「主の道をまっすぐに」
聖書箇所 ヨハネ1:19-28。236/242。
日時場所 2023年12月17日平安教会朝礼拝・アドヴェント3
アドヴェントの第三週を迎えました。ろうそくも3本たち、いよいよクリスマスが近づいてきました。アドヴェント(アドベント)とは、一般的に、イエス・キリストのご降誕をお祝いするための備えをする期間のことです。アドヴェントは5世紀くらいに始まったと言われています。イエスさまがよみがえられた日をお祝いするイースターの前に、イエスさまの十字架への苦しみを覚えるレントがあります。それに対応して、クリスマスの前に、アドヴェントという期間がもたれるようになったようです。
【たいこうせつ 待降節 Advent 教会暦によるクリスマス直前の期節。5世紀頃、ガリア(フランス)、スペインの教会は復活節を祝う洗礼の準備のために大斎節(レント)があるのに応じて顕現日(公現日)に行う洗礼の準備の断食節を設けた。そして6世紀に至って断食節は、その前の40日間となった。ローマ教会はこれをとりいれてクリスマスへの準備の時となし、11月30日に最も近い主日から始るものとした。(これを教会暦の1年の初めの時と見ることは8世紀から始まった。アドヴェントとは来臨の意で、主の受肉来臨すなわちクリスマスを迎える心の準備をするとともに再臨の準備の時にもなった。大斎節ほど厳重な断食節とはされていないが、来臨準備の厳粛な時として、この期間には結婚式は行わず、祝祭の頌歌も用いない)】(キリスト教大事典、教文館)。
ユダヤの人々は救い主の誕生を、何百年も待ち続けました。ダビデ王、ソロモン王をへて、イスラエルは二つの国に分裂し、そして結局は北王国イスラエルはアッシリアによって滅ぼされ、南王国ユダは新バビロニアによって滅ぼされます。その後も、ペルシャ帝国やローマ帝国によって、イスラエルの民は支配され続けました。ユダヤの人々はずっと、「私たちを救ってくださる救い主が来て下さる」との願いを持ち続けていました。そして神さまはこの世に救い主イエス・キリストを送ってくださいました。アドヴェントの期間は、まあほぼ1ヶ月というところです。待ち続けたユダヤの人々からすれば、ほんとうに短い期間です。短い期間ですけれども、こころを込めて、イエス・キリストのご降誕をお祝いする、こころの備えをしっかりとしたいと思います。
イエスさまの誕生の道備えをした人に、バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネと表題に書かれてあります)という人がいます。洗礼のことをバプテスマと言います。マルコによる福音書は、バプテスマのヨハネの登場で始まっています。マルコによる福音書1章1−6節にはこうあります。新約聖書の61頁です。【神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた】。バプテスマのヨハネは、人々に悔い改めを迫りました。その姿もらくだの毛衣を着て、腰に革の帯を締めていたというのですから、なんとなく恐いなあと思ってしまいます。
でもまあ、イエスさまの前に、バプテスマのヨハネが、人々をイエスさまへと導くために、準備してくれていたわけです。イエスさまからすれば、なかなか心強いことだと思います。バプテスマのヨハネはなかなか強そうですし、いいかなあとも思います。
先にだれかが来てくれていて、準備をしてくれているというのは、なかなかありがたいことであるわけです。今日は礼拝後、野の花会のクリスマス祝会がありますが、やはり野の花会の役員の方が早くから来て、いろいろと用意をしてくれていました。祝会に来る人にとっては、ありがたいことであるわけです。
さて、今日の聖書の箇所は、「洗礼者ヨハネの証し」という表題がついている聖書の箇所です。エルサレムのユダヤ人たちは、バプテスマのヨハネのところに、祭司たちを遣わして、ヨハネがだれであるのかを知ろうとしました。ヨハネによる福音書1章19-21節にはこうあります。【さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた】。
バプテスマのヨハネは「あなたは、どなたですか」と聞かれたとき、「わたしはメシアではない。わたしは救い主ではない」と、はっきりと言いました。すると祭司たちが、「あなたはエリヤなのか」と問いました。旧約聖書のマラキ書3章23節にはつぎのように書かれてあります。【見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす】。ですから世の終わりの前に、エリヤが再び現れるというふうに、当時の人々は考えていました。しかし、ヨハネはエリヤでもないと答えます。そして「あの預言者」でもないと答えました。「あの預言者」というのは、申命記18章15節に出てくる預言者で、「モーセのような預言者」とされています。人々はモーセのような預言者が現れて、自分たちを救ってくれると信じていました。しかしヨハネは、徹底して、「わたしはメシアではない。救い主ではない」と言いました。
ヨハネによる福音書1章22-23節にはこうあります。【そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」】。
バプテスマのヨハネは、イザヤ書40章3節の言葉を用いて、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」と言います。救い主の前に、神さまの道を整えるのが、わたしの仕事だと言いました。救い主が来られる前に、その備えをするのが、わたしの仕事だと言いました。
ヨハネによる福音書1章24-28節にはこうあります。【遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった】。
