2023年2月13日月曜日

2月12日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「神の名を語る人、神を讃美する人」

書家の石川九楊(いしかわ・きゅうよう)は『<花>の構造ー日本文化の基層ー』(ミネルヴァ現代叢書)という本の中で、「動物と植物の違い」ということで、こんなことを書いています。【植物はエネルギーを作っていく。自ら葉緑素をもっていて、太陽光のエネルギーと水、空気中の炭酸ガスから自分の生きていくエネルギーである糖を作っていく働きを具えている。動物にはそのような力はない。自前でエネルギー源物質を作り出すことはできない。そのため、動き回り、他の動物や植物を捕獲して外部からエネルギーを取り入れる必要がある。動物と植物の間にはその違いがある。私はいつも感心するのだが、人間や動物は重力に従って頭を下に向け、上から下に流れる重力に対して従順な形をしているのに対して、植物は重力に逆らう骨格をもって造形されている。植物の多くは重力に逆らう形で天に向かって枝が繁っている。柳のように枝垂れの形で重力に従って下がっていくものもないわけではないが、基本的には重力に抵抗して立とうとする構造をもっている。これは植物と動物の非常に大きな違いである】(P.76)。

「植物の多くは重力に逆らう形で天に向かって枝が繁っている」。ついつい下を向いて、つぶやくことの多いわたしは、「たしかに植物は天に向かって伸びているなあ」と思います。先日、祈祷会で山下毅先生が、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか」という聖書を引用しておられました。マタイによる福音書9章15節の御言葉です。イエスさまが一緒にいてくださるのに、つぶやいたり、嘆いたりすることが多いなあと思わされました。もっと神さまをみあげて、晴れやかに生きることができないものかなあと思いました。まあ実際、なかなかできないわけですが。

今日の聖書の箇所は、「重い皮膚病を患っている人をいやす」「中風の人をいやす」という表題のついた聖書の箇所です。イエスさまは神さまのことを人々に知らせながら、病気の人々をいやしておられました。この「重い皮膚病を患っている人をいやす」という聖書の箇所は、古い新共同訳聖書を持っておられると「らい病」という「不快用語」が出てきます。日本では長い間、ハンセン病に対する差別的な法律が、そのままになっていたということがあります。そうしたことも含めて、「らい病」ではなく「重い皮膚病」という言い換えがなされています。聖書に出てくる「重い皮膚病」というのは、多くの場合、ハンセン病ではないということもあります。

ルカによる福音書5章12ー16節にはこうあります。【イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。】。

イエスさまは重い皮膚病にかかった人をいやされます。重い皮膚病にかかった人は、イエスさまに「御心ならば」と言いました。「イエスさまがわたしをいやしてくださる思いがあるのであれば」と、謙虚にイエスさまに願いました。イエスさまはその人に手で触れて、重い皮膚病をいやされました。イエスさまはこのことを「だれにも話してはいけない」と言われます。ただ病気が治ったかどうかを最終的に判断をするのは祭司でしたので、祭司のところに行って、直ったことを証明してもらい、献げ物をして、人々に重い皮膚病が直ったことを受け入れてもらいなさいと、イエスさまは言われました。

イエスさまは病をいやした人たちに、「だれにも話さないように」と言われるわけです。それでもやはりイエスさまに治していただいたということは、うわさになって広まっていきます。病気を治してもらいたい人はたくさんいて、その思いは切実でありますから、病気が治った人に「だれに治してもらったの」とたずねるのは、まあ人情であるわけです。私たちでも「どこの医者に行っているの」と日常の会話でたずねます。まあそんなこんなで、いくらイエスさまが「だれにも話してはいけない」と言っても、イエスさまのうわさはどんどんと広まっていき、そして多くの人々がイエスさまのところに集まります。ただイエスさまとしては、いつもいつも人々がたくさん集まっていて、人前にいなければならないのは、ちょっと疲れてしまいます。それで時々、イエスさまは人里離れた所に行って、神さまにお祈りをするのです。神さまにお祈りをするときが、イエスさまの心休まるひとときであるわけです。

ルカによる福音書5章17−20節にはこうあります。【ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた】。

イエスさまが人々に教えておられるところに、ファリサイ派の人々や律法学者たちがやってきて、そこに座っていました。イエスさまがしておられることの様子を見にきていたということでしょう。イエスという男は、いやしのわざを行なったり、人々に神さまのことを伝えているけれども、どんなやつなんだろう。人々の中ではすごい人気があるようだが。そんな感じで偵察にきていたわけです。

