「決して渇かない世界がある」
聖書箇所 ヨハネ4:5-26。120/521。
日時場所 2024年6月16日平安教会朝礼拝式
詩人の中原中也は「生い立ちの歌 Ⅰ」において、自分が若い時のことを区切りをつけて、雪にたとえて歌っています。
生い立ちの歌
Ⅰ
幼 年 時
私の上に降る雪は
真綿(まわた)のようでありました
少 年 時
私の上に降る雪は
霙(みぞれ)のようでありました
十七〜十九
私の上に降る雪は
霰(あられ)のように散りました
二十〜二十二
私の上に降る雪は
雹(ひょう)であるかと思われた
二十三
私の上に降る雪は
ひどい吹雪(ふぶき)とみえました
二十四
私の上に降る雪は
いとしめやかになりました……
幼年期は、私の上に降る雪は、真綿のようで心地よかったわけですが、そのうち、少年期、17−19歳と年を重ねていくうちに、みぞれやあられ、雹や吹雪となってくるわけですが、しかし24歳では、「私の上に降る雪は、いとしめやかになりました」というように、穏やかになります。
そして、生い立ちの歌Ⅱに続きます。
Ⅱ
私の上に降る雪は
花びらのように降ってきます
薪(たきぎ)の燃える音もして
凍(こお)るみ空の黝(くろ)む頃
私の上に降る雪は
いとなよびかになつかしく
手を差伸(さしの)べて降りました
私の上に降る雪は
熱い額(ひたい)に落ちもくる
涙のようでありました
私の上に降る雪に
いとねんごろに感謝して、神様に
長生(ながいき)したいと祈りました
私の上に降る雪は
いと貞潔(ていけつ)でありました
若い頃は中原中也もいろいろなことがあり、激しい生活を送ることになりますが、しかし良き出会いがあり、すこしおだやかな気持ちになることができたのだと思います。「私の上に降る雪に いとねんごろに感謝して、神様に 長生(ながいき)したいと祈りました」。中原中也は30歳で天に召されていますから、長生きをしたわけではありませんが、私たちのこころを打つ詩をたくさん残してくれました。
今日の聖書の箇所に出てくる女性も、いろいろとつらい気持ちを抱えながら生きていました。その女性がイエスさまに出あいます。今日の聖書の箇所は「イエスとサマリアの女」という表題のついている聖書の箇所です。
ヨハネによる福音書4章5−9節にはこうあります。【それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである】。
サマリアの女性がイエスさまと出会ったのは、正午ごろのことでした。サマリアの女性はお昼に水をくみにきました。ふつうは水をくみにくるのは朝であったりするわけです。しかしサマリアの女性はあまり人と会いたくないので、人がいないときに水をくみにきていたのです。あとのイエスさまとの会話のなかにも出てきますが、サマリアの女性は男女関係のことで、あまりよく言われていなかったのだと思います。
イエスさまはサマリアの女性に水を飲ませてほしいと頼みます。イエスさまはユダヤ人です。ユダヤ人とサマリア人は仲が良いわけではありませんでした。ユダヤ人はサマリア人のことを差別していました。それでサマリアの女性は、「なんでわざわざあなたたちが嫌っているサマリア人の女性であるわたしに水をのませてくれと頼んだりするのか」と言うわけです。
ヨハネによる福音書4章10ー12節にはこうあります。【イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」】。
イエスさまはサマリアの女性に、「あなたがわたしのことをどういう人か知っていたら、あなたのほうから、命の水を飲ませてくださいと言っただろう」と言われました。サマリアの女性は、イエスさまがちょっともったいぶった、わけのわからないことを言うので、ちょっと戸惑います。サマリアの女性は、「あなたは水を飲ませるといっても、水をくむ物をもっていないじゃないですか。井戸はとっても深いのですよ。どうやって、その生きた水を手に入れることができるのですか。あなたはもったいぶって自分のことを偉い人のようにほのめかすけれども、私たちの先祖のヤコブよりも偉いのですか。この井戸はヤコブが私たちのために用意してくださった井戸なのです」と言いました。
ヨハネによる福音書4章13−15節にはこうあります。【イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」】。
イエスさまはわたしがあなたに与える水は、飲む者が決して渇くことがない水だと、サマリアの女性に言いました。わたしが与える水はその人の中で泉となり、永遠の命に至る水なのだと、イエスさまは言われます。サマリアの女性はイエスさまが言われることが、いまひとつよくわかりません。何度も何度もここにくみにくることのないように、その水をわたしにくださいと、サマリアの女性は言いました。井戸に水をくみにくることは、サマリアの女性にとってとても大変な労力であるとともに、いろいろな人からの不快な出来事を経験するかも知れないことでした。できればそうした不快な出来事を経験することなく生きていきたいと、サマリアの女性は思っていたことだと思います。
