2025年5月28日水曜日

5月25日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「祈りによってわたしが整えられる」

「祈りによってわたしが整えられる」

聖書箇所 マタイ6:1-15。18/518。

日時場所 2025年5月25日平安教会朝礼拝

 

いま、フジテレビは芸能人によるフジテレビ元女性社員への性加害問題で、社会的な信用を失っています。企業風土を一新するための具体的な取組みを発表しました。【「社内の一部に『楽しくなければテレビじゃない』を過度に重視した風土が根付いていたことを心より反省」するとしたうえで、「楽しくなければテレビじゃない」からの脱却を明らかにした。】ということです。まあいいかげんなことをしていると、やっぱり企業もだめになっていくということなのでしょうか。

フジテレビは20年前に、買収問題でゆれていました。2005年3月から4月にかけてライブドアとフジテレビが、にっぽん放送をめぐって買収合戦を行ないました。そのとき日本中で「いったい会社は誰のものなのか」という議論がおきました。会社は株主のものだ。会社は経営者のものだ。いやいや社員のものだ。社会のものだ。いろいろなことが言われました。

『会社は株主のものではない』(洋泉社)に、マイクロソフトのビルゲーツについてのエピソードが書かれてあります。パソコン・ソフトで有名なウインドーズをつくったマイクロソフト(ビル・ゲイツが設立)という会社は、過去は明らかに「社員のもの」だったそうです。【マイクロソフト社は設立28年間ものあいだ、株主への配当をしていなかったからです。配当を始めたのは最近のこと、2003年からです。・・・。誰が儲かっているのかというと、長期的な株主と社員でした。「ビルと社員が楽しければいい」というすごい世界だったんですね。1995年ごろに、わたしはビルに訊きました。「会社って、株主のものだよね?」。すると、「バカいうんじゃない。顧客、ユーザーのものだ」と答えました。でも、それはあくまで営業トークであって、本音では「自分と社員のものだ」と考えていたと疑っています(笑)】(P.161)(成毛眞、Makoto Naruke、「株主主義という考え方もトレンドにすぎない」『会社は株主のものではない』、洋泉社)。

ビル・ゲーツは大金持ちですが、慈善家でもあります。【ビル・ゲイツ氏、2045年までに資産の99%を寄付すると発表。感染症や貧困の対策に】(2025年5月9日BBCNEWSJAPAN)ということです。「私が死んだときに『彼は金持ちのまま死んだ』とは言われたくない」ということです。アメリカと日本とでは社会システムも違いますから、ビル・ゲーツはすごいと誉めたえようとも思いませんが、でも「私が死んだときに『彼は金持ちのまま死んだ』とは言われたくない」というコメントは良いコメントだと思います。

平川克美という実業家は、「会社は誰のものでもない。幻想共同体としての会社という視点」という文書のなかで、こんなことを言っておられます。【お金という指標を至上目的とした競争のなかで会社を考えると、どうしても3年ぐらいのスパンでしか考えられませんが、会社というものをもっと長いスパンで考えてみませんかと。10年や20年、あるいは100年というようなスパンで考えると、どういうあり方があるのかを考えてみませんか、ということです。実際、会社を100年というスパンでどうこうしていこうという考えのなかに、株主という考え方が入ってくるかというと、そこには投機的な株主はもういません。だいたい100年でなんとかしようという会社には誰も投資しないでしょうし。そのくらい時間と価値の指標を変えてみると、会社というものもまったく別の顔をもって見えるようになるということです】(P.129)。

こんなふうに考えると、会社と教会というのはある意味、似ているところばあります。教会というところは、神さまを相手にしていますから、長いスパンで物事をみています。神さまが相手ですからすぐに評価をしてもらえなくてもいいわけです。「まあ、そのうち」と言いますか、「まあ、神さまのところに帰ったときに評価してもらえたらいいか」と思います。なにか善行をしたとしても、直接、そのことを善行をした相手やあるいは周りの人々から返してもらわなくても、あとから神さまからほめてもらえたらいいかということになります。投機的な株主はそうはいかないわけです。短期間でお金という形で回収しないといけないわけですから、あんまり悠長なことはいっておられません。投資した事柄に対して「即、回収」しないといけないわけです。しかしイエスさまは今日の聖書の箇所で、「投機的な株主のような歩みは結局は損だ」と言われます。「そんなことがどこに書いてあっただろうか???」と思いながら、今日の聖書の箇所を見てみましょう。

今日の聖書の箇所は「施しをするときには」「祈るときには」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書5−7章は「山上の説教」と言われる聖書の箇所です。マタイによる福音書5章1節のところの表題には「山上の説教(五ー七章)を始まる」とあります。山上の説教はイエスさまが語られた説教がまとめられている聖書の箇所です。

