2022年2月4日金曜日

6月26日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

「やさしさと良識のある社会に」

 病気に対しては冷静な判断ができず、人は病気にかかった人に対して、激しい対応をするというようなことがあります。新型コロナウイルス感染症に対する対応などを振り返ってみた時に、こころない対応であったというようなことを感じさせられます。大学で集団感染が起こったら、その大学にたいしていやがらせをするようなこともありました。よくわからない病気に対する人間の対応というのは、なかなかこわいものがあります。昔から病気にかかるのは、その人に神さまからの罰が降ったからだという考え方があります。イエスさまの時代はそうでしたが、いまもなおそうした感じ方というのは根強く残っています。しかし実際、病気にはだれもがかかるわけです。いま若井克子『東大教授、若年性アルツハイマーになる』という本を読んでいます。若井晋(わかい・すすむ)さんは脳外科医であったわけですが、若年性アルツハイマーになりました。若井晋さんは自分が専門としているところの病気にかかるわけです。わたしの母は若年性アルツハイマーでしたが、だれしも病気になるわけです。

今日の聖書の箇所は「悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす」という表題のついた聖書の箇所です。マルコによる福音書5章1−5節にはこうあります。【一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた】。

イエスさまは弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われ、弟子たちは船を漕ぎ出しました。そのあと湖は嵐になり、イエスさまは風を叱り、湖に「黙れ。静まれ」と言われ、嵐を静められました。そして向こう岸であるゲラサ人の地方に着きました。イエスさまが舟からあがると、汚れた霊に取りつかれた人に出会います。この人は墓場を住まいとしていました。『鎖を用いてつなぎとめておくことはできなかった』ということですから、町でいろいろと暴れたりしたのでしょうか。この人は何度も何度も足枷や鎖で縛られていたようです。とても強い力があったのでしょうか、縛られても縛られても、鎖を引きちぎり、足枷をくだいていたようです。そして彼は暴れ回るということだけでなく、自分で自分を傷つけてもいました。彼は昼も夜も叫び続けずにはいられませんでした。町の人々は彼を恐れ、彼を墓場へと追いやりました。

マルコによる福音書5章6-10節にはこうあります。【イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った】。

汚れた霊に取りつかれた人は、イエスさまを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏します。イエスさまから逃げ出して、遠くの方に逃げていったほうがいいように思うわけですが、しかしイエスさまに引き寄せられるように、汚れた霊に取りつかれた人は、イエスさまの前にやってきてひれ伏しました。この人の中にはたくさんの悪霊が入っていました。「名は何というのか」という質問に、「名はレギオン。大勢だから」と応えるのは、もうイエスさまの前に観念しているということです。この時代、名前を知られるということは支配されるということを意味します。レギオンというのは、古代ローマの一軍団のことです。4200人ないし6000人の歩兵から編成されていたそうです。この汚れた霊に取りつかれた人は、1つや2つの汚れた霊ではなく、4000から6000の汚れた霊に取りつかれているのです。だからとても苦しいのです。昼も夜も叫ばずにはいられないのです。鎖を引きちぎって暴れるしかないのです。

マルコによる福音書5章11-16節にはこうあります。【ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした】。

この人に取りついていた汚れた霊は、イエスさまに豚の中に送り込み、乗り移らせてくれと願います。イエスさまはそのことを汚れた霊にお許しになり、汚れた霊が豚の中に入ると、二千匹ほどの豚が崖を下って湖になだれ込み、そして湖の中でおぼれて死んでしまいます。豚二千匹ですから、豚一匹に2、3の汚れた霊が入ったのでしょうか。2、3の汚れた霊が入っただけで豚は死んでしまうわけですから、4000も6000も汚れた霊を抱え込んでいた人の苦しみはどんなかったのでしょうか。

しかし二千匹の豚がおぼれて死んでしまうという出来事が起ったので、人々は恐ろしくなってしまいます。そしてイエスさまにこの地方から出ていってもらいたいと言い出しました。この村の人々もいままでイエスさまが汚れた霊を追い出され、苦しんでいる人々を救われたということを知っていたことだと思います。この村にもイエスさまにいやしてもらいたいと思っている人々がいたことでしょう。しかしもう恐れのほうが先にたってしまって、イエスさまのことを気味悪がるようになったのでしょう。

マルコによる福音書5章18-20節にはこうあります。【イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた】。

汚れた霊に取りつかれていた人は、イエスさまと一緒に行きたいと言いました。それはそうでしょう。いままで汚れた霊に取りつかれていて、人々からのけ者にされ、墓場へと追いやられていたわけです。こんなひどい目にあっていたところにはもう住みたくない。また汚れた霊に取りつかれていたとはいえ、この地方の人々を傷つけたり、迷惑をかけてしまったというようなこともあったでしょう。あまりここにいてもいいことがありそうにありません。まあここは心機一転、自分のことをいやしてくださったイエスさまについていって、イエスさまにお仕えするというのは、いい選択のような気がいたします。わたしならこの汚れた霊に取りつかれていた人にそのように勧めます。

