2024年6月16日日曜日

6月16日平安教会礼拝説教要旨(小笠原純牧師)「決して渇かない世界がある」

「決して渇かない世界がある」

聖書箇所 ヨハネ4:5-26。120/521。

日時場所 2024年6月16日平安教会朝礼拝式

  

詩人の中原中也は「生い立ちの歌 Ⅰ」において、自分が若い時のことを区切りをつけて、雪にたとえて歌っています。

生い立ちの歌

   Ⅰ

幼 年 時

私の上に降る雪は

真綿(まわた)のようでありました

少 年 時

私の上に降る雪は

霙(みぞれ)のようでありました

十七〜十九

私の上に降る雪は

霰(あられ)のように散りました

二十〜二十二

私の上に降る雪は

雹(ひょう)であるかと思われた

二十三

私の上に降る雪は

ひどい吹雪(ふぶき)とみえました

二十四

私の上に降る雪は

いとしめやかになりました……


幼年期は、私の上に降る雪は、真綿のようで心地よかったわけですが、そのうち、少年期、17−19歳と年を重ねていくうちに、みぞれやあられ、雹や吹雪となってくるわけですが、しかし24歳では、「私の上に降る雪は、いとしめやかになりました」というように、穏やかになります。


そして、生い立ちの歌Ⅱに続きます。

   Ⅱ

私の上に降る雪は

花びらのように降ってきます

薪(たきぎ)の燃える音もして

凍(こお)るみ空の黝(くろ)む頃

私の上に降る雪は

いとなよびかになつかしく

手を差伸(さしの)べて降りました

私の上に降る雪は

熱い額(ひたい)に落ちもくる

涙のようでありました

私の上に降る雪に

いとねんごろに感謝して、神様に

長生(ながいき)したいと祈りました

私の上に降る雪は

いと貞潔(ていけつ)でありました


若い頃は中原中也もいろいろなことがあり、激しい生活を送ることになりますが、しかし良き出会いがあり、すこしおだやかな気持ちになることができたのだと思います。「私の上に降る雪に いとねんごろに感謝して、神様に 長生(ながいき)したいと祈りました」。中原中也は30歳で天に召されていますから、長生きをしたわけではありませんが、私たちのこころを打つ詩をたくさん残してくれました。

今日の聖書の箇所に出てくる女性も、いろいろとつらい気持ちを抱えながら生きていました。その女性がイエスさまに出あいます。今日の聖書の箇所は「イエスとサマリアの女」という表題のついている聖書の箇所です。

ヨハネによる福音書4章5−9節にはこうあります。【それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである】。

サマリアの女性がイエスさまと出会ったのは、正午ごろのことでした。サマリアの女性はお昼に水をくみにきました。ふつうは水をくみにくるのは朝であったりするわけです。しかしサマリアの女性はあまり人と会いたくないので、人がいないときに水をくみにきていたのです。あとのイエスさまとの会話のなかにも出てきますが、サマリアの女性は男女関係のことで、あまりよく言われていなかったのだと思います。

イエスさまはサマリアの女性に水を飲ませてほしいと頼みます。イエスさまはユダヤ人です。ユダヤ人とサマリア人は仲が良いわけではありませんでした。ユダヤ人はサマリア人のことを差別していました。それでサマリアの女性は、「なんでわざわざあなたたちが嫌っているサマリア人の女性であるわたしに水をのませてくれと頼んだりするのか」と言うわけです。

ヨハネによる福音書4章10ー12節にはこうあります。【イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」】。

イエスさまはサマリアの女性に、「あなたがわたしのことをどういう人か知っていたら、あなたのほうから、命の水を飲ませてくださいと言っただろう」と言われました。サマリアの女性は、イエスさまがちょっともったいぶった、わけのわからないことを言うので、ちょっと戸惑います。サマリアの女性は、「あなたは水を飲ませるといっても、水をくむ物をもっていないじゃないですか。井戸はとっても深いのですよ。どうやって、その生きた水を手に入れることができるのですか。あなたはもったいぶって自分のことを偉い人のようにほのめかすけれども、私たちの先祖のヤコブよりも偉いのですか。この井戸はヤコブが私たちのために用意してくださった井戸なのです」と言いました。

ヨハネによる福音書4章13−15節にはこうあります。【イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」】。