マタイによる福音書6章1−4節にはこうあります。【「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」】

イエスさまは善行、良い行ないをするときは注意しないといけないと言われます。だれかから見てもらおうと思って善行をしたら損だと、イエスさまは言われました。だれかにこの世でその善行に対する報いを受けてしまったら、もう神さまが報いてくださることがなくなるから、隠れてしないと損だよと、イエスさまは言われました。偽善者たちは人からほめてもらえるように、わざと会堂や街角で施しをする。そうすると「ああ、あの人えらいわ!」と言ってもらえるわけです。そうするとまあその人の評判も上がるわけですから、まあうれしいわけです。それでもう報いを受けてしまっているわけですから、神さまからは報いを受けることはないと、イエスさまは言われます。「それって、損やろ」と、イエスさまは言われます。「どうせ報いを受けるのなら、人から受けるよりも神さまから受けたほうがええことない?」。そんなふうにイエスさまは言われます。

マタイによる福音書6章5−8節にはこうあります。【「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ】。

善行と同じく祈るということも、人々から評価される大きなポイントでした。「あの人は信仰熱心な人で、いつもお祈りをしている」というふうに見られることが、とてもうれしいことであるわけです。だから偽善者たちは人から見てもらうために、会堂や大通りの角でお祈りをしたがりました。しかしイエスさまはそれではもうすでに人々から報いを受けてしまうから損だろと言われます。お祈りは隠れたところでしなさい。そうすれば神さまが報いてくださるから。そして神さまはあなたの願っていることをもうすでに知っていてくださっているから、ながながと、くどくどと祈る必要はないと、イエスさまは言われました。

マタイによる福音書6章9−15節にはこうあります。【だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」】。いわゆる私たちが礼拝でいつもお祈りをしている「主の祈り」の原形です。長々とくどくどと祈らなくても、短くこのように祈りなさいと、イエスさまは弟子たちに教えられたのでした。

イエスさまは「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」と言われます。マタイによる福音書6章4節にありますし、マタイによる福音書6章6節にはもあります。またマタイによる福音書6章18節にもあります。「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」。

人は何か良いことをしたら、すぐにほめてもらいたいと思います。なかなかほめてもらえなかったら、どうして自分はこんなに評価が低いんだと怒りたくなったりします。しかしイエスさまはそんな人間の小さな評価よりも、「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」ということの方が大切だと言われます。そんな投機的な株主のようにすぐに報いを回収しようとするのではなく、長期的な展望に立って「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」ということを心に留めて生きていきなさいと、イエスさまは言われました。「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」のであれば、私たちはあまり小さなことで一喜一憂する必要がなくなります。

今日の聖書の箇所で、イエスさまが語っておられることです。「施しをするときには」「祈るときには」ということです。小さな良き業に励み、そして神さまにお祈りをするということです。

【隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる】というのは、不平不満の多い私たちに対するイエスさまのユーモアです。私たちは何かいいことをしたりすると、評価されることを望みます。そしてなかなか自分が評価されないと、「なんでこんなにいいことをしているのに、わたしは評価されないのだろう」と腹立たしく思えてきます。

「イエスさま、わたしはこんなにいいことをいろいろとしたのに、だれも評価してくれません」と、私たちがイエスさまに愚痴をこぼすと、イエスさまはこう言われるわけです。「よかったよ。とっても、ラッキーだと思う、あなたは。人が報いてくれなかったから、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。あなたは、天国で赤丸急上昇中や。天国の積立貯金の額がめちゃめちゃ増えてるよ」。そしてマタイによる福音書6章19-21節の「天に宝を積みなさい」という話へとつながっていくわけです。

小さな良き業に励み、そして神さまに祈りをする。小さな良き業に励むと言われても、わたしは悪人だから自信がないという方もおられるかも知れません。わたしと同じですね。わたしもそうです。でも神さまは私たちを祈りによって変えてくださいます。神さまに毎日毎日お祈りをしていると、必ず神さまは私たちをつくり変えてくださいます。私たちは祈りによって整えられていきます。ですから祈るということはとても大切なことなのです。私たちの神さまは願う前から、私たちに必要なものをご存じです。それじゃあ、祈る必要はないじゃないかと思えますが、それは違うわけです。私たちが祈ることによって、私たち自身が整えられていくのです。自分勝手な願いをする私たちから、神さまの御旨を求めていく私たちへと整えられていくのです。

【隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる】。私たちに報いてくださる神さまを信じて、そして小さな良き業に励む。祈りながら、神さまが私たちを整えてくださることを信じて歩んでいく。

お一人お一人の歩みを、神さまは豊かに祝福してくださいます。


(2025年5月25日平安教会朝礼拝)




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