「静かに自らを省みる」
聖書箇所 マルコ7:14-23。484/493。
日時場所 2025年11月2日平安教会朝礼拝式・聖徒の日礼拝
今日は聖徒の日です。先に天に召された方々を覚え、ご家族の方々と共に、礼拝を守っています。愛する人を天に送られたご家族の皆様は、とても悲しい思いをしておられることと思います。神さまの慰めがありますようにとお祈りいたします。
みなさんのご家族は、この平安教会で日曜日に礼拝を守っておられました。毎日曜日に教会に集い、聖書を読み、賛美歌を歌い、こころを合わせて祈っておられました。ご家族のみなさんもぜひ教会にいらしてください。そのことを天に召された方々はとても喜んでおられることと思います。
少し前、日本ではよく「ダイバーシティ」「ダイバーシティ」という言葉が使われていました。とくに企業など、ビジネスの世界でよく使われていました。カタカナで使われているというところが、いかにもビジネスの世界で使われている言葉であるわけです。「『お台場シティ』という新しい場所の名前か何かなのかというようなことを考えているようでは、この世界では生きていけない。生きていくには『ダイバーシティ』が必要なのだ」。「ダイバーシティ」とは多様性を意味する言葉です。【ダイバーシティ(多様性)とは、異なる背景や特性を持つ個人が共存し、その違いを尊重し合うことを指します。これは、性別・人種・年齢・障害の有無・性的指向・宗教・文化など、さまざまな面での多様性を含みます。現代社会において、ダイバーシティは社会の進化とともに重要なテーマとなっており、特に企業経営においては多様な人材を受け入れ、その力を最大限に引き出すことが求められています。ダイバーシティは単なる多様化ではなく、包括的なアプローチを必要とし、すべての人々が平等に機会を持ち、貢献できる環境を作り出すことが目標です。】(金山杏佑子の解説)。でもお台場には「お台場ダイバーシティ東京プラザ」というショッピングモールがあるようですので、大阪の人だけではなく、東京の人もどうでも良いダジャレを考えるようです。多様性、とても大切なことだと思います。しかしいまは「日本人ファースト」というようなことが政治の世界で言われるようになり、あの「ダイバーシティ」はどこにいってしまったのだろうかと不思議な気がします。すこし苦労して覚えた横文字なのに、さびしい気がいたします。
よいものは外から来るという文化や信仰が、日本にはあります。そして客人(まれびと)信仰などのように、外からやってくる人を歓待して迎えるという信仰があります。これは日本だけということでもないと思います。聖書にもそうしたお話が書かれてあります。まあ実際、私たちが使っている漢字などは、中国から来ているわけです。陶器の技術も中国から朝鮮を経由して、日本に伝わっています。明治時代以降、私たちはいわゆる西洋からいろいろな文化や社会の仕組みを学びました。私たちもまたピカチュウとかスーパーマリオとか、ドラえもんや鬼滅の刃のようなマンガ・アニメーションなどなど、良きものを世界に対して伝えているわけです。世界の人たちはとても喜んでいます。
一方で、江戸時代末期の「尊王攘夷運動」のように、外からやってくる人たちに対して攻撃を加えるというようなこともありました。まあなんか外からやってくる人たち、自分たちと違う習慣や価値観をもつ人たちに対して、ちょっと不安な気持ちになるというのも、また人間の気持ちとしてはあるのだろうと思います。そんなときは「あいつらが悪い」というような気持ちになるのではなく、ちょっと落ち着いて考えてみるということが大切なのだろうと思います。
聖書の時代にも、外からやってくるものが悪いものを持ち込んでくるというような考え方がありました。ユダヤの人たちは自分たちは神さまから特別に愛されている民であるという気持ちが強かったので、異教徒と付き合うのは汚れたことだというような考えをもつ人たちもいました。
今日の聖書の箇所は「昔の人の言い伝え」という表題のついた聖書の箇所の一部です。マルコによる福音書7章14−16節にはこうあります。【それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」*聞く耳のある者は聞きなさい。】。
ユダヤ教には「これを食べてはだめです」という決まりがあります。イスラム教にも「これを食べてはだめです」という決まりがあります。まあそういう決まりがある社会というのは、まああるわけです。旧約聖書のレビ記11章には「清いものと汚れたものに関する規定」という表題のついた聖書の箇所があります。旧約聖書の177頁です。まあいろいろな生き物が、清いものと汚れたものに分けられて、汚れたものは食べてはいけないということになっています。
たとえばレビ記11章9−12節にはこうあります。【水中の魚類のうち、ひれ、うろこのあるものは、海のものでも、川のものでもすべて食べてよい。しかしひれやうろこのないものは、海のものでも、川のものでも、水に群がるものでも、水の中の生き物はすべて汚らわしいものである。これらは汚らわしいものであり、その肉を食べてはならない。死骸は汚らわしいものとして扱え。水の中にいてひれやうろこのないものは、すべて汚らわしいものである。】。ですからユダヤ人はうなぎは食べないわけです。まあもともとは、食べてみたけど、ちょっと体の調子が悪くなったので、これは食べられないものだから、食べないようにしようというようなものだっただろうと思います。
