「試みに打ち勝つ力を与えてください」
2月22日の水曜日に、灰の水曜日を迎え、レント・受難節に入りました。レント・受難節は、イエスさまが私たちの罪のために、十字架についてくださったこと。そして十字架への苦しみの道を歩まれたことを覚えて過すときです。油断をしていますと、レント・受難節もすぐに過ぎ去ってしまって、「あっ、もうイースターなん」というような感じになってしまいます。ですからしっかりとレント・受難節のときを受けとめて、イエスさまの御苦しみを覚えて過したいと思います。レント・受難節を有意義に過すことができると、とてもうれしいイースターを迎えることができると言われています。
ウクライナ戦争も1年を過ぎましたが、なかなか解決の糸口がありません。ずっと戦争が続いています。戦争は戦争の機運を高めるということがあるのでしょうか。日本でも軍事力増強の話が出ています。「他国が攻めてきたら、どうするんだ」というようなことが言われて、軍事力増強だとなりますが、そんなことにならないために外交ということがあるわけです。政治家の人たちはもっと倫理的になって、「あんなすばらしい、そして倫理的な政治家の人たちがいる国は世界の宝だ。日本は大切にしなければならない」と言われるような歩みであってほしいなあと、わたしは思います。
ウクライナ戦争が続いているとき、私たちにできる良いことは、アジア・太平洋戦争のときに、私たちの国がアジアの国々に侵略をしたときのことを学び直すということではないかと、わたしは思います。わたしも若い頃、アジア・太平洋戦争について、本を読んだり、学んだりしましたが、だんだんと年をとり、いろいろと忘れてしまいました。ということがあるので、またぼちぼちと、そうした歴史を学び直すということを行いたいと思います。わたしが若い頃は、学ぶと言えば、本で学ぶといようなことが多かったですが、いまは映像なども充実しているようです。NHKの「戦争証言アーカイブス」などを見ていますと、映像で当時の様子がわかり、「ああ、こんなかったんだ」というようなことも発見できます。
1942年の2月は、「シンガポールの戦い」という戦闘が行われていた時期です。1942年2月8日から2月15日にかけて、イギリスの植民地であったシンガポールを攻略べく闘います。兵力の差は、2倍あったにも関わらず、当時、難攻不落と言われていたシンガポールを、日本軍は10日足らずで攻略します。まあ大勝利であったわけです。
歌人であり、芸術家でもあり、「智恵子抄」で有名な高村光太郎は、「シンガポール陥落」という詩を書いています。
「シンガポール陥落」
シンガポールが落ちた。
イギリスが砕かれた。
シンガポールが落ちた。
卓上の胡桃割(くるみわり)に挟(はさ)まれた
胡桃のように割れてはじけた。
シンガポールが落ちた。
彼らの扇の要(かなめ)が切れた。
大英帝国がばらばらになった。
シンガポールが落ちた。
ついに日本が大東亜を取りかえした。
・・・・・・・・。
(P.77)(櫻本富雄『【大本営発表】シンガポールは陥落せり』(青木書店)
高村光太郎だけでなく、多くの小説家や芸術家が、シンガポール陥落をほめたたえています。アジア・太平洋戦争から約80年の年月が経っていますので、その戦争責任について語りたいということではないのです。ただあとから考えてみて、どうしてあの「智恵子抄」で人々を感動させている高村光太郎が、「シンガポール陥落」というような詩を書いたのだろうかと思うのです。私たちもよく「あとから考えると、なんかおかしなことをしてしまっていた」というようなことがあります。ですからそれはまあなんらかの誘惑に陥ってしまったということだと思います。まあ大した人物でもないわたしがまあ誘惑に陥ってしまって、変なことをしてしますというのは、「まあ、それはあるやろ」と自分でも思います。しかしりっぱな芸術家だと言われている人が、こうもまあ変な感じのことをしてしまうのだと思う時に、やっぱり誘惑ということについては、ほんとうに気をつけなければならないことなのだと思うのです。
今日の聖書の箇所は「誘惑を受ける」という表題のついた聖書の箇所です。この聖書の箇所で、イエスさまは悪魔から3つの誘惑を受けます。ひとつは「パン」の誘惑。もう一つは「権力」の誘惑。そして最後は「神さまを疑う」ことについての誘惑です。
ルカによる福音書4章1−4節にはこうあります。【さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。】。
イエスさまは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたあと、霊によって荒れ野に行くことになります。そこでイエスさまは四十日間、悪魔から誘惑を受けられます。預言者モーセとイスラエルの民が、エジプトを脱出して、そして荒れ野をさまよう時代を、「荒れ野の40年」と言われます。イエスさまが四十日間、荒れ野で悪魔から誘惑を受けられるというのは、この出来事の関連であるわけです。イエスさまは何も食べておられなかったので、お腹が空いていました。そこで悪魔がイエスさまに「この石がパンになるように命じたらどうだ」と言います。
