2023年2月28日火曜日

2月26日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「試みに打ち勝つ力を与えてください」

2月22日の水曜日に、灰の水曜日を迎え、レント・受難節に入りました。レント・受難節は、イエスさまが私たちの罪のために、十字架についてくださったこと。そして十字架への苦しみの道を歩まれたことを覚えて過すときです。油断をしていますと、レント・受難節もすぐに過ぎ去ってしまって、「あっ、もうイースターなん」というような感じになってしまいます。ですからしっかりとレント・受難節のときを受けとめて、イエスさまの御苦しみを覚えて過したいと思います。レント・受難節を有意義に過すことができると、とてもうれしいイースターを迎えることができると言われています。

ウクライナ戦争も1年を過ぎましたが、なかなか解決の糸口がありません。ずっと戦争が続いています。戦争は戦争の機運を高めるということがあるのでしょうか。日本でも軍事力増強の話が出ています。「他国が攻めてきたら、どうするんだ」というようなことが言われて、軍事力増強だとなりますが、そんなことにならないために外交ということがあるわけです。政治家の人たちはもっと倫理的になって、「あんなすばらしい、そして倫理的な政治家の人たちがいる国は世界の宝だ。日本は大切にしなければならない」と言われるような歩みであってほしいなあと、わたしは思います。

ウクライナ戦争が続いているとき、私たちにできる良いことは、アジア・太平洋戦争のときに、私たちの国がアジアの国々に侵略をしたときのことを学び直すということではないかと、わたしは思います。わたしも若い頃、アジア・太平洋戦争について、本を読んだり、学んだりしましたが、だんだんと年をとり、いろいろと忘れてしまいました。ということがあるので、またぼちぼちと、そうした歴史を学び直すということを行いたいと思います。わたしが若い頃は、学ぶと言えば、本で学ぶといようなことが多かったですが、いまは映像なども充実しているようです。NHKの「戦争証言アーカイブス」などを見ていますと、映像で当時の様子がわかり、「ああ、こんなかったんだ」というようなことも発見できます。

1942年の2月は、「シンガポールの戦い」という戦闘が行われていた時期です。1942年2月8日から2月15日にかけて、イギリスの植民地であったシンガポールを攻略べく闘います。兵力の差は、2倍あったにも関わらず、当時、難攻不落と言われていたシンガポールを、日本軍は10日足らずで攻略します。まあ大勝利であったわけです。

歌人であり、芸術家でもあり、「智恵子抄」で有名な高村光太郎は、「シンガポール陥落」という詩を書いています。

「シンガポール陥落」

シンガポールが落ちた。

イギリスが砕かれた。

シンガポールが落ちた。

卓上の胡桃割(くるみわり)に挟(はさ)まれた

胡桃のように割れてはじけた。

シンガポールが落ちた。

彼らの扇の要(かなめ)が切れた。

大英帝国がばらばらになった。

シンガポールが落ちた。

ついに日本が大東亜を取りかえした。

・・・・・・・・。


(P.77)(櫻本富雄『【大本営発表】シンガポールは陥落せり』(青木書店)

高村光太郎だけでなく、多くの小説家や芸術家が、シンガポール陥落をほめたたえています。アジア・太平洋戦争から約80年の年月が経っていますので、その戦争責任について語りたいということではないのです。ただあとから考えてみて、どうしてあの「智恵子抄」で人々を感動させている高村光太郎が、「シンガポール陥落」というような詩を書いたのだろうかと思うのです。私たちもよく「あとから考えると、なんかおかしなことをしてしまっていた」というようなことがあります。ですからそれはまあなんらかの誘惑に陥ってしまったということだと思います。まあ大した人物でもないわたしがまあ誘惑に陥ってしまって、変なことをしてしますというのは、「まあ、それはあるやろ」と自分でも思います。しかしりっぱな芸術家だと言われている人が、こうもまあ変な感じのことをしてしまうのだと思う時に、やっぱり誘惑ということについては、ほんとうに気をつけなければならないことなのだと思うのです。

今日の聖書の箇所は「誘惑を受ける」という表題のついた聖書の箇所です。この聖書の箇所で、イエスさまは悪魔から3つの誘惑を受けます。ひとつは「パン」の誘惑。もう一つは「権力」の誘惑。そして最後は「神さまを疑う」ことについての誘惑です。

ルカによる福音書4章1−4節にはこうあります。【さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。】。

