝かしいものやりっぱに見えるものに目が向きがちです。とくに若いときや元気のいいときはそうです。そのことがすべてが悪いということもないと思います。やっぱり人間、りっぱになりたいと思いますし、また輝かしい栄光を求めて一生懸命になるということも大切なことだと思います。ただそのことがすべてのことについての価値基準になるとき、やはりすこしおかしなことが起こってきます。何でも手に入れることにだけ心が向いてしまい、自分が自分がという気持ちが大きくなってきます。何でも自分が中心となり、高慢な思いに取りつかれてしまいます。

使徒パウロは、イエス・キリストはそうした生き方とは正反対の生き方をされたと言っています。イエスさまは神の身分であったけれども、自分を無にして僕の身分となられた。神さまと等しい者であることに固執することなく、私たちのためにこの世にきてくださった。イエスさまは死に至るまでへりくだり、私たちのために十字架についてくださった。イエス・キリストは、支配するためではなく、仕えるために、私たちのところにきてくださった。

受難節、イエスさまの御苦しみを覚えて、私たちは歩んでいます。私たちは、イエスさまが十字架へと歩まれたということを、私たちの心の指針としてしっかりと持っていたいと思います。世は移り変わり、いろいろなものが起こっては消えていきます。一時的に私たちの目を奪うものがあるかも知れません。しかし消え去るものではなく、永遠なるものに、私たちは心の中心を向けたいと思います。こころはしっかりと、イエスさまに向けたいと思います。

【雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」】。いろいろなものは消え去っていくわけですが、イエスさまは私たちと共にいてくださいます。イエス・キリストは私たちを愛してくださり、そして私たちを導き、祝福してくださいます。


(2026年3月15日平安教会朝礼拝・受難節4)


2026年3月6日金曜日

3月8日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「イエスさまがいつも一緒に」

「イエスさまがいつも一緒に」

聖書箇所 マルコ8:27-30。298/484。

日時場所 2026年3月8日平安教会朝礼拝・受難節3


周りの人が、何をしているのかということは、とても気になることです。こどもだって、周りのことが気になります。こどもが小さなときに、「○○の映画に連れて行って」とか「○○の遊園地に連れて行って」というようなことがあります。娘は言います。「みんないっとんよ」。「そんなはずないやろ。ひろむ君、ほんとにいった?」。「女の子はみんないっとんよ」。「え、そんなはずないって」。「みさきちゃんはいったんよ」。「やっぱりみさきちゃんだけやないか」。「いや、みんないっとんよ」。だいたいちいさなこどもの「みんな」っていうのは、自分と仲良しの子の数人のことです。でもこれはうそをついているというのではなくて、小さい子の世界観というのは、私たちの世界観とちがっているということだけのことです。ですから、「『みんな』ゆうてうそついて、3人だけじゃないの」と怒るのは、これは間違いです。それでもまあ、小さい子どもたちだって、周りのことが気になるわけです。

こうした子どもの要求に対しては、私たち、まあ案外冷静ですけれど、しかしことがこどもの成長のことになると、私たちは浮き足立ちます。「ひろむは、もう字がかける」とか、「みさきちゃんはおりこうそう」とか、そうしたことはなんかとても気にあるわけです。どうしても比べてしまったりします。「なんでうちの子は、いつまでたっても、こんなに食べるのが遅いんだろう」とか、わたしの家でもよく思っていました。

しかしまあ、やはり人の子と比べるということよりも、私たちは「自分の子をしっかりと見る」ということが大切であるわけです。周りの子と比べていると、自分の子をしっかりと見ることができなくなります。不安ばかりが募ります。しかし「わが子をしっかりと見る」とき、「わが子もまた、私たちをしっかりと見てくれるのです」。かわいいわが子と、すてきな私たちが、しっかりと見つめ合う。このことが大切であるわけです。

そして私たちが、何を大切に生きているのかを、はっきりともっていることが大切です。みなさんは「何が一番大切ですか」。わたしにとって大切なことは、「イエスさまがわたしを救ってくださり、イエスさまがいつも一緒に歩んでくださっている」ということです。ほかのことは、自信をもっていうことができませんが、「イエスさまがわたしを救ってくださり、イエスさまがいつも一緒に歩んでくださっている」ということだけは、わたしは自信をもっていうことができます。