お腹が空いているときのパンの誘惑というのは、まあ切実な誘惑であるわけです。当時の多くの人々は、みんなお腹を空かせていたのです。みんな、「石がパンに変るのならそれはうれしいことだ」と思っているのです。「石がケーキに変ったらいいのになあ」とか、「石がお金に変ったいいのになあ」というわけではないのです。まさに石はパンに変るのです。それは生活の中の切実な食べ物であるのです。そしてこのパンの誘惑に対して、イエスさまは「人はパンだけで生きるものではない」と書いてあると答えられます。
イエスさまは悪魔の誘惑に対して、聖書をもって答えられます。「人はパンだけで生きるものではない」というのは、申命記8章3節の言葉からの引用です。旧約聖書の294頁にあります。申命記8章3節にはこうあります。【主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。】。出エジプトのときに、神さまはお腹を空かせていたイスラエルの民に、マナという食べ物を天から与えます。それは人がパンだけで生きるのではなく、神さまの言葉によって生きることを教えるための出来事だったと言われるのです。私たちは切実なことですから「パン、パン、パン」ということに心がいってしまうわけです。それはある意味、仕方のないことでもあるわけです。しかし「人はパンだけで生きるものではない」という真理に、私たちが心を寄せるということは、とても大切なことです。そうでないと、私たちは「生きているだけの人間」になってしまうからです。
ルカによる福音書4章5−8節にはこうあります。【更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」】。
悪魔はイエスさまに「もしわたしを拝むなら、この世界の国々の一切の権力と繁栄を与えよう」と言います。「わたしを拝むなら、世界の支配者になることができる」と、悪魔はイエスさまを誘惑します。世界の支配者になるかどうかは別にしても、一定の権力を手に入れて、人を支配することができるということは、私たちにとってもなかなかの誘惑であるわけです。私たちも自分の意見が通らないと、なんとなく腹が立ってきたりします。自分の思いどおりにならないと、いらいらしたりします。そしてどなったり、嫌みをいったり、高圧的な態度に出るというようなことをしてしまうことがあるわけです。
わたしを拝むなら、人を支配する立場にあなたをしてあげると誘惑する悪魔に対して、イエスさまは「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」と言われました。これは申命記6章13節からの引用です。旧約聖書の290頁です。申命記6章13節には、【あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい】とあります。イエスさまは私たちがするべきことは、権力を手に入れて、人を支配することではない。私たちがすべきことは人を支配することではなく、神さまを拝み、神さまに仕えることだと、イエスさまは言われました。私たちは人を支配することではなく、人に仕えることが大切なのだ。それが神さまが喜ばれることだのだと、イエスさまは言われました。
ルカによる福音書4章9−13節にはこうあります。【そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。】。
悪魔はイエスさまが聖書の御言葉によって、毅然と悪魔の誘惑を退けられるのを見て、自分も聖書の言葉を使って、イエスさまを誘惑しようとします。悪魔は「神の子なら、ここから飛び降りてみろ。神さまが天使たちを使って、おまえを守ってくれるだろう」と言います。これは詩編91編11−12節からの引用です。旧約聖書の930頁です。詩編91編11−12節にはこうあります。【主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。】。なかなかこれは高度な引用です。申命記であれば、まあ「ああ、それここに書いてる」とすぐにその頁を開くことができる人がいるかも知れません。しかし詩編91編となると、なかなかむつかしいなあと思います。悪魔がこの聖書箇所の引用をしたことを読みながら、「悪魔はわたしよりも賢い」と思いました。
「神さまがおまえを守ってくれるから、ここから飛び降りてみろ」という悪魔の誘惑に対して、イエスさまは「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」と、やはり聖書の御言葉で答えられます。申命記6章16節からの引用です。旧約聖書の291頁です。申命記6章16節には、【あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。】とあります。
この「マサにいたときにしたように】というのは、出エジプト記17章1節に記されてある、「岩からほとばしる水」という表題のついた出来事のことです。旧約聖書の122頁に記されてあります。モーセとイスラエルの民の荒れ野を旅するときの出来事です。飲み水がなく、のどがかわいたイスラエルの民が、モーセに対して「我々に飲み水を与えよ」と迫るのです。神さまはモーセにホレブの岩をたたかせます。すると水が出て、民は水を飲むことができたという出来事です。「マサ」というのは、「試し」という言葉です。