イエスさまは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたあと、霊によって荒れ野に行くことになります。そこでイエスさまは四十日間、悪魔から誘惑を受けられます。預言者モーセとイスラエルの民が、エジプトを脱出して、そして荒れ野をさまよう時代を、「荒れ野の40年」と言われます。イエスさまが四十日間、荒れ野で悪魔から誘惑を受けられるというのは、この出来事の関連であるわけです。イエスさまは何も食べておられなかったので、お腹が空いていました。そこで悪魔がイエスさまに「この石がパンになるように命じたらどうだ」と言います。

お腹が空いているときのパンの誘惑というのは、まあ切実な誘惑であるわけです。当時の多くの人々は、みんなお腹を空かせていたのです。みんな、「石がパンに変るのならそれはうれしいことだ」と思っているのです。「石がケーキに変ったらいいのになあ」とか、「石がお金に変ったいいのになあ」というわけではないのです。まさに石はパンに変るのです。それは生活の中の切実な食べ物であるのです。そしてこのパンの誘惑に対して、イエスさまは「人はパンだけで生きるものではない」と書いてあると答えられます。

イエスさまは悪魔の誘惑に対して、聖書をもって答えられます。「人はパンだけで生きるものではない」というのは、申命記8章3節の言葉からの引用です。旧約聖書の294頁にあります。申命記8章3節にはこうあります。【主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。】。出エジプトのときに、神さまはお腹を空かせていたイスラエルの民に、マナという食べ物を天から与えます。それは人がパンだけで生きるのではなく、神さまの言葉によって生きることを教えるための出来事だったと言われるのです。私たちは切実なことですから「パン、パン、パン」ということに心がいってしまうわけです。それはある意味、仕方のないことでもあるわけです。しかし「人はパンだけで生きるものではない」という真理に、私たちが心を寄せるということは、とても大切なことです。そうでないと、私たちは「生きているだけの人間」になってしまうからです。

ルカによる福音書4章5−8節にはこうあります。【更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」】。

悪魔はイエスさまに「もしわたしを拝むなら、この世界の国々の一切の権力と繁栄を与えよう」と言います。「わたしを拝むなら、世界の支配者になることができる」と、悪魔はイエスさまを誘惑します。世界の支配者になるかどうかは別にしても、一定の権力を手に入れて、人を支配することができるということは、私たちにとってもなかなかの誘惑であるわけです。私たちも自分の意見が通らないと、なんとなく腹が立ってきたりします。自分の思いどおりにならないと、いらいらしたりします。そしてどなったり、嫌みをいったり、高圧的な態度に出るというようなことをしてしまうことがあるわけです。

わたしを拝むなら、人を支配する立場にあなたをしてあげると誘惑する悪魔に対して、イエスさまは「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」と言われました。これは申命記6章13節からの引用です。旧約聖書の290頁です。申命記6章13節には、【あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい】とあります。イエスさまは私たちがするべきことは、権力を手に入れて、人を支配することではない。私たちがすべきことは人を支配することではなく、神さまを拝み、神さまに仕えることだと、イエスさまは言われました。私たちは人を支配することではなく、人に仕えることが大切なのだ。それが神さまが喜ばれることだのだと、イエスさまは言われました。

ルカによる福音書4章9−13節にはこうあります。【そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。】。

悪魔はイエスさまが聖書の御言葉によって、毅然と悪魔の誘惑を退けられるのを見て、自分も聖書の言葉を使って、イエスさまを誘惑しようとします。悪魔は「神の子なら、ここから飛び降りてみろ。神さまが天使たちを使って、おまえを守ってくれるだろう」と言います。これは詩編91編11−12節からの引用です。旧約聖書の930頁です。詩編91編11−12節にはこうあります。【主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。】。なかなかこれは高度な引用です。申命記であれば、まあ「ああ、それここに書いてる」とすぐにその頁を開くことができる人がいるかも知れません。しかし詩編91編となると、なかなかむつかしいなあと思います。悪魔がこの聖書箇所の引用をしたことを読みながら、「悪魔はわたしよりも賢い」と思いました。

「神さまがおまえを守ってくれるから、ここから飛び降りてみろ」という悪魔の誘惑に対して、イエスさまは「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」と、やはり聖書の御言葉で答えられます。申命記6章16節からの引用です。旧約聖書の291頁です。申命記6章16節には、【あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。】とあります。

この「マサにいたときにしたように】というのは、出エジプト記17章1節に記されてある、「岩からほとばしる水」という表題のついた出来事のことです。旧約聖書の122頁に記されてあります。モーセとイスラエルの民の荒れ野を旅するときの出来事です。飲み水がなく、のどがかわいたイスラエルの民が、モーセに対して「我々に飲み水を与えよ」と迫るのです。神さまはモーセにホレブの岩をたたかせます。すると水が出て、民は水を飲むことができたという出来事です。「マサ」というのは、「試し」という言葉です。