ファリサイ派の人々は、「あんたはメシアでも、エリヤでもないのに、なんでそんなに好き勝手に、洗礼を授けて、私たちに悔い改めを迫っているんだ。ちょっと態度がでかいのではないか。私たちに刃向かうつもりのか」と、バプテスマのヨハネを問いつめたわけです。しかしバプテスマのヨハネはそうした政治的なこととは、別の答えをします。ファリサイ派の人々がこの世的な視点で、バプテスマのヨハネを問いつめているのに対して、バプテスマのヨハネはどちらかというと、夢見心地な感じです。ファリサイ派の人々の方を向いてないわけです。あんまり相手をしていないのです。バプテスマのヨハネはファリサイ派の人々を見ていたのではなく、バプテスマのヨハネは神さまの方を、そして自分の後にこられるイエスさまのことを見ていました。そして言いました。【「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」】。
バプテスマのヨハネは、イエスさまが来る前に、人々の心をイエスさまに向けるための働きを行いました。そしてバプテスマのヨハネは、自分は「わたしはその履物のひもを解く資格もない」と言い、高ぶることなく、へりくだって歩んでいました。牧師就任式のときに、中国の小説家の魯迅の「一本の花を育てることができさえすれば、やがて朽ちはてる腐草(ふそう)となるもよかろう」(『近代世界短編小説集』小引)という言葉を紹介いたしました。魯迅という人も、自分がえらそうに何事かをなすのだというふうに考えたのではなくて、後に来る人のために、いま良き働きを行っていこうと考えていました。私たちもまた、「後に来る人のために」という視点をもたなければならないのだと思います。
アドヴェントは、クリスマスの前の期間というのが一般的ですが、もうひとつは、キリストの再臨という意味で使われます。イエスさまが再び来られるときということです。十字架上で天に召され、よみがえられたイエスさまは、弟子たちと共にすごされたのち、天に昇って行かれました。使徒言行録1章にありますけれど、【「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる】とあります。そういった意味で、私たちはいま二つのアドヴェントを過ごしているわけです。
ひとつはクリスマスの前のイエスさまがお生まれになられるのを待っているということ、そしてもう一つはイエスさまが再び来てくださる時を待っているということです。今日の旧約聖書の箇所は、マラキ書3章19-24節です。新共同訳聖書では、マラキ書3章19-24節ですが、口語訳聖書では4章1−6節になっています。旧約聖書の一番終わりの言葉です。マラキ書3章23-24節には【 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。 彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないよう】とあります。終わりの時を背景にして、救い主が語られています。使徒信条にも「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」とありますように、終わりの日の再臨のキリストを、私たちは待っています。
イエスさまが再び来て下さるのを待っているということでは、私たちは救い主の誕生を待っていたユダヤの人たちと同じようなものです。長い長い間、イエスさまを待ち望んでいます。そして私たちは、終末に来られるイエスさまを待ちながら、バプテスマのヨハネのように、イエスさまの道備えをする役割を、イエスさまから託されているのです。
「バプテスマのヨハネのようにならねば」と気負うこともないわけですが、しかし私たちには私たちに小さい働きかもしれないけれど、神さまがひとりひとりに託して下さっている働きがあるのです。神さまが私たちに「主の道をまっすぐに」するため歩みなさいと、私たちを召して下さっていることを覚えたいと思います。
ウクライナでの戦争、パレスチナでの戦争。いま世界は曲がりくねった道を歩んでいます。私たちは平和の主が歩まれたように、「主の道をまっすぐに」するために祈りたいと思います。
また私たちの心が曲がってしまわないように、祈りたいと思います。「どうせ、どうにもならないんだ」「世の中、そういうもんなんだ」「力の強い者が、力でこの世を治めるのが、この世の中なんだ」。そうした思いをもってしまうことが、私たちにはあります。しかし私たちの後には、イエス・キリストがおられます。イエス・キリストは、自らをむなしくし、私たちの罪のために、十字架についてくださいました。力でこの世をねじ伏せるのではなく、神さまの愛で、私たちを救ってくださったイエス・キリストがおられます。
バプテスマのヨハネは、【その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない】と言いました。バプテスマのヨハネは、すごい方が、自分のあとからこられることを知っていました。自分の小ささを、バプテスマのヨハネはよく知っていました。しかしそれでも、バプテスマのヨハネは自分のなすべきことを、精一杯行いました。私たちの力のなさや、弱さをよく知っています。大したことはできないということもよく知っています。それでも精一杯、イエスさまをお迎えするための備えをしたいと思います。「主の道をまっすぐに」と祈りたいと思います。
私たちはこの世にあって、主イエス・キリストの道ぞなえをする者として、招かれています。愛の主が、私たちに教えてくださったように、私たちは神さまの愛を信じ、求め、「主の道をまっすぐに」と祈りつつ、歩んでいきましょう。
(2023年12月17日平安教会朝礼拝・アドヴェント3)
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