今日の聖書の聖書の箇所は「ペトロ、信仰を言い表す」という表題のついている聖書の箇所と「イエス、死と復活を予告する」という表題のついている箇所の一部です。マルコによる福音書8章27節には【イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた】とあります。イエスさまについては、みんながいろいろなことを言っていました。そこでイエスさまは弟子たちに、自分のことをどのように思っているのかを聞いてみられました。

マルコによる福音書8章28節には【弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」】とあります。洗礼者ヨハネは、マルコによる福音書1章に出てくる預言者です。ちょっとこわい感じの人です。ヨハネは荒れ野で人々に「悔い改めよ」と叫んでいました。そして多くの人々が、その呼びかけに応えて、自分たちの罪を悔い改めていました。バプテスマのヨハネのことを快く思っていないユダヤの指導者たちは、ヨハネを捕らえて、牢獄に入れていました。しかし人々からは神さまの使いとして、絶大な人気のある人でした。エリヤも旧約聖書に出てくる重要な預言者です。世の終わりの時に、預言者エリヤが現れるというふうに言われていました。イエスさまは洗礼者ヨハネだという人もいたり、預言者エリヤだと言われたりするわけです。みんなイエスさまがすごい人であるというふうに考えていたようです。

しかしイエスさまはまた弟子たちに問われました。マルコによる福音書8章29ー30節には【そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。ペトロが答えた。「あなたは、メシアです」。するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた】とあります。「メシア」というのは、ギリシャ語では(クリストス)、救い主ということです。イエス・キリストというのは、「イエスさまは救い主」ということを表している名前です。

イエスさまは「わたしのことを人は、いろいろと言っているけれども、あなたはどう思うのか」と、弟子たちに問われました。「人はいろいろと言っているだろう。でも、あなたはどう思うのか」。そんなふうにイエスさまは問われました。そして使徒ペトロは、「あなたは、メシアです」。「あなたはわたしにとっての救い主です」と、使徒ペトロは答えました。

イエスさまは言われます。「周りを見回すだけでは、大切なことは得られないんだ」。「どうだペトロ、おまえはどう思うんだ」「ペトロ、おまえはどう生きるんだ」。そんなふうにイエスさまは、使徒ペトロに問われたのでした。なかなか立派な答えができたわけです。

しかしそのあと聖書はペトロがイエスさまのことをあまりわかっていなかったということを記しています。「イエス・死と復活を予告する」という表題のついた聖書の箇所です。今日の聖書の箇所の続きとなります。

イエスさまはご自分が歩まれる十字架への道について、弟子たちに話されました。いままでイエスさまは病の人々をいやされたり、また神さまのことをお話しされたりしていました。またいろいろな奇跡を行われ、人々からたよりにされ、尊敬されていました。だからこそ、ペトロもイエスさまを救い主としてついていこうと思ったわけです。イエスさまがゆくゆくはえらい人になってくださると、ペトロは思っていました。しかしイエスさまはご自分が十字架につけられて殺されると言い始められるのです。

イエスさまにそんな不吉なことを言われると困りますということで、ペトロはイエスさまをいさめたのでした。しかしペトロは逆に、イエスさまから叱られます。「サタン、引き下がれ」という厳しい調子で、ペトロはイエスさまから叱責されたのでした。ペトロはショックだったと思います。しかしペトロはイエスさまのことがわかっていなかったのです。イエスさまは私たちの罪のために十字架につけられるために、この世に来られたのでした。ペトロはこのとき、イエスさまの十字架について理解することはできませんでした。ペトロはイエスさまのことを理解できていなかったわけですが、しかしペトロがイエスさまに言った、「あなたは、メシアです」、「あなたは救い主です」という言葉は真実でありました。のちにペトロはそのことを知ることになるわけです。

よくミュージシャンがいうせりふに「わたしは、best oneではなく、only oneでありたい」というセリフがあります。いつもヒットチャートの一番にあがるというのではなくて、「わたしはだれがなんていったってこの人」と思われるようなミュージシャンになりたいということです。「まあちょっとかっこ良すぎるかなあ」とか、「やっぱりミュージシャンは売れてなんぼやろう」という気もするわけですが、「best oneではなく、only one」というのは、人生を歩む上で、大切なことだと思います。私たちの世の中は、いろんなことで、周りを見回したり、比べたり、比べられたりしながら、しのぎを削らされるというような世の中です。また周りを見回していると、不安も募ります。「わたしはこんなことしていて、だいじょうぶなんだろうか」「この子は、こんなことしていて、だいじょうぶだろうか」。そんなふうにも思えてきます。