私たちはなにか困ったことができると、神さまを試すのです。「こんな目にあうのは、どうしてなのか。神さまはわたしと共にいてくださらないのではないか」。私たちに不都合なことが起こると、神さまはおられないのではないかと思い、私たちに好都合なことが起こるようにと、神さまにお願いをするのです。私たちは神さまを試し、神さまを私たちの道具にしてしまうのです。「わたしがここから飛び降りるから、神さま、天使を送ってわたしを守ってくれ」。神さまを自分の都合の良いように使えば良いではないかと誘惑する悪魔に対して、イエスさまは「あなたたちの神、主を試してはならない」と言われました。

【悪魔はあらゆる誘惑を終えて】とありますから、その後も悪魔の誘惑はいくつもあったようですが、しかしイエスさまは悪魔の誘惑に打ち勝たれます。それで悪魔は仕方なく、立ち去ります。【時が来るまでイエスを離れた】と記されてあります。それでは次に悪魔が来る時というのは、いつなのかということですが、それはイエスさまが十字架につけられるために逮捕されるときです。ルカによる福音書22章3節にはこうあります。新約聖書の153頁です。「イエスを殺す計画」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書22章3節にはこうあります。【しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。】。サタンはイエスさまの十二弟子の一人である、イスカリオテのユダのなかに入るのです。

悪魔は巧みに、私たちを誘惑します。イエスさまの十二弟子であっても、やはり誘惑に陥ります.悪魔は聖書さえも引用して、私たちを誘惑します。悪魔は私たちよりも賢いのです。ですから私たちは悪魔の誘惑に負けてしまいます。誘惑されていることさえ、気がつかないというようなことがあるわけです。あとから誘惑に気がつくということはよくあるわけですが、そのときはなかなか気がつかないのです。

コンビニや飲食店でろくでもないことをして、それを動画配信するというようなことが行われて、あとからとんでもないことになるというような事件が起こります。ふつうに考えて、犯罪を行っているところを動画配信すると、とんでもないことになるというようなことは、わかりそうな気がするわけですが、でも実際、そうしたことがわからず、とんでもないことになるわけです。その場の「ノリ」というか、その場の雰囲気で、軽い気持ちで行ってしまうわけです。やっている仲間内の人たちは、それが悪魔の誘惑であることに気がつきもしないのです。

シンガポールが陥落したときに、ラジオで「シンガポール陥落」という詩を披露した、高村光太郎もそのようなことをしているときは、自分が悪魔の誘惑に陥っていることに気がつかないのです。谷崎潤一郎も、志賀直哉も、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)も、同じようなことをしているからです。周りのみんなが同じようなことをしているわけですから、自分が悪魔の誘惑に陥っていることに気がつかないのです。しかしあとから考えると、「なんともおろかなことをしていた」と思うのです。

悪魔の誘惑は何が誘惑であるのかもわかりにくいのです。ですから私たちはなおのこと、イエスさまが言われたように、【『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』】ということが大切になるのです。私たちのこころを神さまに向けて、神さまを礼拝し、神さまに仕えて歩んでいくという気持ちをもって歩んでいくということが大切になるのです。そうした思いをこころの中心にもっていないと、私たちはすぐに悪魔の誘惑に陥ってしまうということです。何が誘惑であるのかがわかりにくいからです。

主の祈りで、私たちは「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈ります。とても切実な祈りだと思います。神さま、私たちを試みにあわせないでください。神さまは、私たちを誘惑にあわせないでください。私たちは弱いのです。何が誘惑であるのかということにも気づきにくいし、またすぐに誘惑に陥ってしまうのです。だからこそ、私たちは「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈るのです。

何が誘惑であるのかさえわかりにくい世の中に、私たちは生きています。ですからなおのこと、私たちは「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」という祈りを大切にしたいと思います。また「試みに打ち勝つ力を与えてください」との祈りを持ちたいと思います。そしてなにより、イエスさまが言われたとおりに、『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』という、謙虚で健やかな歩みでありたいと思います。

イエスさまは私たちと共に歩んでくださり、神さまはその御手でもって、私たちを守り導いてくださいます。神さまを心から讃美して、神さまにお仕えしていきましょう。


(2023年2月26日平安教会朝礼拝式・聖餐式)


2023年2月20日月曜日

2月19日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「だいじょうぶ。イエスさまがいるから」

教会学校で歌う讃美歌に、「きみがすきだって」という讃美歌があります。こどもさんびか改訂版132版です。【1.「きみがすきだ」って だれかぼくに いってくれたら ソラ 元気になる。2.「きみはだいじ」って だれかぼくに いってくれたら チョット どきょうがつく。3.「きみといくよ」って だれかぼくに いってくれたら ホラ その気になる。4.「きみがすきだよ、ともだちだよ」イエスさまのこえが きこえてくる】。