しかしイエスさまは意外なことに「自分の家に帰りなさい」と言われました。そしてあなたの家族や親しい人たちに、イエスさまがしてくださったことを伝えなさいと言われました。汚れた霊に取りつかれていた人は、イエスさまの言われたことを忠実に実行しました。【イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた】とありますように、彼は「ことごとく」、イエスさまのことを伝えていったのです。こうしてイエスさまのことがデカポリス地方に述べ伝えられていきました。

イエスさまは人々からの誤解を受けたまま、ゲラサの地方から追い出されます。まあとんでもない出来事が起った時は、いろいろな誤解とか不安とかに人は支配されていますから、なかなか冷静に物事をみるということはむつかしいということがあります。あとから謎がとけるということもあるわけです。ちょっとしたことで感情の行き違いがあったり、誤解してしまったり、人間の世界にはそういうことが往々にしてあるわけです。

汚れた霊に取りつかれていた人も、汚れた霊に取りつかれて、私たちの常識からすれば取り返しのつかないようなこともしたでしょう。また私たちの常識からすれば「許すことができない」と思えることもされたことでしょう。彼は墓場にいたのです。人々から捨てられた者として墓場を住み処としていたのです。そして足枷や鎖につながれていたのです。それでもイエスさまから救われて、この人は身内の人々と和解をして、そしてイエスさまのことを人々に宣べ伝えていったのでした。イエスさまによって救われたことを宣べ伝えるときに、人は「許すことができない」と思えることさえも、互いに許しあい、和解へと導かれていくということです。

私たちは意外に誤解とか思い違いに支配されていることがあります。そして人を墓場に追いやってしまうというようなことがあります。ある意味、自分も含めて「人って、恐ろしいなあ」と思います。汚れた霊に取りつかれていた人が墓場へと追いやられていたのは、イエスさまの時代ですから、紀元30数年とかいう昔々の時代です。ですから「そんなのは昔のことだ」と思いたいところですが、そうでもありません。私たちの社会でもあることです。私たちの時代にあっては、ハンセン病の歴史というのは、ある意味「人を墓場に追いやった」歴史であると思います。そして墓場から解放されたのは、つい最近の出来事であるわけです。ハンセン病が治る病気であることがわかったにもかかわらず、日本はハンセン病患者に対する隔離政策を取り続けました。 

高山文彦さんが書いた『火花 北条民雄の生涯』(角川文庫)という本があります。北条民雄は『いのちの初夜』という小説を書いています。北条民雄はハンセン病を患いながら、小説を書き、そして二三歳の若さで天に召されました。北条民雄は川端康成に師事し、小説家になります。

川端康成と北条民雄が出会った時代というのは、アジア・太平洋戦争前のことですから、ハンセン病は「癩(らい)病」と言われて恐れられていました。だんだんとハンセン病について正しい知識が広まってきている時代でもありましたが、それでも「遺伝する」と言われたり、「ハンセン病の死者の灰からでもうつる」と言われたりしたそうです。

【そのむかし癩病と呼ばれたハンセン病は、毛髪や眉毛をことごとく失わせ、嗅覚や痛覚まで奪い、顔や手足を変形させ、ついには盲目とならしめることから、異形(いぎょう)の者となった患者たちは、その不気味さから忌み嫌われた。遺伝病だというあらぬ憶測が蔓延し、ひとたび患者を出した家は一家離散の憂き目にあうこともあった。患者は強制的にハンセン病専門の病院に隔離され、社会から隠された。いまでは遺伝病ではなく、きわめて弱い病原菌による慢性の感染症であることが証明され、乳幼児のときの感染以外は、ほとんど発病の危険性はないとわかっている。そして結核と同じように、治癒する病だということも。北条民雄が生きた昭和初期には、死者の遺骨からも感染するなどと言われたが、実際には生身の病体と接触したところで消毒の必要さえなかった。戦後はアメリカからプロミンという特効薬が輸入され、日本でも製薬が開始されるようになると、ハンセン病はことごとく完治する病となった】(P.8)。

川端康成は北条民雄から送られてくる原稿に目をとおし、心を配りながら励ましていきます。北条民雄の書いた作品に対してだけでなく、その北条民雄の生活などについても、川端康成は心を配ります。北条民雄がハンセン病の施設の中の様子などを小説の中に書きます。川端康成はそのとき北条民雄への手紙の中で、【しかし、こういう小説発表して、あなたが村に具合悪くなるようなことはありませんか。この点お返事下さい。発表して差し支えありませんか】(P.154)。川端康成は北条民雄に対して、細やかな配慮をします。施設に対してどうだろうとか、また北条民雄の家族に対してはどうだろう。悲しいことですが、ハンセン病患者は家族から捨てられている存在であるわけです。小説などが発表されて、家族に迷惑をかけることはないだろうかとか、そうしたことも気になることでした。北条民雄が亡くなった時、川端康成は創元社という出版社の小林茂と一緒に、北条民雄が入園していた東京都東村山市にある国立療養所多磨全生園(たまぜんしょうえん)を訪ねました。

