「家に帰って家族を愛してあげてください」
聖書箇所 マルコ10:2-12。211/475。
日時場所 2025年10月26日平安教会朝礼拝式
鈴木結生(すずき・ゆうい)さんは、2025年1月15日に「ゲーテはすべてを言った」で、第172回芥川賞を受賞しました。鈴木結生さんはクリスチャンでお父さんは牧師です。鈴木結生「ゲーテはすべてを言った」は、引用ということについて、いろいろと考えさせられる小説です。「ゲーテはすべてを言った」というのは主人公の日本人が若いときにドイツ人の友人に教えてもらった冗談です。【「ドイツ人はね」とヨハンは言った。「名言を引用するとき、それが誰の言った言葉か分からなかったり、実は自分が思い付いたと分かっている時でも、とりあえず『ゲーテ曰く』と付け加えておくんだ。何故なら、『ゲーテはすべてを言った』から】。「何でもいいから試してみろ」と言われて、主人公は限られたドイツ語の語彙の中から、気の利いたこともいえず、「ゲーテ曰く、『ベンツよりホンダ』」と答えます。「ゲーテ曰く」と言えば、まあどんな言葉もまともな名言に聞こえるわけです。
マザー・テレサの名言と言われている言葉に「愛の反対は無関心である」という言葉があります。とても考えさせられる言葉であるわけですが、この言葉はマザー・テレサの言葉ではなく、アウシュヴィッツ強制収容所を体験者である小説家のエリ・ヴィーゼルの言葉だそうです。鈴木結生「ゲーテはすべてを言った」に、そう書かれてありました。エリ・ヴィーゼルはノーベル平和賞を受賞しています。『愛の対義語は憎しみではなく無関心だ。人々の無関心は常に攻撃者の利益になることを忘れてはいけない』。でもマザー・テレサが「愛の反対は無関心である」と言ってもおかしくはないような気もします。
「家に帰って家族を愛してあげてください」という言葉は、マザー・テレサの言葉です。ノーベル平和賞をマザー・テレサが受賞をしたときにのインタビューのなかで、「世界平和のために私たちができることは何でしょうか」と問われたときに、マザー・テレサは「家に帰って家族を愛してあげてください」と言ったそうです。「家に帰って家族を愛してあげてください」。わたしも言えるような言葉でありますが、でもマザー・テレサが言っているから、なんかとても価値のある名言のように聞こえます。
家族を顧みないで働くということは、昔はまあ美徳のようなところがありました。世界平和のために家族を顧みないで働いたというりっぱな社会活動家もいました。「私たちの時代は家族を顧みないで必死で働いた」というのは、良いこととして話されたわけですが、いまはそういうことは一般的に、させてはいけないことになっています。キリスト教界でも、教区の活動などで一生懸命な方もおられ、あまりに一生懸命になりすぎているなあと思ったとき、わたしも「家に帰って家族を愛してあげてください」と声をかけたくなりました。
申命記24章5節にはこんな言葉が書かれてあります。旧約聖書の318頁です。【人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年間は自分の家のためにすべてを免除される。彼は、めとった妻を喜ばせねばならない】 。結婚した一年間は兵役が免除されるということです。一年間は自分の家のことをして、「彼は、めとった妻を喜ばせねばならない」のです。もうずっと昔に、「家に帰って家族を愛してあげてください」ということが制度化されているわけですね。
今日の聖書の箇所は「離縁について教える」という表題のついた聖書の箇所です。日本の現代の法律では「離縁」とは養子縁組の解消という用語ですが、今日の聖書の箇所では「離縁」というのは「離婚」ということであるわけです。
マルコによる福音書10章2ー4節にはこうあります。【ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。】
ファリサイ派の人々がイエスさまのところにやってきて、夫が妻を離縁することについて尋ねます。イエスさまは「預言者モーセがどのように言っているか」と、ファリサイ派の人々に問われます。そしてファリサイ派の人々は、申命記24章1節以下の言葉などから考えて、「モーセは離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えます。
申命記24章1ー4節にはこうあります。旧約聖書の318頁です。【人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。その女が家を出て行き、別の人の妻となり、次の夫も彼女を嫌って離縁状を書き、それを手に渡して家を去らせるか、あるいは彼女をめとって妻とした次の夫が死んだならば、彼女は汚されているのだから、彼女を去らせた最初の夫は、彼女を再び妻にすることはできない。これは主の御前にいとうべきことである。あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を罪で汚してはならない】。