しかしイエスさまは使徒ペトロに問われました。「みんなわたしについて、いろいろなことを言っているけれども、ペトロ、おまえはどう思うんだ」。そして使徒ペトロは答えました。「あなたはわたしにとっての救い主です」。すばらしい答えですね。しかし、まあこう言いながらも、結局、使徒ペトロはイエスさまを裏切って、イエスさまが十字架につけられるのを、見殺しにしてしまったわけです。人間はそうした弱さをもっています。しかしそのあと、ペトロは十字架につけられ、よみがえられたイエスさまと出会い、やっぱりイエスさまに付き従う歩みをしました。苦しいとき、悲しいとき、もうだめだと思えるとき、使徒ペトロを支えたのは、救い主イエス・キリストだったのです。ペトロは裏切ったけれども、イエスさまはペトロを裏切りませんでした。いつもペトロを支え、励まし、導き、その生涯を守り、弱いペトロを神さまへと導かれたのでした。

わたしもまたやっぱりイエスさまが一番だと思います。この世の中に頼るものは、いろいろとあります。お金の力に頼る人もいます。やっぱり腕力だという人もいます。地位や名誉がなくてはと思う人もいます。学力が大切だ。そう考える人もいるでしょう。結局、頼れるのは、自分の力だと思う人もいるかも知れません。でもわたしはこの世のいろいろなものは、頼りにしていると、裏切られるような気がします。やっぱりわたしはイエスさまが一番だと思うのです。

「主、われを愛す」という賛美歌があります。讃美歌21の484番の讃美歌です。「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ」「わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われをあいす」。「アイス」「アイス」と出てくるので、こどもたちにとってもなじみのある讃美歌です。「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ」。「わたしなんか大したことないけど、イエスさまはたいした方なんだ。だからイエスさまにおかませ。で、だいじょうぶ」。なんとも安心できる讃美歌です。

こどもさんびかというふうに、この讃美歌は言われますが、キリスト教の本質を表している讃美歌です。この讃美歌は、英語ではこう歌われています。Jesus loves me ! this I know,  For the Bibel tells me so.(イエスさまがわたしを愛してくださっている。そのことをわたしは知っている。聖書がわたしにそのことを告げているから)。「イエスさまが私たちを愛してくださっている。そのことをわたしは知っている。聖書がわたしにそのことを告げているから」。

よくできた讃美歌だなあと思います。これはひとつの信仰告白であるわけです。「イエスさまがわたしを愛してくださっている」「そのことをわたしは知っている」。「そのことをわたしは知っている」。イエスさまがペトロに、「おまえはわたしのことをどう思うんだ。ひとじゃなくて、おまえは」と問われ、ペトロが「あなたは、メシアです」と答えました。それと同じように、この讃美歌は、「イエスさまがわたしを愛してくださっている」「そのことをわたしは知っている」と、「わたしは知っている」と歌っているわけです。ほかのだれが知っているわけではない。人が言っているということでもない。「わたしは知っている」と言うのです。

いつもイエスさまが一緒にいてくださっている。不安なときも、悲しいときも、つらいときも、「自分のことを愛してくれている方がおられる」。このことは、人生を歩む上で、大きなやすらぎを与えてくれます。悲しみは喜びに、不安は希望に変えられます。私たちはひとりで人生を歩んでいるのではなくて、いつもイエスさまが一緒に歩んでくださっています。そしてわたしはそのことを知っているのです。イエスさまと共に歩みましょう。イエスさまは私たちが崩れ折れそうなときも、私たちをしっかりと抱きしめ、私たちと共に歩んでくださいます。




(2026年3月8日平安教会朝礼拝・受難節3)






5月31日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「天からの祝福を受けて」

 「天からの祝福を受けて」 聖書箇所 マルコ1:9-11。419/390 日時場所 2026年5月31日平安教会朝礼拝式・建物改修完成感謝礼拝        改装をされた礼拝堂で、こうして敬愛する方々と一緒に、神さまを賛美することができますことを、こころから感謝いたします。今日は...