2023年1月9日月曜日

1月8日平安教会新年礼拝説教(小笠原純牧師)

「洗礼。新しいいのちへ」

昨日は1月7日でした。1月7日はわたしの母が帰天した日です。2000年1月7日ですから、もう23年も前の話になります。わたしの母は病床洗礼を受けました。今治教会の牧師をしていた美藤章牧師が、父と母の家に来てくださって、洗礼を授けてくださいました。わたしの母はアルツハイマー病でしたので、自分の意志で信仰告白を行うことはできませんでした。父の強い望みで、洗礼を受けることになりました。母が洗礼を受けたとき、父はとっても喜びました。わたしはもっと早く、父に母が病床洗礼を受けることを勧めたら良かったと思いました。牧師として、申し訳ない気がしました。

一般的な印象からすると、わたしの母などは自分で信仰告白をすることができなかったわけですから、「もう洗礼を受けなくてもいいのではないか。神さまは母のことをよくわかってくださっているのだから」とも思えます。わたし自身もそんなふうに考えてしまっていたというような気がします。たしかに神さまはすべてのことをご存じであるわけですけれども、しかしそれでも敢えて洗礼を受けてキリスト者になるということの大切さというのがあるような気がします。その後,わたし自身がある方の病床洗礼式を行うことがありました。病床でありながら、その女性ははっきりとはっきりとした声で、誓約をしてくださいました。【問 あなたは神の前に自らの罪を悔い、主イエス・キリストの十字架のあがないによってその罪をゆるされ、救われたことを確信しますか。 答 確信します】。はっきりと誓約をしてくださったその女性の誓約の言葉を聞きながら、人間が神さまを信じることの尊さというのを思わされました。

今日の聖書の箇所は、「洗礼者ヨハネ、教えを宣べ伝える」という表題のついた聖書の箇所の一部と、「イエス、洗礼を受ける」という聖書の箇所です。ルカによる福音書3章15-17節にはこうあります。【民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」】

ルカによる福音書は、洗礼者ヨハネは「水で」洗礼を授け、イエスさまは「聖霊と火で」洗礼をお授けになると、言っています。イエスさまがこられる準備段階として、洗礼者ヨハネの水による悔い改めのバプテスマが行われる。そしてイエスさまの「聖霊と火の洗礼」というのは、イエスさまの十字架による死と復活、そして帰天されて、聖霊が弟子たちに降るという、イエスさまによる救いの出来事を表しています。洗礼者ヨハネの洗礼は悔い改めの洗礼ですが、イエスさまの洗礼は救いを私たちに救いをもたらす出来事であるということです。

ルカによる福音書3章18-20節にはこうあります。【ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。】

洗礼者ヨハネは領主ヘロデによって捕らえられることになります。洗礼者ヨハネは人々に徹底した悔い改めを迫りました。それは群衆に対してだけではなく、王に対しても、権力を持っている人々に対しても、徹底的に悔い改めを迫りました。そのため洗礼者ヨハネは領主ヘロデによって捕らえられ、そして公の舞台から退くことになります。そしてそれは一つの時代の終わりであり、イエスさまの時代という新しい時代の始まりでもありました。

ルカによる福音書3章21-22節にはこうあります。【民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた】。

民衆が皆洗礼を受け、そしてそれに続いてイエスさまも洗礼を受けられました。イエスさまが祈っていると、聖霊が鳩のようにイエスさまの上に降ってきます。そして「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天の声が聞こえてきました。これはイエスさまが民衆の導き手となって、これから歩まれるということです。イエスさまは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられ、そして私たちの導き手となって、十字架と復活へと歩まれます。そのことによって、洗礼は単なる悔い改めの出来事ではなく、イエスさまに連なる新しい命の出来事としての意味をもってくることになります。