ヨハネによる福音書4章16−20節にはこうあります。【イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」】。
イエスさまもまたサマリアの女性があまりふれてほしくないことを話し出されます。サマリアの女性は五人の夫がいました。そして今連れ添っている人もいました。まあ現代であれば、だれがだれと付き合っていようといまいと、「余計なお世話よ」と言えば良いわけですけれども、イエスさまの時代はそういうわけでもありません。いろいろな事情があるにしても、サマリアの女性はあまりふれてほしくないことだっただろうと思います。しかし初対面であるのに、イエスさまはサマリアの女性のことについてよく知っているので、サマリアの女性はイエスさまのことを預言者だと思います。
ヨハネによる福音書4章21−26節にはこうあります。【イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」】。
イエスさまはサマリアの女性に「わたしを信じなさい」と言われました。そしていまはサマリア人はゲリジムさんというこの山で神さまを礼拝し、ユダヤ人はエルサレムで神さまを礼拝している。そして互いに憎みあったり、傷つけあったりしている。しかしそうしたことを越えて、聖霊によって真理によって、神さまを礼拝するときがくると、イエスさまは言われました。そのことを聞いて、サマリアの女性は「わたしはキリストと呼ばれるメシアが、やがて私たちのところにきてくださり、私たちを救ってくださることを知っています」と言います。そしてイエスさまは「あなたと話をしているこのわたしがキリストと呼ばれるメシアなのだ」と言われました。
サマリアの女性は、五人の夫とおつれあいとのことで、周りの人々からいろいろと言われたり、冷たくあしらわれるというようなことがあったのだろうと思います。そのため人々がいないときを見計らって、昼に水をくみにきていました。彼女は渇いていたのだと思います。どのような状態が渇いた状態なのかというのは、なかなか説明がしにくいのです。わたしは個人的に、サマリアの女性と知り合いであるというわけでもないわけです。しかしサマリアの女性は、イエスさまに「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と応えた言葉には切実なものがあります。辞書によりますと、「渇く」とは「満たされぬ気持ちがいらだたしいほど高まる。心から強く欲しがる」とあります。サマリアの女性はもういやになっていたのです。
中原中也の「生い立ちの歌」のように、みぞれが・あられが・ひょうが・ひどいふぶきが、サマリアの女性のうえに吹いているような気持ちを、彼女は抱えていたあろうと思います。
私の上に降る雪は
霙(みぞれ)のようでありました
私の上に降る雪は
霰(あられ)のように散りました
私の上に降る雪は
雹(ひょう)であるかと思われた
私の上に降る雪は
ひどい吹雪(ふぶき)とみえました
そして、そんなときに、サマリアの女性は、イエスさまと出会います。サマリアの女性は自分の渇きをいやしてくれる人と出会ったのでした。そして決して渇かない世界があることを、サマリアの女性は知ったのです。
イエスさまは私たちも、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言ってくださっています。
私たちもときに何もかもいやになって、自分だけの世界に閉じこもりたいような気になることがあります。サマリアの女性のように、だれからも離れて、ひとりになりたいと思うときがあります。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と言いたい時があります。
毎日、いろいろなニュースがテレビやインターネットなどで流れていきます。高齢者が詐欺の被害にあったりします。どうしてこんな人が詐欺の片棒を担いで、逮捕されるのだろうというような若者がいたりします。悪質なホストによって、若い女性が風俗店に売られていくというようなことがあったりします。ロマンス詐欺が殺人事件に発展したというような事件が起こります。検察による違法捜査によって逮捕され、のちに冤罪事件であることがわかったりします。労働組合に対する弾圧が行われるというようなことあったりします。外国人に対するヘイト事件が起こったりします。なんとなく、ニュースを聞きながら、つらい気持ちになり、私たちの住んでいる世界はとても渇いた世界のような気がして、かなしい気持ちになります。
しかしイエスさまは私たちに決して渇かない世界があると教えてくださっています。わたしにつながっていなさい。わたしがあなたたちに、永遠の命に至る水を与えてあげる。わたしの水を飲む者は、決して渇くことがない。
イエスさまは私たちを招き、渇いた世界に生きるのではなく、わたしの愛に満ちた世界に生きなさいと招いてくださっています。
私たちに命の水を与えてくださる方がおられます。私たちはイエス・キリストにつながって、よりよい歩みをしていきたいと思います。
(2024年6月16日平安教会朝礼拝式)