2023年1月3日火曜日

1月1日平安教会新年礼拝説教(小笠原純牧師)

 「新しい年。神の恵みに包まれて」

クリスマスに救い主イエス・キリストをお迎えし、そして2022年を終え、2023年を迎えました。新しい年も皆様のうえに、神さまの恵みと平安とが豊かにありますようにとお祈りしています。

毎年、わたしは年賀状に、聖書の言葉を書くことにしています。ことしは、イザヤ書51章8節のみ言葉を選びました。「わたしの恵みの業はとこしえに続き、わたしの救いは代々に永らえる。」。旧約聖書 イザヤ書51章8節。「世の出来事に右往左往することなく、神さまの御手を信じて歩みます。平安教会に赴任をして3年半になりました。コロナ禍のなか、あまり悲観せずに、落ち着いた歩みをしたいと思います。皆さまのうえに神さまの恵みが豊かにありますように」。神さまが私たちに救いの御手をのべてくださることを信じて、常に待ち望み、そして神さまを賛美しながら歩みたいと思っています。

小さい頃に、そうなんだろうなと思っていたことと、あとになってちょっと違っているような気がすると思うことがあります。それは小笠原さんがぼんやりとしているからだと言われると、そうかも知れません。

童謡に「クラリネットをこわしちゃった」という歌があります。(訳・石井好子)。小さい頃、へんなことをしていて、物を壊してしまって、お父さんやお母さんに叱られると思って、びくびくするということがあります。

「ぼくの大好きなクラリネット。パパからもらったクラリネット。とっても大事にしてたのに。こわれて出ない音がある。どうしよう。どうしよう。オーパキャマラド パッキャマラド パオパオ パパパ。オーパキャマラド パッキャマラド パオパオパ。」。

わたしはずっとこの「オーパキャマラド パッキャマラド パオパオ パパパ。オーパキャマラド パッキャマラド パオパオパ」というのは、「たいへんだ。たいへんだ。こりゃたいへんだ」というような感じの意味のない音の表現だと思っていました。

「クラリネットをこわしちゃった」は、もともとフランスの童謡で、「オーパキャマラド パッキャマラド パオパオ パパパ。オーパキャマラド パッキャマラド パオパオパ」というのは、フランス語なのだそうです。オーパキャマラドというのは、Au pas, camaradesで、「Au pas」(オパ)は「歩調を合わせて」とか「リズムに合わせて」という意味の言葉で、「camarades」(キャマハード)は「仲間、同志」といった意味の言葉です。Au pas, camaradesというのは、「一歩、一歩だよ。友よ」というような感じの意味になります。呪文のように歌っていた言葉に意味があるというのは驚きでした。ですから、この「クラリネットをこわしちゃった」という歌は、おとうさんから怒られる歌というよりは、うまくクラリネットの音がでなくて、困っている子どもを、「大丈夫、一歩、一歩、一緒にやっていこうね」とお父さんが励ましているという歌のようです。

よくよく歌詞を見てみると、3番の歌詞は、「ドとレとミとファとソとラとシの音でない。ドとレとミとファとソとラとシの音でない。パパも大事にしてたのに、みつけられたらおこられる。どうしよう。どうしよう。オーパキャマラド パッキャマラド パオパオ パパパ。オーパキャマラド パッキャマラド パオパオパ」が、「「ドとレとミとファとソとラとシの音でない」わけですから、すべての音が出ていないわけで、音を鳴らすことができていないわけです。それでお父さんが「大丈夫、一歩、一歩、一緒にやっていこうね」と励ましているわけです。

「クラリネットをこわしちゃった」の子どものように、なにかうまくいかないと、あわてふためいて、「こわしちゃった。どうしよう。どうしよう」と不安になることが、私たちにもあります。神さまからおこられる。イエスさまから怒られると慌てふためくことがあります。イエスさまも私たちを「オーパキャマラド パッキャマラド パオパオ パパパ。オーパキャマラド パッキャマラド パオパオパ」と励ましておられると思います。新しい一年も、一歩一歩、イエスさまと一緒に歩んでいきたいと思います。


【昨日7月1日は #童謡の日 でした🎶日本で有名なフランスの童謡といえば『#クラリネット壊しちゃった』ですよね。でもあの『オ・パッキャマラード』という部分、一体何のことだと思いますか?実は「行進せよ、同志!」(Au pas camarade ) という意味です!🦵🇫🇷】(フランス大使館のTwitterより)