W.H.ウィリモン『洗礼 新しいいのちへ』(日本キリスト教団出版局)という本は、洗礼について書いてある本です。ウィリモンは「洗礼は、キリスト者に神の民としてのアイデンティティを与える式である」と言います。【キリスト者は、洗礼を通して、しかも最終的に、自分が誰であるのかを学ぶのです。洗礼は、アイデンティティを与える式です。洗礼は、あなたが誰であるのかということについて、論じるのではなく断言し、説明するのではなく宣言し、要求するのではなく断定し、ほのめかすのではなく行為によって明らかにし、描き出すのではなくそのように生きよと働きかけます】(P35)。

そして「まったく疑いようもなく、あなたは神のものである」ということが大切だと言います。【私たちは、「・・・・・べきである」という言葉を連発することによって、福音の輝きを曇らせてきましたーあなたがたは、隣人を愛するべきである。もっと立派に生きるべきである。もっと大人になり、年齢相応にふるまるべきである。自分を神にささげるべきである、というように。しかし、洗礼は、あなたがたが何をなすべきか、どうあるべきか、ということについてはほとんど語りません。そうではなく、もっぱら、あなたが誰であるのかを宣言するのです。あなたがたは、新しい民である。あなたたちは聖なる国民である。あなたたちは王の系統を引く者である】(P38)。【教会が語るのは、洗礼を受けるまでは神の子ではない、ということではありません。洗礼を受けるまでは、自分が神の子であると知ることは難しい、と語るのです】(P41)。

イエスさまが洗礼を受けられたとき、天から声が聞こえました。【「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」】。この天からの祝福は、私たちに与えられた祝福でもあるわけです。私たちがりっぱな神の子になったから、私たちは洗礼を受けるわけではありません。私たちが神さまから愛されるのにふさわしい者になったから、私たちは洗礼を受けるのではありません。そうではなく、私たちはただ「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの祝福を、洗礼を受けることによって、宣言されるのです。そのことによって、私たちは自分が誰であるのかということを知ることができるのです。

人はわたしのことをいろいろと言います。「なまけもの!」「臆病者!」「いいかげんな人間だ!」「いばってばかりでいやなやつ!」「弱虫、毛虫!」「役立たず!」。そうしたことは、たしかにそうであるわけです。わたし自身にも「そうかも知れない」と思い当たることがあるかも知れません。しかし、しかし違うのです。そうではないのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。これがわたしなのです。洗礼とはこのことを受け入れるということです。

洗礼を受けてキリスト者として生きるということは、神の民として背筋をピンと伸ばして、胸をはって生きるということです。もちろん私たちには世の中の人から見れば、そんなに胸をはって生きていくだけのものがあるようには見えないかも知れません。「あなたはそんなにりっぱではないだろう」と言われると、そうかも知れません。しかし私たちキリスト者は、神の民であるということにおいて、胸を張って生きるのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。このことにおいて、私たちは胸を張って生きるのです。

クリスマスから新しい年が始まり、2023年になりました。皆様も「今年こそ、これをしたい」というような希望をもって歩みはじめておられることと思います。「ことしは大学の最終学年なので、しっかりと勉強をして卒業したい」と思っておられる方もおられるかも知れません。「ことしこそ、三日坊主になることなく、体操を続けていきたい」と思っておられる方もおられるかも知れません。「ことしこそ、みんなに愛される人間になりたい」と思っておられる方もおられるかも知れません。わたしも「ことしこそ、健康のため、できるだけ散歩をすることにしたい」と思っています。すてきな自分になれるようにと、いろいろとがんばらないといけないと思います。

しかし、すてきな自分になれるようにと、いろいろとがんばらないといけないと思いますが、たとえなることができなくても、神さまは「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と祝福してくださっています。このことにおいて、わたしは胸を張って生きていきたいと思っています。

世の中の困難な世相や、また自分自身のだらしなさや弱さのゆえに、なんとなく希望がないように思える時もあります。しかし大切なことはそうしたことではないのです。大切なことは、神さまが私たちのことを愛してくださり、私たちを救ってくださったということなのです。大切なことは、神さまが「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と祝福してくださっているということなのです。

神さまは私たちを愛してくださっています。このことをしっかりと心に留めて、新しい年も神さまの愛する子として、胸を張って歩んでいきましょう。


(2023年1月8日平安教会朝礼拝) 

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