この歌の原題は「Kindermutmachlied」(キンダーミットマッハリード)「こどもを勇気づける歌」です。【こどもに勇気を与えるものは「誰かが認めてくれること」(1節)であり、「誰かから必要とされること」(2節)であり、「同伴者がいること」(3節)であり、そして「神さまが助けてくれること」(4節)だということを、こどもの気持ちに寄り添う素直な表現で歌う明るい讃美歌です】(『こどもさんびか改訂版略解』)。

イエスさまが「きみがすきだ」「きみはだいじ」「きみといくよ」「きみがすきだよ、ともだちだよ」と言ってくださり、私たちを励まし、導いてくださっているということが感じられる、とてもすてきな讃美歌だと思います。「Kindermutmachlied」(キンダーミットマッハリード)「こどもを勇気づける歌」ということです。しかしこどもだけでなく、私たち大人も不安になったり、悩んだりすることがありますから、やっぱり勇気づけてくれる、励ましてくれる人がいてほしいなあと思います。ほんとうは良い世の中になってほしいと思っても、「現実」というものの前に、気落ちしてしまい、「やっぱり仕方がないのかなあ」と思ったりすることがあります。でも私たちにはイエスさまがおられ、そしてイエスさまは気落ちしている私たちを励ましてくださるのです。「だいじょうぶ。わたしがいるから」。

今日の聖書の箇所は「五千人に食べ物を与える」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書9章10−11節にはこうあります。【使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた】。

イエスさまは病気をいやす力を弟子たちに授けて、そして弟子たちを派遣しました。弟子たちはそれぞれのところで、福音を告げ知らせ、そして病気の人々をいやしました。そして弟子たちはイエスさまのところに帰ってきて、自分たちの働きについて、イエスさまに報告します。そしてそののち、イエスさまたちはベトサイダという町に行きました。ベトサイダは使徒ペトロやアンデレ、フィリポの故郷の町です。人々はイエスさまを追いかけます。ヘロデ王さえも「会ってみたい」と言ったように、イエスさまは人々からとても慕われています。イエスさまはベトサイダでも人々に、神さまの国について話し、そして病気の人々をいやされました。

ルカによる福音書9章12ー14節にはこうあります。【日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」というのは、男が五千人ほどいたからである。】。

この「五千人に食べ物を与える」という話は、ルカによる福音書にだけ書かれてある話ではなく、四つの福音書全部に書かれてある話です。ヨハネによる福音書では、パン五つと魚二匹をもっているのが少年ということになっています。少年が出てきますから、教会学校なのではこのヨハネによる福音書の話が用いられることが多いと思います。紙芝居などでも、少年が登場したりします。ルカによる福音書にはこの少年は登場しません。パン五つと魚二匹を持っているのは、弟子たちです。

人々はイエスさまの話を熱心に聞いていました。気がつくと夕暮れになっています。それで十二弟子がイエスさまのところにきて、「この辺でお話しをやめて、人々を解散させましょう」と言いました。「そうするとみんなが思い思いに、周りの村や里に行って、宿を決めて、そして食事をとることができるでしょう」。たぶん良い頃合いの良い提案だったのだろうと思います。真っ暗になってからイエスさまの話が終わったのであれば、そのあとみんなどうしたらいいのかわからないような感じになってしまいます。

しかし問題がひとつありました。それはみんなが宿屋に泊まることができ、食べ物を見つけることができるだろうかということです。イエスさまの話を聞きにきた人々の多くは、貧しい人々でした。ですから宿屋に泊まることや食事をするのに、充分なお金をもっていない人々がいました。それでイエスさまは弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と言われました。しかし弟子たちにしても、突然、イエスさまからそのように言われても、困るわけです。準備をしていないのに、こんなに多くの人々に食べ物を与えることなどできないわけです。五千人の人がいたのです。いま弟子たちがもっているのは、パン五つと魚二匹です。自分たちだけが食べたとしても、充分な食事というわけでもないでしょう。そのくらいしかありません。これらの人々のために、食べ物を買いにいかないかぎり、みんなで食べるということはできないでしょう。そのように、弟子たちはイエスさまに言いました。

ルカによる福音書9章14−17節にはこうあります。【イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった】。

イエスさまは「人々を五十人くらいの組にして座らせるように」と、弟子たちに言われました。なんか合理的すぎて、イエスさまに似合わないというような気もしますが、でもまあやっぱり五千人もの多くの人々になにかを分ける場合、ある程度のめどがあったほうが、公平に分けることができるのだと思います。そしてイエスさまは五つのパンと二匹の魚をとり、神さまに感謝の讃美を献げました。そしてそれらを裂いて、弟子たちに渡して、弟子たちは人々に配りました。