ファリサイ派の人々はこの聖書の箇所をもとにして、離縁状を書いたら離縁することができるとモーセが言っているのだと言うわけです。法律は解釈というものがつきものですから、イエスさまの時代も離縁についていくつかの法律解釈が行われていました。「妻に何か恥ずべきことを見いだし」とありましたから、これはどういうことを意味するのかというようなことが話し合われるわけです。ある人は贅沢三昧をする妻の場合は離縁できるというようなことを言いますし、「いやいや、特に理由などなくても良いのだ」というふうに考える人もいました。
イエスさまの時代は夫より妻のほうが立場が弱いという時代でした。ですから夫のほうは簡単に離縁ができたら良いというふうに考える人が多く、「離縁状を書いたら、どんな理由であれ、離縁できる」と考えたい人がいたわけです。
それに対して、イエスさまは離縁をしたらいけないのだと言われます。マルコによる福音書10章5−9節にはこうあります。【イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」】。
イエスさまは旧約聖書の創世記の天地創造の物語から、人の婚姻は神さまの意志であるのだから、離縁をしてはいけないと言われます。【男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる】(創世記2章24節)なのだから、【神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない】のです。
マルコによる福音書10章10−12節にはこうあります。【家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」】。
イエスさまがファリサイ派に対して説明した離縁についてのことを、イエスさまの弟子たちはイエスさまにもう一度尋ねます。弟子たちはなんとなく納得がいかなかったわけです。「え、離縁状があったら離縁できるじゃないの?」と、まあ多くの弟子たちは思っていたのだろうと思います。
離縁について尋ねる弟子たちに対して、イエスさまは「離縁はしてはだめなのだ」と言われます。そして離縁をして再婚をすることもだめだ、それは姦淫の罪を犯すことになる。夫が妻を離縁するのもだめだし、妻が夫を離縁するのもだめなのだと言われました。
マタイによる福音書にも同じような内容の「離縁について教える」という表題のついた聖書の箇所があります。マタイによる福音書19章1−12節です。新約聖書の36頁です。ここでイエスさまは「不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる」と言われました。そしてそれに対して、弟子たちは「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と答えています。勝手に離縁することができるから結婚するけど、そうじゃないのであれば、結婚なんて窮屈だから結婚なんかしないということです。
イエスさまは一度結婚したら、絶対に離縁してはならないと言っておられるわけですが、現代では社会状況も結婚の事情も変わっていますから、そのままイエスさまの言われることが絶対正しいのだというふうに言うこともできません。結婚してみたけれど、相手はどうしようもない暴力的な人で、命の危険を感じるというようなこともあります。保険金目当ての結婚詐欺だったというようなこともあります。
イエスさまが言わんとしておられたことは、立場の弱い女性に対して、心ないことをすることは、神さまの前に許されないことだということです。あなたは自分勝手なことばかりを考えるのではなく、周りにいる人たちのことを考えて生きていきなさいということであるわけです。
人は夢をもって生きていきたいと思いますから、ときどき大きなことを言いたくなります。「この国のために」とか「世界平和のために」とか言いたくなるわけです。マザー・テレサもそうした質問を受けています。「世界平和のために私たちができることは何でしょうか」。そしてそれに対して、マザー・テレサは「家に帰って家族を愛してあげてください」と答えました。マザー・テレサは「まず、自分の周りのことから始めなさい」というふうに言ったわけです。気をひくような言葉を語って、さも自分が何かを考えていたり、行なっていたりするように見せるのではなく、実際の小さな愛の業を大切にしなさい。「家に帰って家族を愛してあげてください」と、マザー・テレサは言いました。
イエスさまが「離縁をしてはいけない」と言うことによって、立場の弱い人たちを守るということに心にとめて歩んでいきなさいと言われました。神さまの愛にみちた私たちの世界にしようじゃないか。神さまは私たちを愛してくださり、一人一人大切にしてくださっているのだから、私たちもまた互いに相手のことを大切にして、互いに尊敬しあって歩んでいこう。
イエスさまの招きに従って、愛に満ちた世界を、私たち自身の周りから作り出していきたいと思います。
(2025年10月26日平安教会朝礼拝式)
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