「わたしはだれ。あなたはわたしの愛する子」
今日は花の日・子どもの日の礼拝です。例年は子どもの教会の子どもたちと一緒に、合同礼拝を守ります。新型感染症のために、ことしも一緒に礼拝を守ることができません。礼拝前に、教会の入口のところで、子どもたちによるクワイアチャイムの演奏がありました。来年はぜひ合同礼拝を行ない、礼拝のなかでクワイアチャイムの演奏を行なっていただきたいなあと思います。まだ新型感染症も収束しませんが、皆様のご健康が支えられますようにとお祈りいたします。
マリリン・モンローという映画俳優が主演の映画に「お熱いのがお好き」という映画があります。ビリー・ワイルダーが監督をしたコメディ映画です。この「お熱いのがお好き」という映画の中に、「ホテル・デル・コロナド」というすてきなホテルが出てきます。アメリカのカリフォルニア州、サンディエゴにあるとても有名なホテルです。私たちの教会の姉妹教会であります、パイオニア・オーシャン・ビュー教会(POV教会)を、二年前にお訪ねしたときに、わたしはこの「ホテル・デル・コロナド」を見に行きました。ホテル・デル・コロナド」の写真をとって、いまわたしのスマホの待ち受けにしています。
「ホテル・デル・コロナド」を見に行ったとき、わたしはまだ「お熱いのがお好き」という映画を見たことがありませんでした。最近見て、「ああ、こういう映画だったのか」と思いました。とても良い映画でした。わたしは、マリリン・モンロー主演で、「お熱いのがお好き」という題名なので、いわゆる「お色気調」で、ちょっとわたしが好きな感じの映画ではないのではないかという偏見をもっていました。ただこの時期の映画にはめずらしく白黒映画でしたので、「ホテル・デル・コロナド」も白黒で出てくるので、「ホテル・デル・コロナド」を見たいと思って映画を見たので、その点はちょっと残念でした。
「お熱いのがお好き」という映画の題名は、イギリス童謡の「マザー・グース」に由来します。Some like it hot / Some like it cold / Some like it in the pot / Nine days old「お熱いのが好きな人もいれば 冷たいのが好きな人もいる 中には9日前から鍋に残っているのが好きな人もいる」という意味。わたしに教養がなかったので、「お熱いのがお好き」ということの意味がわかっていなかったということでした。
「お熱いのがお好き」は、「完璧な人間なんていないさ」という言葉で終わります。ハリウッド映画屈指の名言と言われます。なぜ名言と言われるのかというのを説明したいところですが、それは映画を見ていただけたらと思います。ただ「お熱いのが好きな人もいれば 冷たいのが好きな人もいる 中には9日前から鍋に残っているのが好きな人もいる」「完璧な人間なんていないさ」ということですので、この映画はいろいろな人がいるということが良いことなのだということが根底にあるということでしょう。
マリリン・モンローという俳優は、「アメリカのセックスシンボル」というように言われ、いまでも偶像化されています。この5月のオークションでも、アンディ・ウォーホルによるマリリン・モンローの肖像画は、250億円で落札されたと言われています。しかしマリリン・モンロー自身はいつまでも「アメリカのセックスシンボル」と言われることが嫌だったと言われています。
私たちはよく人からどのように見られるのかということに、こころを惑わします。そしてできればよく見られたいと思います。みんなからすばらしい人だと言われるような人でありたいとか、みんなからすてきと言われる人でありたいとか思います。自分を押し殺してでも、人からの評価に自分を近づけたいと思ったりします。
しかし、あまり人の評価ばかりを気にしていると、いったい自分は何者であるのかということがわからなくなります。自分がどのように生きたいのか、自分は何を大切にしていきていきたいのか。そうした人生における大切な問いを見失ってしまい、迷子になってしまうことがあります。
今日の聖書の箇所は「イエス、洗礼を受ける」という表題のついた聖書の箇所です。マルコによる福音書の1章1節以下は「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」という表題のついた聖書の箇所で、そのつぎが今日の聖書の箇所となっています。そしてそのあと「誘惑を受ける」「ガリラヤで伝道を始める」と続きます。マルコによる福音書における位置づけとしては、イエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、そして荒れ野で悪魔からの誘惑を受け、そしてガリラヤで宣教活動を行ない始めるという流れになるわけです。先週はペンテコステ、聖霊降臨日で、イエスさまの弟子たちに聖霊が降った話でしたから、今週はイエスさまに「霊が鳩のように」くだる話の聖書の箇所となります。
マルコによる福音書1章9節にはこうあります。【そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた】。イエスさまは「ナザレのイエス」と言われますように、ガリラヤのナザレからやってこられます。そしてイエスさまは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられます。神さまの御子であるイエスさまが、どうして聖霊を受けるのかというような小難しい問いについては、マルコによる福音書ではあまり大切なことと考えられていないようです。マタイによる福音書ではそうしたことが気になることとして記されています。マルコによる福音書はとてもあっさりと、イエスさまがガリラヤのナザレからヨルダン川にやってきて、そして洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたと記しています。
マルコによる福音書1章10節にはこうあります。【水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。】。イエスさまが洗礼を受けられ、ヨルダン川の水の中から上がると、不思議なことが起こります。天が裂けて、霊が鳩のように降ってきました。そして霊がイエスさまの中に入りました。イエスさまは神さまからの聖なる霊によって祝福を受けました。