この「五千人に食べ物を与える」という奇跡を行われたのは、イエスさまですけれども、弟子たちがそのわざのために働くということが大切なのだと思います。五つのパンと二匹の魚は弟子たちが人々に配っていきます。イエスさまは弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と言われましたが、そのとおりに、弟子たちが人々に食べ物を配ったのです。人々に食べ物を配るというのは、人々に仕えていくという弟子たちの姿勢を表すことになります。イエスさまが教えられたように、弟子たちは人々に仕え、そして人々に食べ物を配っていくのです。

そうすると、五つのパンと二匹の魚で、すべての人々が食べて満腹することができました。満腹するということが、とてもうれしいことなのです。それはふつうの生活では満腹するということがあまりないからです。貧しい生活の中で、食事もそうそう一杯食べられるわけではない。そうした人々が多かったのです。そうした人々が、このとき、満腹することができたのです。そしてみんなが満腹しただけでなく、残ったパンの屑を集めると、十二籠もありました。この十二という数は象徴的な数で、イエスさまの十二弟子、イスラエルの十二部族という数なのです。この「五千人に食べ物を与える」という奇跡の物語は、ユダヤの人々の中で広まったので、ユダヤの人々にとって、神さまから祝福を受けている特別な数としての「十二」が用いられ、「十二籠」とされていると言われます。この出来事が神さまからの大いなる祝福の出来事として、人々が神さまに感謝をしたということです。

この「五千人に食べ物を与える」という奇跡は、私たちに大きな励ましを与えてくれます。五つのパンと二匹の魚しかなかったのに、イエスさまが神さまの祈られ、弟子たちを用いられたときに、五千人の人々がお腹一杯食べることができたのです。「ああ、絶対、無理だ」「そんなこと不可能だ」「良いことだと思うけれども、やっぱりあきらめるしかない」。そのような思いにとらわれることが、私たちには多いですけれども、そうではなく、イエスさまが私たちと共にいてくださって、私たちが不可能だと思えるようなことも、神さまのみ旨に適うことであれば、それは必ず実現すると、聖書は私たちに教えてくれているからです。

イエスさまは弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われました。だれかがやってくれるということではなく、あなたがたがしなさいと、イエスさまは弟子たちに言われました。弟子たちもできることであれば、弟子たちもやりましょうと言うだろうと思います。弟子たちはイエスさまから、悪霊を追い出す力を与えられ、病気の人をいやす力を与えられました。それならできるかも知れません。でも五千人の人に食べ物を与えるということは、自分たちの手には負えないと、弟子たちは思いました。自分たちの手に余ることだと思いました。

私たちも、イエスさまから「これこれのことをしなさい」と言われても、どうも自分には自信がなくて、手に余るような気がするときがあります。だれかがやらなければならないいいことだと自分も思うのだけれども、なかなか勇気をもって踏み出すことができないと思えるときがあります。

「現実を見なければならない」というような思いが、私たちの頭をよぎります。弟子たちが思った、「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません」という思いです。自分たちで人々に食べ物を与えることができるのであれば、それに越したことはない。私たちだって貧しい人々がいることは知っているし、困っている人々がいることは知っている。だからできることであれば、私たちが人々に食べ物を与えたいと思う。でも現実はどうなのか。現実には「わたしたちにはパン五つと魚二匹しか」ないのだ。だからそれは無理なのだ。そのように、私たちは思います。

でもそうした現実を越えて、イエスさまは私たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言っておられるのです。世の中の「現実」ばかりを見ていると、現実に流されてしまいます。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しか」という思いに支配されています。しかしそれはまた私たちが本当に心から望んでいることでもないわけです。現実には無理だと思えるけれども、しかし私たちが心の中で小さく望み、そして、そしてイエスさまが望んでおられることに向けて、私たちは歩んでいきたいと思うのです。

アメリカの公民権運動の指導者であったマーティン・ルーサー・キング牧師は、そのように歩みました。黒人に対する人種差別を撤廃するために、マーティン・ルーサー・キング牧師は働きました。しかしそれはとても困難なことでありました。それは「現実」という言葉の前には、当時は「夢」のように思えました。しかしそれでもマーティン・ルーサー・キング牧師は、「わたしは夢がある」と言いました。

