2024年6月6日木曜日

6月2日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「新しく生き直そうよ」

「新しく生き直そうよ」

聖書箇所 ヨハネ3:1-15。340/575。

日時場所 2024年6月2日平安教会朝礼拝式


5月は、同志社高校の礼拝で説教をしたり、同志社女子中高の礼拝で説教をしたり、同志社大学チャペルアワーで説教をしたり、中学生、高校生、大学生の前で説教をするということがよくありました。普通に生活をしていますと、そんなに多くの中高生や大学生に接するということがありませんから、自分が年をとっているということを意識することはあまりありません。中高や大学の中を歩いていると、この人たちから見るとわたしは「おじいさん」なのだなあと思いました。そのようにわたしも少し気が引ける年頃になりましたので、自分が自分がというよりは、すこしここは若い人にお任せしてという気持ちをもたなければならないなあと思うようになりました。

評論家のレベッカ・ソルニットの『説教したがる男たち』を読みました。本の題を初めてみた時、「おお、説教をしたがる男たち」ということなので、わたしのような牧師の話なのかと思いました。まあ確かに牧師さんは説教をするのが好きだなあと思います。「説教とお説教は、にぎりとおにぎりくらい違う」と言われますので、「お説教」にならないように注意をしないければならないと言われます。この『説教したがる男たち』の「説教」というのは、いわゆる、男の人は若い女性などをみると、自分の知識を教えたがるというようなことです。

レベッカ・ソルニットが、パーティーに参加したときの話です。その家の主人が帰ろうとしているレベッカ・ソルニットと彼女の友だちのサリーに話しかけてきます。【「いやいや、もう少しゆっくりしていきなさい。まだ君たちとは碌に話していないじゃないか」。威圧的な感じの、大金持ちの男だった」。・・・。「君は二冊ほど本を出しているそうだが」「ええと、あと何冊かはあるんですが」「で、何について書いているの?」。・・・。その表情にはすごく既視感があった。はるか彼方までおよぶ自分の権威、そのぼんやりと霞む地平線をじっと見つめながら蕩々と長話をする男の、自己満足しきった表情。・・・。ミスター・インポータント氏が私が当然知っているべき件(くだん)の本について自慢げに語っていると、サリーが「それ、彼女の本ですけど」と割って入った。というか、とにかく男を黙らせようとした。だが彼は聞いちゃいなかった。「だからそれ、彼女の本ですって」とサリーが三、四度繰り返したところで、ようやく彼は理解した。そして十九世紀小説の登場人物か何かのように青ざめた。・・・。彼はショックで口も利けないほどだった】(P.8-10)。

この男性は若い女性に説教をしたいわけです。そして自分の知識を語ったわけですが、でもレベッカ・ソルニットはその分野の専門家です。そしてこの男性は、彼女の本に書いてあることを彼女に教えてあげるということをしてしまうのでした。

この話を読みながら、「ああ、でもこういうことって、わたしにもあるなあ」と思わされました。自分の娘などに対して、いろいろと教えてあげるつもりで話をしているわけですが、あとからよく考えてみると、わたしの知識などもう娘はすでによく知っているのかも知れないなあと思うようになりました。たとえば、アメリカのコロンビア大学でイスラエルによるガザ地区への攻撃に抗議するでもの参加者が300人逮捕されるという事件がありました。するとわたしは娘に知識をひけらかしたいという気持ちになるわけです。そして「昔、『いちご白書』という映画があって、デモの舞台は同じくコロンビア大学だった」というような知識を語りたくなるわけです。でもまあ、そうしたことはわたしが語らなくても、もうすでに娘は知っているだろうと思います。

世の若い人たちはやさしいですから、「そんなこと知ってるよ」というようなことは言うことなく、黙って聞いてくださるとは思いますが、あまりご迷惑をおかけするのもいけないかなあと思うようになりました。とは言うものの、わたしも知識や年齢を重ねて来たわけですから、新しく生まれ変わるということは、なかなかむつかしいですので、どうしたものかなあと思います。

今日の聖書の箇所は、イエスさまから「あなた、新しく生まれ変わったほうが良いよ」と言われた人の話です。ヨハネによる福音書3章1−4節にはこうあります。【さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」】。

ファリサイ派のニコデモはユダヤの議員でした。イエスさまのところに、ある夜、訪ねてきます。夜訪ねてくるというのは、隠れて訪ねてきているということです。昼間にイエスさまのところを訪ねていくと、「ニコデモが、イエスのところを訪ねた」というような噂が広まって、立場が悪くなるかもしれないからです。それで夜、こそこそと訪ねているわけです。それでもやはりニコデモはイエスさまと話したくてたまらなかったのだと思います。まあユダヤの議員であるわけですから、そんな政治的な危険を冒してまで、イエスさまのところに行く必要はないわけです。しかしそうした政治的な危険を冒しても、やはりイエスさまと話がしたかったのです。