イエスさまはわたしがあなたに与える水は、飲む者が決して渇くことがない水だと、サマリアの女性に言いました。わたしが与える水はその人の中で泉となり、永遠の命に至る水なのだと、イエスさまは言われます。サマリアの女性はイエスさまが言われることが、いまひとつよくわかりません。何度も何度もここにくみにくることのないように、その水をわたしにくださいと、サマリアの女性は言いました。井戸に水をくみにくることは、サマリアの女性にとってとても大変な労力であるとともに、いろいろな人からの不快な出来事を経験するかも知れないことでした。できればそうした不快な出来事を経験することなく生きていきたいと、サマリアの女性は思っていたことだと思います。

ヨハネによる福音書4章16−20節にはこうあります。【イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」】。

イエスさまもまたサマリアの女性があまりふれてほしくないことを話し出されます。サマリアの女性は五人の夫がいました。そして今連れ添っている人もいました。まあ現代であれば、だれがだれと付き合っていようといまいと、「余計なお世話よ」と言えば良いわけですけれども、イエスさまの時代はそういうわけでもありません。いろいろな事情があるにしても、サマリアの女性はあまりふれてほしくないことだっただろうと思います。しかし初対面であるのに、イエスさまはサマリアの女性のことについてよく知っているので、サマリアの女性はイエスさまのことを預言者だと思います。

ヨハネによる福音書4章21−26節にはこうあります。【イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」】。

イエスさまはサマリアの女性に「わたしを信じなさい」と言われました。そしていまはサマリア人はゲリジムさんというこの山で神さまを礼拝し、ユダヤ人はエルサレムで神さまを礼拝している。そして互いに憎みあったり、傷つけあったりしている。しかしそうしたことを越えて、聖霊によって真理によって、神さまを礼拝するときがくると、イエスさまは言われました。そのことを聞いて、サマリアの女性は「わたしはキリストと呼ばれるメシアが、やがて私たちのところにきてくださり、私たちを救ってくださることを知っています」と言います。そしてイエスさまは「あなたと話をしているこのわたしがキリストと呼ばれるメシアなのだ」と言われました。

サマリアの女性は、五人の夫とおつれあいとのことで、周りの人々からいろいろと言われたり、冷たくあしらわれるというようなことがあったのだろうと思います。そのため人々がいないときを見計らって、昼に水をくみにきていました。彼女は渇いていたのだと思います。どのような状態が渇いた状態なのかというのは、なかなか説明がしにくいのです。わたしは個人的に、サマリアの女性と知り合いであるというわけでもないわけです。しかしサマリアの女性は、イエスさまに「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と応えた言葉には切実なものがあります。辞書によりますと、「渇く」とは「満たされぬ気持ちがいらだたしいほど高まる。心から強く欲しがる」とあります。サマリアの女性はもういやになっていたのです。

中原中也の「生い立ちの歌」のように、みぞれが・あられが・ひょうが・ひどいふぶきが、サマリアの女性のうえに吹いているような気持ちを、彼女は抱えていたあろうと思います。

私の上に降る雪は

霙(みぞれ)のようでありました

私の上に降る雪は

霰(あられ)のように散りました

私の上に降る雪は

雹(ひょう)であるかと思われた

私の上に降る雪は

ひどい吹雪(ふぶき)とみえました

そして、そんなときに、サマリアの女性は、イエスさまと出会います。サマリアの女性は自分の渇きをいやしてくれる人と出会ったのでした。そして決して渇かない世界があることを、サマリアの女性は知ったのです。

イエスさまは私たちも、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言ってくださっています。

私たちもときに何もかもいやになって、自分だけの世界に閉じこもりたいような気になることがあります。サマリアの女性のように、だれからも離れて、ひとりになりたいと思うときがあります。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と言いたい時があります。

毎日、いろいろなニュースがテレビやインターネットなどで流れていきます。高齢者が詐欺の被害にあったりします。どうしてこんな人が詐欺の片棒を担いで、逮捕されるのだろうというような若者がいたりします。悪質なホストによって、若い女性が風俗店に売られていくというようなことがあったりします。ロマンス詐欺が殺人事件に発展したというような事件が起こります。検察による違法捜査によって逮捕され、のちに冤罪事件であることがわかったりします。労働組合に対する弾圧が行われるというようなことあったりします。外国人に対するヘイト事件が起こったりします。なんとなく、ニュースを聞きながら、つらい気持ちになり、私たちの住んでいる世界はとても渇いた世界のような気がして、かなしい気持ちになります。