【どうか絶望の谷間でのたうち回らないようにしましょう。わが友よ、私はあなたがたに申し上げたいと思います。私たちは今日も明日もさまざまな困難に直面するでしょうが、それでもなお私は夢を持っています。それはアメリカの夢に深く根ざしている夢です。・・・・。私は夢を持っています。それはいつの日かジョージアの赤土の上で、昔の奴隷の子孫と昔の奴隷主の子孫とが兄弟愛のテーブルに一緒に座ることができるようになるだろうという夢です。・・・・・。私は夢を持っています。それはいつの日かすべての谷は身を起こし、すべての丘と山は身を低くし、険しい地は平らになり、曲がりくねった地はまっすぐになり、主の栄光が現われるのを肉なる者は共に見るという夢です】(クレイボーン・カーソン編、梶原寿訳『マーティン・ルーサー・キング自伝』、日本基督教団出版局)(P.271)。マーティン・ルーサー・キング牧師の夢は、「現実」となります。

マーティン・ルーサー・キング牧師は、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」との、イエスさまの御言葉のように歩みました。キング牧師は絶望の谷間でのたうち回らず、夢をもって歩みました。そしてイエスさまはキング牧師と共に歩まれました。

私たちもまた、いろいろな出来事で、現実ばかりを見て、絶望の谷間でのたうち回ることが多いですけれども、私たちもまたイエスさまが共にいてくださることを覚えて、希望を持って歩みたいと思います。

イエスさまは私たちの心の中の思いをご存じで、私たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と、私たちを励ましてくださっています。「だいじょうぶ。わたしがいるから」「あなたが望んでいる良きことを行ないなさい」。そのように、イエスさまは私たちを励ましておられます。

イエスさまの励ましを信じて、イエスさまと共に歩んでいきましょう。


(2023年2月19日平安教会朝礼拝)

2023年2月13日月曜日

2月12日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「神の名を語る人、神を讃美する人」

書家の石川九楊(いしかわ・きゅうよう)は『<花>の構造ー日本文化の基層ー』(ミネルヴァ現代叢書)という本の中で、「動物と植物の違い」ということで、こんなことを書いています。【植物はエネルギーを作っていく。自ら葉緑素をもっていて、太陽光のエネルギーと水、空気中の炭酸ガスから自分の生きていくエネルギーである糖を作っていく働きを具えている。動物にはそのような力はない。自前でエネルギー源物質を作り出すことはできない。そのため、動き回り、他の動物や植物を捕獲して外部からエネルギーを取り入れる必要がある。動物と植物の間にはその違いがある。私はいつも感心するのだが、人間や動物は重力に従って頭を下に向け、上から下に流れる重力に対して従順な形をしているのに対して、植物は重力に逆らう骨格をもって造形されている。植物の多くは重力に逆らう形で天に向かって枝が繁っている。柳のように枝垂れの形で重力に従って下がっていくものもないわけではないが、基本的には重力に抵抗して立とうとする構造をもっている。これは植物と動物の非常に大きな違いである】(P.76)。

「植物の多くは重力に逆らう形で天に向かって枝が繁っている」。ついつい下を向いて、つぶやくことの多いわたしは、「たしかに植物は天に向かって伸びているなあ」と思います。先日、祈祷会で山下毅先生が、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか」という聖書を引用しておられました。マタイによる福音書9章15節の御言葉です。イエスさまが一緒にいてくださるのに、つぶやいたり、嘆いたりすることが多いなあと思わされました。もっと神さまをみあげて、晴れやかに生きることができないものかなあと思いました。まあ実際、なかなかできないわけですが。

今日の聖書の箇所は、「重い皮膚病を患っている人をいやす」「中風の人をいやす」という表題のついた聖書の箇所です。イエスさまは神さまのことを人々に知らせながら、病気の人々をいやしておられました。この「重い皮膚病を患っている人をいやす」という聖書の箇所は、古い新共同訳聖書を持っておられると「らい病」という「不快用語」が出てきます。日本では長い間、ハンセン病に対する差別的な法律が、そのままになっていたということがあります。そうしたことも含めて、「らい病」ではなく「重い皮膚病」という言い換えがなされています。聖書に出てくる「重い皮膚病」というのは、多くの場合、ハンセン病ではないということもあります。

ルカによる福音書5章12ー16節にはこうあります。【イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。】。

イエスさまは重い皮膚病にかかった人をいやされます。重い皮膚病にかかった人は、イエスさまに「御心ならば」と言いました。「イエスさまがわたしをいやしてくださる思いがあるのであれば」と、謙虚にイエスさまに願いました。イエスさまはその人に手で触れて、重い皮膚病をいやされました。イエスさまはこのことを「だれにも話してはいけない」と言われます。ただ病気が治ったかどうかを最終的に判断をするのは祭司でしたので、祭司のところに行って、直ったことを証明してもらい、献げ物をして、人々に重い皮膚病が直ったことを受け入れてもらいなさいと、イエスさまは言われました。