イエスさまのところに、中風をわずらって動くことができない人をいやしてもらうおうと、床にのせてくる人たちがいました。しかしイエスさまの周りはすでに群衆がいたので、近づくことができません。それで屋根に上って瓦をはがして、イエスさまのいるところに、中風の人を床ごとつりおろしました。まあなかなかできることではありません。そんなことをすれば家の人に迷惑がかかるのではないかとか、第一それは危険だろうというようなことがあるわけですが、それでもイエスさまにいやしていただきたいという思いが強かったのでしょう。男たちはそのようにして中風の人を、イエスさまの前に連れてきたのでした。その様子をみて、イエスさまはその人に、「あなたの罪は赦された」と言われました。

ルカによる福音書5章21−26節にはこうあります。【ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った】。

イエスさまが「あなたの罪は赦された」と言われたことについて、律法学者たちやファリサイ派の人たちが、心の中で考え始めました。「あなたの罪は赦されたなどというのは、神さまを冒涜することだろう。神さまのほかに誰が罪を赦すことができるというのだ。イエスという男は自分が神さまにでもなったつもりなのか」。そんなふうに心のなかで思いました。イエスさまは律法学者たちやファリサイ派の人たちが、こころのなかで考えていることをご存知でした。

イエスさまは律法学者たちやファリサイ派の人たちに言われました。「あなたたちは心の中で何をぶつぶつと思っているのか。「あなたの罪は赦された」というのと、「起きて歩け」というのと、どちらがたやすいと思うのか。わたしが地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」。そのようにイエスさまは言われ、そして中風の人に言いました。「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」。中風の人はいやされ、床を担いで、神さまを讃美しながら家に帰っていきました。その場にいた人々は、みんな驚きました。そして神さまを讃美しました。そしてあまりの出来事に、恐れを感じ、「今日はほんとに驚くべきことを見た」と言いました。

私たちは現代人ですから、こうした聖書の箇所を読みますと、イエスさまが言われた言葉に引きずられて、「『あなたの罪は赦された』というのと、『起きて歩け』というのは、どちらが易しいのだろう」というようなことに気をとらわれがちです。しかしわたしはそれはあまり意味がないだろうと思います。どちらでもそれは解釈できることだからです。

律法学者たちやファリサイ派の人たちは、「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」と言います。「イエスは神を語っている」というわけです。しかし律法学者たちやファリサイ派の人たちこそ、神を語っているのです。自分たちは神さまの側の人間であり、「あの人は神を冒涜している」「あの人は罪を犯している」と言って、神を語っているのです。

現代においても、人を裁く時に、しばしば神を語る人がいます。「こうしたことは聖書に罪として書かれてある」というように語って、「特定の人々が罪を犯している」と言うのです。しかしモーセの十戒には「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)に書かれてあるのです。

マタイによる福音書4章1節以下に「誘惑を受ける」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の4頁です。イエスさまが悪魔から誘惑を受けるという聖書の箇所です。この箇所で悪魔は、聖書を用いて、イエスさまを説得しようとしています。「聖書に書いてある」というふうに、悪魔は言うわけです。「聖書に書いてある」と言って、人を裁いているとき、私たちは自分の顔が悪魔になっていないか、鏡を見たほうが良いのです。私たちはすぐに、神を語るのです。神を語って、人を裁くのです。

人がいやされたことを喜ぶことなく、「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」と思うファリサイ派の人々、律法学者たちがいます。しかし一方でいやされた人は、神さまを賛美します。【その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。】と記されてあります。また、多くの人々も神さまを賛美します。【人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った】と記されてあります。

ファリサイ派の人々や律法学者たちは、神さまの名を語り、そしてイエスさまを裁きます。しかし一方、多くの人々は、みんなイエスさまのされたことを見て、神さまを賛美します。神の名を語る人、神を讃美する人がいるのです。

わたしは牧師なので、聖書を読んでもどちらかというと、「『あなたの罪は赦された』というのと、『起きて歩け』というのは、どちらが易しいのだろう」というようなことが気になってしまいます。そして関心がそちらの方にいってしまいます。しかしそうしたことはどちらかと言えば、どうでも良いことです。イエスさまが中風の人をいやされてよかった。中風の人が元気になって良かった。中風の人を床にのせて運んだ人たちのやさしさはほんとうにすてきだなあ。そうした思いの方がほんとうは大切な気がします。

小さなことが気になってしまい、大切なことを見失ってしまうことが、私たちにはあります。ファリサイ派の人々や律法学者たちはそうでした。彼らは人を裁くことに関心がいってしまい、神さまを賛美することを忘れてしまっていました。それはとても残念なことです。ファリサイ派の人々や律法学者たちにとっても、それはとても不幸なことだと思います。

石川九楊(いしかわ・きゅうよう)は、「植物の多くは重力に逆らう形で天に向かって枝が繁っている」と言いました。花の多くは天を向いて、枝を広げ、花を咲かせます。私たちもまた天を向いて、神さまを賛美して歩んでいきたいと思います。神さまが用意してくださるたくさんの恵みに感謝して、神さまに向かって歩んでいきたいと思います。



(2023年2月12日平安教会朝礼拝式)

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