しかしイエスさまは私たちに決して渇かない世界があると教えてくださっています。わたしにつながっていなさい。わたしがあなたたちに、永遠の命に至る水を与えてあげる。わたしの水を飲む者は、決して渇くことがない。

イエスさまは私たちを招き、渇いた世界に生きるのではなく、わたしの愛に満ちた世界に生きなさいと招いてくださっています。

私たちに命の水を与えてくださる方がおられます。私たちはイエス・キリストにつながって、よりよい歩みをしていきたいと思います。





(2024年6月16日平安教会朝礼拝式)

2024年6月13日木曜日

6月9日平安教会礼拝説教要旨(仲程愛美牧師)「いのちに仕える」

「いのちに仕える」 仲程愛美牧師

マタイによる福音書 6:25-34節

昨年、スペイン語に由来する「ケセラセラ」がタイトルになった曲が流行しました。歌詞を見ると単純な応援ソングとは言い切れず、息詰まりそうな人生でも「なるようになる」からと、もがきながら歩んでいく姿が感じられます。

人間にはそれぞれ、悩みや心配事は尽きません。どうにもこうにもならないことは、運や天に任せて手放すしかない。先人たちは、思い煩いを抱える人間の有り様をこのように考えるに至ったのです。

イエスさまの時代も同じようなことが起こっていたようです。何を食べようか。何を飲もうか。何を着ようか…そのような人々に向けてイエスさまはこう語りかけます。

「空の鳥、野の花々に目を向けてごらん。鳥も花もあくせくせず、ただその日その日を生きている。しかしそうした鳥も花々もちゃんと神に養ってもらっているではないか。あなたたちは鳥や花以上に、神が思いを込めて創造された人ではないのかい?なぜ鳥や花も悩んでいないようなことで心配し、自分が生きるために何をしようかと悩むんだ?生きるために必要なことはすべて神が知っておられる。だから人が思い悩むことはない。悩みや心配事を神に任せなさい。」

人が悩むのは生きている証拠とも言えます。知識や経験があるからこそ、分析し物事を予測して不安になるのです。人間だからこそ悩む。その私たちに「思い悩むな」というのですから、イエスさまの発言は楽観的すぎる?あるいは無責任?と感じるかもしれません。けれどもこうした悩み尽きぬ私たちに、イエスさまは神という存在がいることを語り、人生を委ねてみてはどうかと言うのです。そして「委ねる」の先にある私たちにできることを提示しています。

「まず神の国と義を求めよ」と。これらを言い換えるならば、それらは命を思うこと、命に仕えることだと思います。神の国が実現する時、神の義が守られる時は、その存在が何よりも大切だとされる時間、空間だからです。

命を取り巻く事柄を心配するなと語ったイエスが示す先にあったのは、いのちに仕えること。いのちに向き合うことでした。結局、同じことを言っているようにも思えますが、明日のことを思い悩む姿は、つまり自分のことで余裕がなくなり身動きが取れなくなっている状態を表しています。そうした状態から解放され、神に委ねる歩みへとイエスさまは招いています。自分だけでなくすべての「いのち・存在」に仕える、豊かな生き方へと導かれていきましょう。


2024年6月6日木曜日

6月2日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「新しく生き直そうよ」

「新しく生き直そうよ」

聖書箇所 ヨハネ3:1-15。340/575。

日時場所 2024年6月2日平安教会朝礼拝式


5月は、同志社高校の礼拝で説教をしたり、同志社女子中高の礼拝で説教をしたり、同志社大学チャペルアワーで説教をしたり、中学生、高校生、大学生の前で説教をするということがよくありました。普通に生活をしていますと、そんなに多くの中高生や大学生に接するということがありませんから、自分が年をとっているということを意識することはあまりありません。中高や大学の中を歩いていると、この人たちから見るとわたしは「おじいさん」なのだなあと思いました。そのようにわたしも少し気が引ける年頃になりましたので、自分が自分がというよりは、すこしここは若い人にお任せしてという気持ちをもたなければならないなあと思うようになりました。

評論家のレベッカ・ソルニットの『説教したがる男たち』を読みました。本の題を初めてみた時、「おお、説教をしたがる男たち」ということなので、わたしのような牧師の話なのかと思いました。まあ確かに牧師さんは説教をするのが好きだなあと思います。「説教とお説教は、にぎりとおにぎりくらい違う」と言われますので、「お説教」にならないように注意をしないければならないと言われます。この『説教したがる男たち』の「説教」というのは、いわゆる、男の人は若い女性などをみると、自分の知識を教えたがるというようなことです。