イエスさまは病をいやした人たちに、「だれにも話さないように」と言われるわけです。それでもやはりイエスさまに治していただいたということは、うわさになって広まっていきます。病気を治してもらいたい人はたくさんいて、その思いは切実でありますから、病気が治った人に「だれに治してもらったの」とたずねるのは、まあ人情であるわけです。私たちでも「どこの医者に行っているの」と日常の会話でたずねます。まあそんなこんなで、いくらイエスさまが「だれにも話してはいけない」と言っても、イエスさまのうわさはどんどんと広まっていき、そして多くの人々がイエスさまのところに集まります。ただイエスさまとしては、いつもいつも人々がたくさん集まっていて、人前にいなければならないのは、ちょっと疲れてしまいます。それで時々、イエスさまは人里離れた所に行って、神さまにお祈りをするのです。神さまにお祈りをするときが、イエスさまの心休まるひとときであるわけです。

ルカによる福音書5章17−20節にはこうあります。【ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた】。

イエスさまが人々に教えておられるところに、ファリサイ派の人々や律法学者たちがやってきて、そこに座っていました。イエスさまがしておられることの様子を見にきていたということでしょう。イエスという男は、いやしのわざを行なったり、人々に神さまのことを伝えているけれども、どんなやつなんだろう。人々の中ではすごい人気があるようだが。そんな感じで偵察にきていたわけです。

イエスさまのところに、中風をわずらって動くことができない人をいやしてもらうおうと、床にのせてくる人たちがいました。しかしイエスさまの周りはすでに群衆がいたので、近づくことができません。それで屋根に上って瓦をはがして、イエスさまのいるところに、中風の人を床ごとつりおろしました。まあなかなかできることではありません。そんなことをすれば家の人に迷惑がかかるのではないかとか、第一それは危険だろうというようなことがあるわけですが、それでもイエスさまにいやしていただきたいという思いが強かったのでしょう。男たちはそのようにして中風の人を、イエスさまの前に連れてきたのでした。その様子をみて、イエスさまはその人に、「あなたの罪は赦された」と言われました。

ルカによる福音書5章21−26節にはこうあります。【ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った】。

イエスさまが「あなたの罪は赦された」と言われたことについて、律法学者たちやファリサイ派の人たちが、心の中で考え始めました。「あなたの罪は赦されたなどというのは、神さまを冒涜することだろう。神さまのほかに誰が罪を赦すことができるというのだ。イエスという男は自分が神さまにでもなったつもりなのか」。そんなふうに心のなかで思いました。イエスさまは律法学者たちやファリサイ派の人たちが、こころのなかで考えていることをご存知でした。

イエスさまは律法学者たちやファリサイ派の人たちに言われました。「あなたたちは心の中で何をぶつぶつと思っているのか。「あなたの罪は赦された」というのと、「起きて歩け」というのと、どちらがたやすいと思うのか。わたしが地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」。そのようにイエスさまは言われ、そして中風の人に言いました。「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」。中風の人はいやされ、床を担いで、神さまを讃美しながら家に帰っていきました。その場にいた人々は、みんな驚きました。そして神さまを讃美しました。そしてあまりの出来事に、恐れを感じ、「今日はほんとに驚くべきことを見た」と言いました。

私たちは現代人ですから、こうした聖書の箇所を読みますと、イエスさまが言われた言葉に引きずられて、「『あなたの罪は赦された』というのと、『起きて歩け』というのは、どちらが易しいのだろう」というようなことに気をとらわれがちです。しかしわたしはそれはあまり意味がないだろうと思います。どちらでもそれは解釈できることだからです。

律法学者たちやファリサイ派の人たちは、「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」と言います。「イエスは神を語っている」というわけです。しかし律法学者たちやファリサイ派の人たちこそ、神を語っているのです。自分たちは神さまの側の人間であり、「あの人は神を冒涜している」「あの人は罪を犯している」と言って、神を語っているのです。

現代においても、人を裁く時に、しばしば神を語る人がいます。「こうしたことは聖書に罪として書かれてある」というように語って、「特定の人々が罪を犯している」と言うのです。しかしモーセの十戒には「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)に書かれてあるのです。

マタイによる福音書4章1節以下に「誘惑を受ける」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の4頁です。イエスさまが悪魔から誘惑を受けるという聖書の箇所です。この箇所で悪魔は、聖書を用いて、イエスさまを説得しようとしています。「聖書に書いてある」というふうに、悪魔は言うわけです。「聖書に書いてある」と言って、人を裁いているとき、私たちは自分の顔が悪魔になっていないか、鏡を見たほうが良いのです。私たちはすぐに、神を語るのです。神を語って、人を裁くのです。