ニコデモは一生懸命に、イエスさまのことをユダヤ教のすばらしい教師であると語ります。「あなたは神さまのところから来られたとしか思えない」とまで言うわけです。そのように語るニコデモに、イエスさまは「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。でもニコデモは年を重ね、ファリサイ派のユダヤの議員になっているわけです。いまさら「新たに生まれなければ」と言われても、「はい、そうします」とは言えないのです。まあ年を取るということはそういうことで、いままでに積み重ねてきたものを、そうそうぱっと投げ出してしまうというわけにもいきません。それでちょっと極端な話をニコデモはするわけです。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」。すこし前のドラマで「ブラッシュアップライフ」というのがありました。赤ちゃんから2周目の人生を始めるというヒューマンコメディーのドラマでした。また赤ちゃんから始めるというのも、またそれは大変です。

ヨハネによる福音書3章5−8節にはこうあります。【イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」】。

ニコデモは一般的な意味で、「新しく生まれる」「生き方を変える」「人生やり直す」というような意味で、イエスさまの言葉を受け取り、「そんな、年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と答えました。しかしイエスさまは、一般的な意味ではなく、永遠のいのちの問題として、新しく生まれるということを語っておられます。

イエスさまは「水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われました。「水と霊によって」というのは、洗礼を受けて、そして神さまの霊によって生きるということでなければ、神の国に入ることはできないということです。洗礼を受けて、神さまからの祝福を受けて、永遠の命に連なる者として生きるということです。それは洗礼を受けることによって、神さまがそのようにしてくださるのだということです。私たちは肉体をもった肉から生まれた者です。肉から生まれた者ですから、当然、限界をもっていきています。私たちはずっと生きるのではなく、必ず死を迎えます。しかし洗礼を受けて、神さまに連なって生きる時に、神さまは私たちを祝福してくださり、私たちを霊から生まれた者としてくださるということです。

そしてイエスさまは、水と霊とによって新しくうまれた者は、自由だと言われます。風のように自由なのです。何かに縛られているのではなく、自由に、自分の感じるままに歩んでいくことができるのです。「こうしたらだめだろうか」「ああしたら、みんなから非難を受けるだろうか」。そうしたことにとらわれることなく、自由に歩んでいくことができるのです。

ファリサイ派の議員であるニコデモからすると、風のように自由に、聖霊のように自由に歩むということは、とても信じられないことです。ユダヤの社会は律法というものがあり、それを守らなければならないということがありました。何かの事情で律法を守ることができなければ、多くの人々から非難されるというようなことがありました。イエスさまは安息日に違反していると、いつもファリサイ派の人々や律法学者たちから非難を受けていたのです。

私たちはいま日本である程度の自由のある生活をしています。アジア太平洋戦争前のように、女性に参政権がないという時代に生きているわけでもありません。女性は裁判官になれないというわけでもありません。しかしイエスさまの時代のユダヤの社会は、私たちの社会には考えられないほど、自由に生きることを妨げるものがありました。

ヨハネによる福音書3章9-15節にはこうあります。【するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。】。

イエスさまは、水と霊によって新しく生まれる者は、神さまの祝福を受けて、自由に生き生きと生きていくことができると言われます。しかしニコデモはそうしたイエスさまが言われる生き方が、どうも理解できません。「どうして、そんなことがありえましょうか」というのです。

イエスさまは「どうもよくわからない」と言うニコデモに対して、それでも働きかけます。あなたは私のことを神さまのもとから来た教師であると言ったではないか。いままでわたしがいろいろなところで話したことや、行なった癒しや奇跡を見てきただろう。わたしを信じなさい。「できない」「わからない」と言っているのではなく、【天から降って来た者】であるわたしを信じなさい。「ただ神さまのもとから来たわたしを信じなさい」。そうすればわたしによって、あなたは永遠の命をえる者になることができる。そのように、イエスさまは言われました。

イエスさまは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」と言われました。私たちクリスチャンは洗礼を受け、新たに生まれた者として生きています。まあ、そのわりにはイエスさまが言われるように、自由に生き生きと生きていないのではないのかというようにも思えます。昔ながらのしきたりにとらわれて、霊から生まれた者として生きていないのではないかと思えます。

新たに生まれた者として生きるということは、神さまを中心にして生きていくということです。神さまを中心にして生きていくときに、私たちは自由に生きることができます。人間のことばかりを考え、自分のことばかりを考えて生きていくと、自由に生きていくことができません。

私たちクリスチャンは、洗礼を受け、新しく生まれた者として生きています。ですからやはり、神さまを求めつつ歩んでいきたいと思います。神さまから罪赦され、神さまから祝福を受けている者として、永遠のいのちに連なる者として、勇気をもって歩んでいきたいと思います。聖霊に導かれて、軽やかに生きていきたいと思います。

神さまが私たちを愛し、導いてくださっています。神さまを信じて、すこやかに、そして軽やかに歩んでいきましょう。



  

(2024年6月2日平安教会朝礼拝式)


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