マルコによる福音書1章11節にはこうあります。【すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた】。神さまからの聖なる霊が降ってくるだけでなく、天から声が聞こえます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。神さまはイエスさまのことを、「あなたはわたしの愛する子」であると言われます。イエスさまは神さまの御子なのです。そしてイエスさまは神さまの御心に適うことを行われます。
神さまの御心に適うということは、それはたんにイエスさまが実力のあるすばらしい方であるということではありません。やはりイエスさまはふつうの人とは違うのです。イエスさまは神さまに託された御業を行われます。そういう意味で、「わたしの心に適う者」なのです。イエスさまは私たち人間の罪のために十字架につかれます。そして私たちの罪を担ってくださり、私たちの罪が神さまの前に赦されることになります。そうしたことを、神さまからイエスさまは託されているのです。それが神さまのご計画であり、そのご計画をイエスさまが神さまの御子として行われるのです。
マルコによる福音書において、「わたしの愛する子」という言葉は、マルコによる福音書9章7節にまた出てきます。マルコによる福音書9章2節以下は「イエスの姿が変わる」という表題のついた聖書の箇所です。「山上の変容」と言われる聖書の箇所です。イエスさまが天上の人のような姿になり、モーセとエリヤと話をするという有名な出来事です。マルコによる福音書9章7節にはこうあります。【すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」】。この聖書の箇所でも、イエスさまは特別な方として語られています。
イエスさまは特別な方であるわけですが、しかし私たちもまた神さまから愛されている神の子であるのです。使徒パウロは私たちはイエスさまに結ばれているから神の子なのだと行っています。ガラテヤの信徒への手紙3章27節にはこうあります。【あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。】。コリントの信徒への手紙(1)1章9節においても、使徒パウロはこう言っています。【神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです】。イエスさまを信じる私たちもまた神さまの子なのです。そういう意味では、マルコによる福音書1章11節の「あなたはわたしの愛する子」という言葉は、天から私たちに対しても語られている言葉だと思います。私たちもまた、イエスさまと同じように、「あなたはわたしの愛する子」という祝福の中に入れられているのです。
私たちはときに、「わたしはだれ」という思いにかられるときがあります。「わたしはだれなのだろう」。私たちはしばしば人からの評価が気になり、人が望んでいる者でなければならないような気になります。「周りの人たちの期待に応えることができれば良いのに」ということはもちろんあるわけです。もっと勉強ができたらなあとか、もっとスポーツができたらなあとか、もっと歌を歌うのがうまかったなあとか、楽器ができたら、トム・クルーズのように年を取っても格好良かったらいいのになあとかあるわけです。
よく学校などでは小さい頃から言われます。「日吉小学校の生徒にふさわしく」とか「美須賀中学校生としての誇りをもって」というように言われたりします。あるいは「○○家」の者として恥ずかしくないようにとか言われたりします。「日本人としての覚悟をもって」とか言われたりします。でもそんななか、国会議員にふさわしくないような行ないをする人が、国会議員になっていたりするのは、どうしてだろうと思ったりもしますが、それでも私たちは人からの評価が気になり、よく見られたい、こんなことをしたらどう思われるだろうかというような気持ちになることがよくあるわけです。そして周りからの評価が気になり、自分であることを見失ってしまうときがあります。「わたしはだれ」という思いにかられるときがあります。
「わたしはだれなのか」。人からの評価にさらされ、自分はだめな人間ではないかと沈みがちな、私たちに対して、神さまは言われます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。私たちにとって大切なことは、私たちが神さまから愛されているということです。私たちが何かができることが大切なのではありません。私たちが神さまから愛されているということが大切なのです。私たちが神さまからの愛を受けて生きている、神さまの愛する子であることが大切なのです。
使徒パウロは「信仰による義」ということを言いました。ローマの信徒への手紙3章21節以下には「信仰による義」という表題のついた聖書の箇所があります。ローマの信徒への手紙3章21−24節にはこうあります。新約聖書の277頁です。【ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。】
使徒パウロは、救いは私たちが何かをすることによって与えられるものではなく、神さまから無償で、神さまの憐れみによって、神さまの愛によって与えられるものだと言いました。使徒パウロは私たちがなにかできることが大切なのではなく、神さまが私たちを愛して下さっているということが大切なのだと言いました。
「わたしはだれなのか」という問いに対して、私たちは「わたしは神さまの愛する子。神さまの御心に適う者」と答えます。私たちは神さまから愛されている一人一人、かけがえのない神さまの子です。神さまは私たちのことを愛してくださり、「あなたはわたしの愛する子」「あなたはわたしの心に適う者」と、私たちを祝福してくださっています。神さまの愛のうちを、安心して歩んでいきましょう。
(2022年6月12日平安教会朝礼拝式・花の日子どもの日)
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