今日の聖書の箇所は、「神殿で献げられる」「ナザレに帰る」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書2章21節は「羊飼いと天使」という表題のついた聖書の箇所の最後の言葉です。ルカによる福音書2章21節にはこうあります。【八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である】。生まれて八日目に割礼を行なって、名前を付けるということが行われていました。12月25日から八日目ということなので、1月1日がその日となるわけです。

ルカによる福音書2章22ー24節にはこうあります。【さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。】。

イエスさまの時代の人たちは、律法に定められていることに従って、神殿に行って献げ物をするということをしていました。ヨセフさんもマリアさんも律法に従って、生まれたイエスさまについての約束事を行ないます。【主の律法に言われているとおりに】というように、決められていることを、決められたとおりに、普通に行なったということです。

ルカによる福音書2章25−27節にはこうあります。【そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た】。

シメオンは救い主がきてくださることをずっと待ち望んでいました。シメオンは正しい人で、とても熱心な信仰をもっていました。「聖霊が彼にとどまっていた」とありますように、とても霊的にもすばらしい人でした。そして「メシア・救い主に会うまではあなたは決して死ぬことはない」とのお告げを聖霊によって受けていました。そのシメオンが神殿に入ってきた時に、神殿に献げ物をしにきたマリアさん、ヨセフさん、イエスさまに出会います。

ルカによる福音書2章28−32節にはこうあります。【シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」】。

シメオンはイエスさまを腕に抱いて、神さまを讃えました。ついに自分は救い主・メシアに会うことができたと確信したのでした。いままでずっと待ち望んでいたけれども、ついに救い主に会うことができた。その喜びにあふれて、シメオンは神さまをほめたえたのでした。「救い主・メシアに今日、わたしは会うことができた。だからわたしはもう安らかに天に召されてもよい。救い主がこの世に来てくださり、すべての人々を救ってくださる。その方はそして異邦人にとっても救い主となってくださり、異邦人を照らす啓示の光となってくださる。

ルカによる福音書2章33ー35節にはこうあります。【父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。——あなた自身も剣で心を刺し貫かれます——多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」】。

シメオンの言葉に、ヨセフさんもマリアさんも驚きました。自分たちの赤ちゃんが将来、救い主になると言われたわけですから、まあ驚くだろうと思います。そしてシメオンは二人を祝福し、そしてマリアさんに言いました。この子はイスラエルの人たちの指導者となる。この子はイスラエルの預言者たちのようになる。あるときは、人々に神さまの裁きが降ることを預言し、人々は嘆き悲しみに打ちひしがれることになる。またあるときは、人々に希望を語り、人々を勇気づける。そして人々から反発を受けるときもある。そのとき、母であるあなたは剣で心を刺し貫かれるような経験をするだろう。シメオンはマリアさんにそのように語りました。

ルカによる福音書2章36−40節にはこうあります。【また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。】。

神殿にはシメオンだけでなく、アンナという女預言者もいました。預言者アンナも年をとっていました。84歳でした。若い時に結婚をして、7年間、夫と共に暮らしました。しかし夫は天に召されます。そのあとアンナは神殿で、断食をしたり、祈ったりしながら、夜も昼も神さまに仕えて歩みました。アンナもまたシメオンと同じように、マリアさん、ヨセフさん、イエスさまに出会い、神さまを讃美しました。そして救い主がこの世に来られたことを人々に伝えました。マリアさん、ヨセフさん、イエスさまは献げ物を神殿で献げ、そしてガリラヤのナザレに帰っていきました。イエスさまはたくましく育ち、そして知恵に満ちて、神さまの祝福のもと歩まれました。

シメオンもアンナも長い間、神さまが救い主を送ってくださり、自分たちの国を、そして自分たちを救ってくださることを待ち望んでいました。その間、ほんとうに一生懸命に祈りながら、その日々を過しました。

1月1日は、イエスさまが初めて、エルサレムの神殿に連れてこられた日です。そしてずっと救い主を待ち望んでいたシメオンとアンナが、イエスさまに会うことのできた日です。年をとった二人にとっては、とても幸せな日でした。聖書は、神さまを信じて生きる人たちに、大きな希望が与えられることを、私たちに語っています。

新しい一年も、神さまにお委ねして、一歩一歩、歩んでいきたいと思います。神さまは若い人にも、年を重ねた人にも、豊かな祝福を備えてくださいます。どんなすてきなことを神さまが用意してくださっているのかを楽しみにしながら、神さまをほめたたえつつ歩んでいきましょう。



(2023年1月1日平安教会朝礼拝式・新年礼拝)


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