私たちはなにか困ったことができると、神さまを試すのです。「こんな目にあうのは、どうしてなのか。神さまはわたしと共にいてくださらないのではないか」。私たちに不都合なことが起こると、神さまはおられないのではないかと思い、私たちに好都合なことが起こるようにと、神さまにお願いをするのです。私たちは神さまを試し、神さまを私たちの道具にしてしまうのです。「わたしがここから飛び降りるから、神さま、天使を送ってわたしを守ってくれ」。神さまを自分の都合の良いように使えば良いではないかと誘惑する悪魔に対して、イエスさまは「あなたたちの神、主を試してはならない」と言われました。
【悪魔はあらゆる誘惑を終えて】とありますから、その後も悪魔の誘惑はいくつもあったようですが、しかしイエスさまは悪魔の誘惑に打ち勝たれます。それで悪魔は仕方なく、立ち去ります。【時が来るまでイエスを離れた】と記されてあります。それでは次に悪魔が来る時というのは、いつなのかということですが、それはイエスさまが十字架につけられるために逮捕されるときです。ルカによる福音書22章3節にはこうあります。新約聖書の153頁です。「イエスを殺す計画」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書22章3節にはこうあります。【しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。】。サタンはイエスさまの十二弟子の一人である、イスカリオテのユダのなかに入るのです。
悪魔は巧みに、私たちを誘惑します。イエスさまの十二弟子であっても、やはり誘惑に陥ります.悪魔は聖書さえも引用して、私たちを誘惑します。悪魔は私たちよりも賢いのです。ですから私たちは悪魔の誘惑に負けてしまいます。誘惑されていることさえ、気がつかないというようなことがあるわけです。あとから誘惑に気がつくということはよくあるわけですが、そのときはなかなか気がつかないのです。
コンビニや飲食店でろくでもないことをして、それを動画配信するというようなことが行われて、あとからとんでもないことになるというような事件が起こります。ふつうに考えて、犯罪を行っているところを動画配信すると、とんでもないことになるというようなことは、わかりそうな気がするわけですが、でも実際、そうしたことがわからず、とんでもないことになるわけです。その場の「ノリ」というか、その場の雰囲気で、軽い気持ちで行ってしまうわけです。やっている仲間内の人たちは、それが悪魔の誘惑であることに気がつきもしないのです。
シンガポールが陥落したときに、ラジオで「シンガポール陥落」という詩を披露した、高村光太郎もそのようなことをしているときは、自分が悪魔の誘惑に陥っていることに気がつかないのです。谷崎潤一郎も、志賀直哉も、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)も、同じようなことをしているからです。周りのみんなが同じようなことをしているわけですから、自分が悪魔の誘惑に陥っていることに気がつかないのです。しかしあとから考えると、「なんともおろかなことをしていた」と思うのです。
悪魔の誘惑は何が誘惑であるのかもわかりにくいのです。ですから私たちはなおのこと、イエスさまが言われたように、【『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』】ということが大切になるのです。私たちのこころを神さまに向けて、神さまを礼拝し、神さまに仕えて歩んでいくという気持ちをもって歩んでいくということが大切になるのです。そうした思いをこころの中心にもっていないと、私たちはすぐに悪魔の誘惑に陥ってしまうということです。何が誘惑であるのかがわかりにくいからです。
主の祈りで、私たちは「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈ります。とても切実な祈りだと思います。神さま、私たちを試みにあわせないでください。神さまは、私たちを誘惑にあわせないでください。私たちは弱いのです。何が誘惑であるのかということにも気づきにくいし、またすぐに誘惑に陥ってしまうのです。だからこそ、私たちは「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈るのです。
何が誘惑であるのかさえわかりにくい世の中に、私たちは生きています。ですからなおのこと、私たちは「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」という祈りを大切にしたいと思います。また「試みに打ち勝つ力を与えてください」との祈りを持ちたいと思います。そしてなにより、イエスさまが言われたとおりに、『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』という、謙虚で健やかな歩みでありたいと思います。
イエスさまは私たちと共に歩んでくださり、神さまはその御手でもって、私たちを守り導いてくださいます。神さまを心から讃美して、神さまにお仕えしていきましょう。
(2023年2月26日平安教会朝礼拝式・聖餐式)