2023年4月10日月曜日

4月9日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

「立ち上がる力を与えてくださるイエスさま」

聖書箇所 ヨハネ20:1-18。326/327。

日時場所 2023年4月9日平安教会朝礼拝式・イースター礼拝

イースターおめでとうございます。主イエス・キリストのご降誕をこころからお祝いいたします。今日は先に天に召された方々のご家族と共に、イースターの礼拝を守ることができ、こころからうれしく思います。     

キリスト教には3つの大きなお祭りがあります。一つはイエスさまがお生まれになられたことをお祝いするクリスマス。そして二つ目は、十字架につけられて天に召されたイエスさまがよみがえられたことをお祝いするイースター。そして三つ目は、イエスさまのお弟子さんたちに、神さまの霊である聖霊がくだったことを記念するペンテコステです。

二つ目の大きなお祭りである、イースター。今日は、教会に来られた方々に、イースターエッグをお配りすることにいたします。教会の女性の会であります、野の花会の方々が昨日、作ってくださいました。ありがとうございました。

いまお読みいたしました聖書の箇所は、「復活する」「イエス、マグダラのマリアに現れる」という表題のついた聖書の箇所です。すこし長いですので、今日は「イエス、マグダラのマリアに現れる」という表題のついた聖書の箇所を中心にお話をいたします。

ヨハネによる福音書では、復活されたイエスさまが最初に姿を現されたのは、マグダラのマリアという女性であったと記しています。マグダラのマリアは、以前にイエスさまによって病気をいやされた女性でした。そしてそのあと、イエスさまに付き従って歩んでいた女性です。イエスさまは十字架につけられた殺され、ニコデモという人によってお墓に納められます。そのあと、マグダラのマリアは正式なイエスさまの葬りの準備をするために、イエスさまが納められているお墓にやってきます。しかしそのお墓には、イエスさまの遺体はありませんでした。マグダラのマリアは、「せめて、イエスさまの葬りの準備を丁寧に行なってあげたい」と思って、お墓にやってきたわけですが、しかしイエスさまの遺体は消えていました。

マグダラのマリアはそのことを、使徒ペトロに報告をします。それを聞いた、使徒ペトロともう一人の弟子が、イエスさまのお墓に行きました。使徒ペトロもイエスさまのお墓の中を確認するわけですが、イエスさまの頭を包んでいた覆いと、イエスさまを包んでいた亜麻布が置いてありましたが、イエスさまの遺体はありませんでした。マグダラのマリアが言ったとおりでした。

マグダラのマリアは、イエスさまの遺体が消えてしまったので、途方に暮れます。ヨハネによる福音書20章11ー13節にはこうあります。【マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」】

マグダラのマリアは、イエスさまのお墓の外に立って泣いていました。マグダラのマリアが、お墓の中を見てみると、白い衣をきた二人の天使が見えました。天使はマグダラのマリアに、「どうして泣いているのか」と問いかけます。マグダラのマリアは、「わたしを救ってくださったイエスさまの遺体がだれかに取り去れてしまったのです。せめて、心を込めて葬りの準備をしてあげることができればと思っていたのに、イエスさまの遺体がどこに置かれているのか。わたしにはわからないのです」と応えます。

ヨハネによる福音書20章14−15節にはこうあります。【こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」】。

マグダラのマリアが後ろを振り向くと、イエスさまが立っておられました。しかしそのとき、マグダラのマリアにはイエスさまだということがわかりませんでした。お墓の整備をしている人ではないかと、マグダラのマリアは思いました。マグダラのマリアはこの人が、イエスさまの遺体をどこかに運んでいったのではないかと思いました。イエスさまはマグダラのマリアに声をかけられます。「婦人よ。なぜ泣いているのか。だれを探しているのか」。マグダラのマリアは答えます。「あなたがイエスさまをどこかに運んでいったのでしたら、その場所を教えてください。わたしがイエスさまをひきとりますから」。マグダラのマリアは、まだこの人がイエスさまであることがわかりませんでした。

ヨハネによる福音書20章16−18節にはこうあります。【イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。】

イエスさまはマグダラのマリアに、「マリア」と呼びかけます。イエスさまはマグダラのマリアの名前を呼びました。「マリア」。そのとき、マグダラのマリアは、イエスさまであることに気づきます。マグダラのマリアは何度もイエスさまから「マリア」とその名前を呼ばれてきました。イエスさまは「おい」とか「ちょっと」とか「そこの人」というように、マグダラのマリアを呼ぶことはありませんでした。いつもイエスさまはマグダラのマリアを、こころを込めて、「マリア」と、その名前を呼んでいました。マグダラのマリアはいつものように、イエスさまから「マリア」と呼ばれたときに、それがイエスさまであることに気がつきました。