人がいやされたことを喜ぶことなく、「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」と思うファリサイ派の人々、律法学者たちがいます。しかし一方でいやされた人は、神さまを賛美します。【その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。】と記されてあります。また、多くの人々も神さまを賛美します。【人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った】と記されてあります。

ファリサイ派の人々や律法学者たちは、神さまの名を語り、そしてイエスさまを裁きます。しかし一方、多くの人々は、みんなイエスさまのされたことを見て、神さまを賛美します。神の名を語る人、神を讃美する人がいるのです。

わたしは牧師なので、聖書を読んでもどちらかというと、「『あなたの罪は赦された』というのと、『起きて歩け』というのは、どちらが易しいのだろう」というようなことが気になってしまいます。そして関心がそちらの方にいってしまいます。しかしそうしたことはどちらかと言えば、どうでも良いことです。イエスさまが中風の人をいやされてよかった。中風の人が元気になって良かった。中風の人を床にのせて運んだ人たちのやさしさはほんとうにすてきだなあ。そうした思いの方がほんとうは大切な気がします。

小さなことが気になってしまい、大切なことを見失ってしまうことが、私たちにはあります。ファリサイ派の人々や律法学者たちはそうでした。彼らは人を裁くことに関心がいってしまい、神さまを賛美することを忘れてしまっていました。それはとても残念なことです。ファリサイ派の人々や律法学者たちにとっても、それはとても不幸なことだと思います。

石川九楊(いしかわ・きゅうよう)は、「植物の多くは重力に逆らう形で天に向かって枝が繁っている」と言いました。花の多くは天を向いて、枝を広げ、花を咲かせます。私たちもまた天を向いて、神さまを賛美して歩んでいきたいと思います。神さまが用意してくださるたくさんの恵みに感謝して、神さまに向かって歩んでいきたいと思います。



(2023年2月12日平安教会朝礼拝式)

2023年2月6日月曜日

2月5日平安教会礼拝説教要旨(関西学院大学の前川裕牧師)

 

「種を蒔いたらどうなるか」

 イエスは「たとえ話」が上手でした。イエスは大工(家具造りなども含む)という、人々の生活に密着した仕事をしていく中で、人々がよく分かるような「たとえ」の対象を思いついていったのでしょう。「種蒔きのたとえ」は有名なものですが、現在の聖書ではそれぞれの種はこういう人のことである、という説明がついています。これは本来イエスが語りたかった意味ではなさそうで、のちに教会がつけていったものと考えられています。

 イエスが語ったのは、農業に携わる人たち、またガリラヤに生きる人たちが実際に経験していたことでしょう。ここでの種蒔きは現代からすればずいぶん大雑把に思えますが、しかし19世紀に描かれたミレーの絵「種を蒔く男」も同じ姿です。聖書のスタイルの農業はつい150年ほど前まで続いていたようです。道に落ちた種を踏んだ経験のある人たちも多かったでしょう。岩の上に落ちれば芽が出てもすぐ枯れてしまうさまや、茨などの雑草に埋もれてしまうのも通りがかりの人たちが見ていたと思われます。しかし良いところに落ちると、一粒の種が百倍の実りを結ぶと言います。たった一粒から大きな実りが生まれるという驚き、神の国もそのようなものであるというのがイエスの主張だったと考えられます。

 人間は「因果関係」を考える性質があります。それは「あれを食べると苦しむ」のように、身を守るために必要だった能力でしょう。しかし私たちは、「これこれを実行したのだから何かの結果があるに違いない」と考えてしまいます。「種を蒔いたのだから、全ての種に百倍の実りがあるはずだ」というわけです。しかし今日の「たとえ」にあるように、「種を蒔いたらどうなるか」という結果は、私たちには分からないのです。それは人知を超えたこと、まさに神の働くところです。

 では、結果が分からないのだからといって、私たちは何もしなくても良いのでしょうか。「種を蒔く人」は、文字通り「種を蒔いて」います。その結果は分からないけれども、それでも種を撒き続ける。多くの種は実を結ばないかもしれない。しかし「百倍の実り」がある可能性を信じて、種を蒔き続けます。それこそが、私たちに求められている信仰と言えるでしょう。結果はなかなか出ないかもしれません。それでもなお、神が与えてくださる実りを信じつつ、私たちはこの世界で種を蒔き続けていきましょう。


12月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 

               ティツィアーノ・ヴェチェッリオ               《聖母子(アルベルティーニの聖母)》