日本でも食べ合わせが悪い食べ物があるように言われたりします。「うなぎと梅干は食べ合わせが悪い」とか「天ぷらとスイカは一緒に食べたらだめだ」というようなことがあります。日本でも、しいたけは食べていいけれども、毒きのこは食べてはだめだというようなことがあるわけです。
食べることができるものと食べることができないものとかはあるわけですが、でもその理由が汚れているか汚れていないかというようなことになってくると、ちょっとおかしなことになってきます。「あんた、うなぎ食べたから、汚れている」とか「豚肉食べたから汚れている」とか、ちょっと困るわけです。なので、そんなことはないのだと、イエスさまは言われました。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と言われたわけです。
マルコによる福音書7章17−19節にはこうあります。【イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」】。
イエスさまの弟子たちは、イエスさまが「汚れたものを食べたから、汚れる、というようなことはないのだ」と言われたことについて、もう一度、家に帰って、イエスさまに確認します。イエスさまは口から入ったものは、腹の中に入って、そして外に出されるのだから、汚れたものを食べたら汚れるというようなことはないのだと言われます。腹の中に入ったら、すべての食べ物は清められるのだ、「ああ、おいしかった」って思うだろうと、イエスさまは弟子たちに言われました。
マルコによる福音書7章20−23節にはこうあります。【更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」】
あなたたちは汚れた食べ物を口に入れたら汚れるというようなことを言うけれど、「人の口から出てくるものこそ、人を汚すのだ」と、イエスさまは言われました。あなたのこころのなかに目を向けなさい。あなたの心の中には悪い思いがたくさんあるだろう。人の心の中には、いろいろな悪い思いがあるのだ。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別。そうした悪があなたの中から出てきて、人を汚すのだから、注意をしなければならないと、イエスさまは言われました。
自分たちが特別な民であるという選民意識が強く、悪いものは外からくると考えていた人たちに対して、イエスさまは「あなたたちは自分の心の中に目を向けた方がよい」と言われました。こころが騒ぎ、「わるいやつらがいる」というような気持ちになったときは、すこし落ち着いて考えてみたほうが良いわけです。
だいたい、過剰に腹がたったりする時は、自分の体や心の健康状態を考えてみたほうが良いわけです。だいたい体の調子が良い時や心の調子が良い時は、人はあんまり腹を立てたりしないものです。おいしいソフトクリームを食べながら、腹を立てる人とか、まああんまり見たことないのです。過剰に腹がたったりする時は、自分の体や心の健康状態を考えてみたほうが良いわけです。「また小笠原牧師は医者でもないのに適当なことを言っているなあ」と思われる方もおられるかも知れません。
お台場ダイバーシティ東京プラザから車で10分のところにあります、がん研有明病院の腫瘍(しゅよう)精神科部長の清水研(しみず・みがく)さんも「怒りは傷ついているサイン」と言っています。【怒りは、自分の根っこにある本質から出てきます。怒りを感じるということは、自分が傷ついているサインなのです。では、怒りをおぼえた時にどうすればいいのか。短絡的に暴言をはくなどすれば、自分も損をします。最良の戦術を吟味するため、いったん態度を保留にして持ち帰るとよいでしょう】(朝日新聞、2025年10月31日)ということです。
イエスさまは食べ物の話をされながら、「外から汚れがやってくる」、「外から悪い者がやってくる」と腹を立てている人たちに対して、ちょっと落ち着いて、静かに自分のことを考えてみるということをしたほうが良いと言われました。「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚す」ものだから注意をしたほうがよい。いまのあなたの体や心の状態は大丈夫ですか。いま、あなたの心の中によくないものがあるのではないですか。すこし静かに自分のことを考えてみて、そして元の心持ちの良いすてきな自分に戻ったほうがよいのではないですか。私たちはすこし落ち着いて考えてみると、もともと心持ちの良いすてきな人間であったことに気づきます。神さまが私たちをそのようにつくられたからです。
静かに落ち着いて自らを省みるということは、とても大切なことです。皆さんのご家族であり、私たちの信仰の先輩である方々も、そのように歩まれました。天におられる私たちの信仰の先輩たちは、神さまを見上げつつ、自らを省みながら、謙虚に歩まれました。礼拝に集い、讃美歌を歌い、聖書の言葉に耳を傾け、そして静かに祈りつつ歩まれました。
私たちも私たちの信仰の先輩たちがそうであったように、静かに落ち着いて自らを省みつつ歩みたいと思います。神さまに祈りつつ、神さまが創造された良き人として歩んでいきたいと思います。
(2025年11月2日平安教会朝礼拝式・聖徒の日礼拝)
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