レベッカ・ソルニットが、パーティーに参加したときの話です。その家の主人が帰ろうとしているレベッカ・ソルニットと彼女の友だちのサリーに話しかけてきます。【「いやいや、もう少しゆっくりしていきなさい。まだ君たちとは碌に話していないじゃないか」。威圧的な感じの、大金持ちの男だった」。・・・。「君は二冊ほど本を出しているそうだが」「ええと、あと何冊かはあるんですが」「で、何について書いているの?」。・・・。その表情にはすごく既視感があった。はるか彼方までおよぶ自分の権威、そのぼんやりと霞む地平線をじっと見つめながら蕩々と長話をする男の、自己満足しきった表情。・・・。ミスター・インポータント氏が私が当然知っているべき件(くだん)の本について自慢げに語っていると、サリーが「それ、彼女の本ですけど」と割って入った。というか、とにかく男を黙らせようとした。だが彼は聞いちゃいなかった。「だからそれ、彼女の本ですって」とサリーが三、四度繰り返したところで、ようやく彼は理解した。そして十九世紀小説の登場人物か何かのように青ざめた。・・・。彼はショックで口も利けないほどだった】(P.8-10)。

この男性は若い女性に説教をしたいわけです。そして自分の知識を語ったわけですが、でもレベッカ・ソルニットはその分野の専門家です。そしてこの男性は、彼女の本に書いてあることを彼女に教えてあげるということをしてしまうのでした。

この話を読みながら、「ああ、でもこういうことって、わたしにもあるなあ」と思わされました。自分の娘などに対して、いろいろと教えてあげるつもりで話をしているわけですが、あとからよく考えてみると、わたしの知識などもう娘はすでによく知っているのかも知れないなあと思うようになりました。たとえば、アメリカのコロンビア大学でイスラエルによるガザ地区への攻撃に抗議するでもの参加者が300人逮捕されるという事件がありました。するとわたしは娘に知識をひけらかしたいという気持ちになるわけです。そして「昔、『いちご白書』という映画があって、デモの舞台は同じくコロンビア大学だった」というような知識を語りたくなるわけです。でもまあ、そうしたことはわたしが語らなくても、もうすでに娘は知っているだろうと思います。

世の若い人たちはやさしいですから、「そんなこと知ってるよ」というようなことは言うことなく、黙って聞いてくださるとは思いますが、あまりご迷惑をおかけするのもいけないかなあと思うようになりました。とは言うものの、わたしも知識や年齢を重ねて来たわけですから、新しく生まれ変わるということは、なかなかむつかしいですので、どうしたものかなあと思います。

今日の聖書の箇所は、イエスさまから「あなた、新しく生まれ変わったほうが良いよ」と言われた人の話です。ヨハネによる福音書3章1−4節にはこうあります。【さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」】。

ファリサイ派のニコデモはユダヤの議員でした。イエスさまのところに、ある夜、訪ねてきます。夜訪ねてくるというのは、隠れて訪ねてきているということです。昼間にイエスさまのところを訪ねていくと、「ニコデモが、イエスのところを訪ねた」というような噂が広まって、立場が悪くなるかもしれないからです。それで夜、こそこそと訪ねているわけです。それでもやはりニコデモはイエスさまと話したくてたまらなかったのだと思います。まあユダヤの議員であるわけですから、そんな政治的な危険を冒してまで、イエスさまのところに行く必要はないわけです。しかしそうした政治的な危険を冒しても、やはりイエスさまと話がしたかったのです。

ニコデモは一生懸命に、イエスさまのことをユダヤ教のすばらしい教師であると語ります。「あなたは神さまのところから来られたとしか思えない」とまで言うわけです。そのように語るニコデモに、イエスさまは「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。でもニコデモは年を重ね、ファリサイ派のユダヤの議員になっているわけです。いまさら「新たに生まれなければ」と言われても、「はい、そうします」とは言えないのです。まあ年を取るということはそういうことで、いままでに積み重ねてきたものを、そうそうぱっと投げ出してしまうというわけにもいきません。それでちょっと極端な話をニコデモはするわけです。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」。すこし前のドラマで「ブラッシュアップライフ」というのがありました。赤ちゃんから2周目の人生を始めるというヒューマンコメディーのドラマでした。また赤ちゃんから始めるというのも、またそれは大変です。