イエスさまはマリアに「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われました。マグダラのマリアは、イエスさまのお弟子さんたちに行って、この出来事を報告し、自分がイエスさまに出会ったことを伝えました。

イースターの出来事は、私たちに苦しいこと、つらいこと、悲しいことがあっても、よみがえられたイエスさまが私たちと共に歩んでくださり、私たちに立ち上がる力を与えてくださることを教えてくれます。

マグダラのマリアは、イエスさまを失い、悲しみで一杯でした。せめてイエスさまの葬りの準備をしたいと思ってお墓に行くと、イエスさまの遺体すら消えてしまっている。ただただもう泣くしかない。自分はもう何もできない。どうしたら良いのかわからない。この先、どのようにして生きていけば良いのかもわからない。もう立っていることさえおぼつかない。そのようなときに、マグダラのマリアはよみがえられたイエスさまに出会います。そしてイエスさまはマグダラのマリアに「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われ、そしてマグダラのマリアは、イエスさまの言葉通り、自分の足で立ち、そしてイエスさまがよみがえられたことを、イエスさまのお弟子さんに伝えました。

シンガーソングライターの中島みゆきの曲に、『時代』という曲があります。「今はこんなに悲しくて 涙もかれ果てて もう二度と笑顔には なれそうもないけど そんな時代もあったねと いつか話せる日がくるわ あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ だから今日はくよくよしないで 今日の風にふかれましょう まわるまわるよ 時代はまわる 喜び悲しみくり返し 今日は別れた恋人たちも 生まれ変わって めぐりあうよ」。

中島みゆきの『時代』は、1975年の曲です。中島みゆきが23歳のときの曲です。48年前の曲ですが、ずっと歌いつがれています。中島みゆきのお父さんは帯広でお医者さんをしていたのですが、脳溢血でたおれます。おとうさんが51歳のときです。中島みゆきはこのおとうさんが再び歩き出す日への祈りをこめて、この歌をつくったと言われています。しかしその日は来ることなく、翌年の1月にお父さんは天に召されました。

わたしは中高生のときに、わたしはこの『時代』という曲をよく聴きました。当時も良い曲でしたが、いま聴いたほうが良い曲だと思えます。当時は、「今日は別れた恋人たちも 生まれ変わって めぐりあうよ」という歌詞にもあるように、失恋の歌という印象を持ちながら、この曲を聴いたような気がします。失恋をすると、「今はこんなに悲しくて 涙もかれ果てて もう二度と笑顔には なれそうもないけど」という気がします。人から見たら、失恋など小さなことですけれども、本人にしてみれば、これほど大きなこともないわけです。

わたしも年を重ね、阪神大震災や東日本大震災、若くして母がアルツハイマー認知症になったりと、「こんなに一生懸命にやったけれども、この結果なのか」というような出来事とも経験し、「今はこんなに悲しくて 涙もかれ果てて もう二度と笑顔には なれそうもないけど」と思うこともありました。

もう自分の力ではもうどうしようもないと思えるときがあります。悲しくて、悲しくて、もう立ち上がることはできないのではないかと思うときがあります。

しかし、イースターの出来事は、私たちに苦しいこと、つらいこと、悲しいことがあっても、よみがえられたイエスさまが私たちと共に歩んでくださり、私たちに立ち上がる力を与えてくださることを教えてくれます。

悲しみの中にあるマグダラのマリアのところに、イエスさまは一番最初にやってきてくださり、「マリア」とその名前を呼んでくださいました。あたたかい声で、「マリア」と名前を呼んでくださり、マグダラのマリアに立ち上がる力を与えてくださいました。

私たちもまた、立ち上がる気力も失い、どうしたら良いのかわからないときがあります。そんなとき、イエスさまは私たちのところに来てくださり、聖書の御言葉を通して、私たちに立ち上がる力を与えてくださいます。

イースター、イエスさまが復活されて、私たちのところにきてくださいました。イエスさまと共に、希望をもって歩み始めたいと思います。皆様の歩みが、健やかな歩みでありますようにとお祈りしています。

(2023年4月9日平安教会朝礼拝式・イースター礼拝) 

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