【四国から実父が訪ねてきたのは、それからまもなくだった。光岡良二に案内されて霊安所に上がった父親は、幼いころから呼びなれた本名で遺骸に呼びかけ、まるで生きている人間に話しかけるように震えを帯びた声で耳元で囁きつづけた。「俺のクロワッセ」「独房」などと民雄が呼んでいたあの小さな書斎に連れて行くと、父親は民雄の重態を知らせる光岡の手紙と息子がくれた手紙をならべて見せながら、息子の字とよく似ているので自分の頼みをどうか聞いてもらえないかと光岡に言った。民雄の名前を使って、一通の手紙を自分宛てに書いてほしいというのである。息子は東京で会社勤めをしていて、平穏に暮らしていることにしてほしい。その手紙を、以前、民雄から届いた古い封筒にいれ、田舎の葬儀に集まった親類縁者に見せて、こうして息子は東京で健やかに暮らしていたが、急病で死んでしまったと言いつくろおうというのだった。光岡は悲しい父の願いを聞きいれてやるしかなく、民雄が使っていた机の上で偽の手紙を書いた】(P.335)。

【川端の手もとには民雄から預かっていた原稿料や印税の残りが、妻名義の郵便貯金で、八、九百円あった。死ぬ間際、民雄がそれらの金は感謝をこめてすべて川端に差し上げたいと何度も言っていた、と癩院の友人たちから聞いていたが、それらの金はすべて父親に渡すと告げた。・・・。川端と同じように友人たちから、金を川端に全額もらってほしいというのが息子の遺言だと聞いていた父親は、その申し出を断った】(P.337)。

川端康成は『寒風』という小説の中で、北条民雄の葬儀について書いています。『寒風』の中では葬儀にやってきたのは、父親ではなく母親として描かれています。【川端は『寒風』のなかで、つぎのように書いている。・・・。このうちから百円ばかりを、息子のいた癩院に寄付し、息子の癩友の見舞いとするが、後は母親に返す、と私は言った。・・・。しかし、いざ送るとなると、私は多少の悲憤(ひふん)を感じて、女房を叱るように、「おい、この金はほんとうにおふくろが受取っていいのかい。癩病人として、追い出した息子じゃないか。棄てたんじゃないか」。肉親に譲らず、他人の私に譲ると遺言した若い作家が、私はあわれであった。私に対する感謝ばかりではない。家族に対する憤怒(ふんぬ)からでもあった】(P.338)。

汚れた霊に取りつかれた人が家族から離れて墓場に住んでいたように、ハンセン病を患った北条民雄は家族から棄てられ、ハンセン病の施設でその生涯を終えました。北条民雄の父や母は、自分の息子がりっぱな小説を書いていることを人に告げることもできません。ふつうであれば自慢することができるわけですが、ハンセン病のゆえに告げることができないのです。北条民雄の家族には家族の悲しみがあるわけです。自分たちの身内を守るために、息子を棄てざるを得なかったのです。社会全体が汚れた霊に取りつかれているような感じがします。

川端康成は「伊豆の踊子」「雪国」を書き、日本で最初にノーベル文学賞をとった小説家です。わたしにとっては「川端康成ねえ。ふーん。雪国か」というような感じの小説家でした。しかし高山文彦『火花 北条民雄の生涯』を読んで、川端康成はとても細やかなやさしさをもった人なのだろうと思いました。川端康成も小さい時に父に死なれ、母に死なれ、祖母に死なれ、そして祖父に死なれて、15歳で孤児になりました。自分には家族がいないという思いが、家族から棄てられた北条民雄へのやさしさへとつながっていったのかも知れません。

北条民雄の生涯や汚れた霊に取りつかれた人のことを思う時に、悪霊にとりつかれたような社会にならないようにしなければと思います。人を墓場に追いやるような社会にならないようにしなければと思います。ときに私たちは「悪霊に取りつかれているのは、だれなのだろう。自分ではないのか」ということを考えてみなければなりません。

やさしいこころをもって、そしてまた冷静に物事を見定める落ち着きをもって、歩んでいきたいと思います。イエスさまに汚れた霊を追い出してもらった人が、落ち着いて、イエスさまの愛を人々に我慢強く宣べ伝えていったように、私たちもまた落ち着いて、あまり浮き足立つことなく歩んでいきましょう。そして良き社会を求めて、やさしいこころをもって歩んでいきましょう。




  


(2022年6月26日平安教会朝礼拝式)

0 件のコメント:

コメントを投稿

12月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 

               ティツィアーノ・ヴェチェッリオ               《聖母子(アルベルティーニの聖母)》