ヨハネによる福音書3章5−8節にはこうあります。【イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」】。

ニコデモは一般的な意味で、「新しく生まれる」「生き方を変える」「人生やり直す」というような意味で、イエスさまの言葉を受け取り、「そんな、年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と答えました。しかしイエスさまは、一般的な意味ではなく、永遠のいのちの問題として、新しく生まれるということを語っておられます。

イエスさまは「水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われました。「水と霊によって」というのは、洗礼を受けて、そして神さまの霊によって生きるということでなければ、神の国に入ることはできないということです。洗礼を受けて、神さまからの祝福を受けて、永遠の命に連なる者として生きるということです。それは洗礼を受けることによって、神さまがそのようにしてくださるのだということです。私たちは肉体をもった肉から生まれた者です。肉から生まれた者ですから、当然、限界をもっていきています。私たちはずっと生きるのではなく、必ず死を迎えます。しかし洗礼を受けて、神さまに連なって生きる時に、神さまは私たちを祝福してくださり、私たちを霊から生まれた者としてくださるということです。

そしてイエスさまは、水と霊とによって新しくうまれた者は、自由だと言われます。風のように自由なのです。何かに縛られているのではなく、自由に、自分の感じるままに歩んでいくことができるのです。「こうしたらだめだろうか」「ああしたら、みんなから非難を受けるだろうか」。そうしたことにとらわれることなく、自由に歩んでいくことができるのです。

ファリサイ派の議員であるニコデモからすると、風のように自由に、聖霊のように自由に歩むということは、とても信じられないことです。ユダヤの社会は律法というものがあり、それを守らなければならないということがありました。何かの事情で律法を守ることができなければ、多くの人々から非難されるというようなことがありました。イエスさまは安息日に違反していると、いつもファリサイ派の人々や律法学者たちから非難を受けていたのです。

私たちはいま日本である程度の自由のある生活をしています。アジア太平洋戦争前のように、女性に参政権がないという時代に生きているわけでもありません。女性は裁判官になれないというわけでもありません。しかしイエスさまの時代のユダヤの社会は、私たちの社会には考えられないほど、自由に生きることを妨げるものがありました。

ヨハネによる福音書3章9-15節にはこうあります。【するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。】。

イエスさまは、水と霊によって新しく生まれる者は、神さまの祝福を受けて、自由に生き生きと生きていくことができると言われます。しかしニコデモはそうしたイエスさまが言われる生き方が、どうも理解できません。「どうして、そんなことがありえましょうか」というのです。

イエスさまは「どうもよくわからない」と言うニコデモに対して、それでも働きかけます。あなたは私のことを神さまのもとから来た教師であると言ったではないか。いままでわたしがいろいろなところで話したことや、行なった癒しや奇跡を見てきただろう。わたしを信じなさい。「できない」「わからない」と言っているのではなく、【天から降って来た者】であるわたしを信じなさい。「ただ神さまのもとから来たわたしを信じなさい」。そうすればわたしによって、あなたは永遠の命をえる者になることができる。そのように、イエスさまは言われました。

イエスさまは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」と言われました。私たちクリスチャンは洗礼を受け、新たに生まれた者として生きています。まあ、そのわりにはイエスさまが言われるように、自由に生き生きと生きていないのではないのかというようにも思えます。昔ながらのしきたりにとらわれて、霊から生まれた者として生きていないのではないかと思えます。

新たに生まれた者として生きるということは、神さまを中心にして生きていくということです。神さまを中心にして生きていくときに、私たちは自由に生きることができます。人間のことばかりを考え、自分のことばかりを考えて生きていくと、自由に生きていくことができません。

私たちクリスチャンは、洗礼を受け、新しく生まれた者として生きています。ですからやはり、神さまを求めつつ歩んでいきたいと思います。神さまから罪赦され、神さまから祝福を受けている者として、永遠のいのちに連なる者として、勇気をもって歩んでいきたいと思います。聖霊に導かれて、軽やかに生きていきたいと思います。

神さまが私たちを愛し、導いてくださっています。神さまを信じて、すこやかに、そして軽やかに歩んでいきましょう。



  

(2024年6月2日平安教会朝礼拝式)


12月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 

               ティツィアーノ・ヴェチェッリオ               《聖母子(アルベルティーニの聖母)》