「だいじょうぶ。イエスさまがいるから」
教会学校で歌う讃美歌に、「きみがすきだって」という讃美歌があります。こどもさんびか改訂版132版です。【1.「きみがすきだ」って だれかぼくに いってくれたら ソラ 元気になる。2.「きみはだいじ」って だれかぼくに いってくれたら チョット どきょうがつく。3.「きみといくよ」って だれかぼくに いってくれたら ホラ その気になる。4.「きみがすきだよ、ともだちだよ」イエスさまのこえが きこえてくる】。
この歌の原題は「Kindermutmachlied」(キンダーミットマッハリード)「こどもを勇気づける歌」です。【こどもに勇気を与えるものは「誰かが認めてくれること」(1節)であり、「誰かから必要とされること」(2節)であり、「同伴者がいること」(3節)であり、そして「神さまが助けてくれること」(4節)だということを、こどもの気持ちに寄り添う素直な表現で歌う明るい讃美歌です】(『こどもさんびか改訂版略解』)。
イエスさまが「きみがすきだ」「きみはだいじ」「きみといくよ」「きみがすきだよ、ともだちだよ」と言ってくださり、私たちを励まし、導いてくださっているということが感じられる、とてもすてきな讃美歌だと思います。「Kindermutmachlied」(キンダーミットマッハリード)「こどもを勇気づける歌」ということです。しかしこどもだけでなく、私たち大人も不安になったり、悩んだりすることがありますから、やっぱり勇気づけてくれる、励ましてくれる人がいてほしいなあと思います。ほんとうは良い世の中になってほしいと思っても、「現実」というものの前に、気落ちしてしまい、「やっぱり仕方がないのかなあ」と思ったりすることがあります。でも私たちにはイエスさまがおられ、そしてイエスさまは気落ちしている私たちを励ましてくださるのです。「だいじょうぶ。わたしがいるから」。
今日の聖書の箇所は「五千人に食べ物を与える」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書9章10−11節にはこうあります。【使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた】。
イエスさまは病気をいやす力を弟子たちに授けて、そして弟子たちを派遣しました。弟子たちはそれぞれのところで、福音を告げ知らせ、そして病気の人々をいやしました。そして弟子たちはイエスさまのところに帰ってきて、自分たちの働きについて、イエスさまに報告します。そしてそののち、イエスさまたちはベトサイダという町に行きました。ベトサイダは使徒ペトロやアンデレ、フィリポの故郷の町です。人々はイエスさまを追いかけます。ヘロデ王さえも「会ってみたい」と言ったように、イエスさまは人々からとても慕われています。イエスさまはベトサイダでも人々に、神さまの国について話し、そして病気の人々をいやされました。
ルカによる福音書9章12ー14節にはこうあります。【日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」というのは、男が五千人ほどいたからである。】。
この「五千人に食べ物を与える」という話は、ルカによる福音書にだけ書かれてある話ではなく、四つの福音書全部に書かれてある話です。ヨハネによる福音書では、パン五つと魚二匹をもっているのが少年ということになっています。少年が出てきますから、教会学校なのではこのヨハネによる福音書の話が用いられることが多いと思います。紙芝居などでも、少年が登場したりします。ルカによる福音書にはこの少年は登場しません。パン五つと魚二匹を持っているのは、弟子たちです。
人々はイエスさまの話を熱心に聞いていました。気がつくと夕暮れになっています。それで十二弟子がイエスさまのところにきて、「この辺でお話しをやめて、人々を解散させましょう」と言いました。「そうするとみんなが思い思いに、周りの村や里に行って、宿を決めて、そして食事をとることができるでしょう」。たぶん良い頃合いの良い提案だったのだろうと思います。真っ暗になってからイエスさまの話が終わったのであれば、そのあとみんなどうしたらいいのかわからないような感じになってしまいます。
しかし問題がひとつありました。それはみんなが宿屋に泊まることができ、食べ物を見つけることができるだろうかということです。イエスさまの話を聞きにきた人々の多くは、貧しい人々でした。ですから宿屋に泊まることや食事をするのに、充分なお金をもっていない人々がいました。それでイエスさまは弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と言われました。しかし弟子たちにしても、突然、イエスさまからそのように言われても、困るわけです。準備をしていないのに、こんなに多くの人々に食べ物を与えることなどできないわけです。五千人の人がいたのです。いま弟子たちがもっているのは、パン五つと魚二匹です。自分たちだけが食べたとしても、充分な食事というわけでもないでしょう。そのくらいしかありません。これらの人々のために、食べ物を買いにいかないかぎり、みんなで食べるということはできないでしょう。そのように、弟子たちはイエスさまに言いました。
ルカによる福音書9章14−17節にはこうあります。【イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった】。
イエスさまは「人々を五十人くらいの組にして座らせるように」と、弟子たちに言われました。なんか合理的すぎて、イエスさまに似合わないというような気もしますが、でもまあやっぱり五千人もの多くの人々になにかを分ける場合、ある程度のめどがあったほうが、公平に分けることができるのだと思います。そしてイエスさまは五つのパンと二匹の魚をとり、神さまに感謝の讃美を献げました。そしてそれらを裂いて、弟子たちに渡して、弟子たちは人々に配りました。
この「五千人に食べ物を与える」という奇跡を行われたのは、イエスさまですけれども、弟子たちがそのわざのために働くということが大切なのだと思います。五つのパンと二匹の魚は弟子たちが人々に配っていきます。イエスさまは弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と言われましたが、そのとおりに、弟子たちが人々に食べ物を配ったのです。人々に食べ物を配るというのは、人々に仕えていくという弟子たちの姿勢を表すことになります。イエスさまが教えられたように、弟子たちは人々に仕え、そして人々に食べ物を配っていくのです。
そうすると、五つのパンと二匹の魚で、すべての人々が食べて満腹することができました。満腹するということが、とてもうれしいことなのです。それはふつうの生活では満腹するということがあまりないからです。貧しい生活の中で、食事もそうそう一杯食べられるわけではない。そうした人々が多かったのです。そうした人々が、このとき、満腹することができたのです。そしてみんなが満腹しただけでなく、残ったパンの屑を集めると、十二籠もありました。この十二という数は象徴的な数で、イエスさまの十二弟子、イスラエルの十二部族という数なのです。この「五千人に食べ物を与える」という奇跡の物語は、ユダヤの人々の中で広まったので、ユダヤの人々にとって、神さまから祝福を受けている特別な数としての「十二」が用いられ、「十二籠」とされていると言われます。この出来事が神さまからの大いなる祝福の出来事として、人々が神さまに感謝をしたということです。
この「五千人に食べ物を与える」という奇跡は、私たちに大きな励ましを与えてくれます。五つのパンと二匹の魚しかなかったのに、イエスさまが神さまの祈られ、弟子たちを用いられたときに、五千人の人々がお腹一杯食べることができたのです。「ああ、絶対、無理だ」「そんなこと不可能だ」「良いことだと思うけれども、やっぱりあきらめるしかない」。そのような思いにとらわれることが、私たちには多いですけれども、そうではなく、イエスさまが私たちと共にいてくださって、私たちが不可能だと思えるようなことも、神さまのみ旨に適うことであれば、それは必ず実現すると、聖書は私たちに教えてくれているからです。
イエスさまは弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われました。だれかがやってくれるということではなく、あなたがたがしなさいと、イエスさまは弟子たちに言われました。弟子たちもできることであれば、弟子たちもやりましょうと言うだろうと思います。弟子たちはイエスさまから、悪霊を追い出す力を与えられ、病気の人をいやす力を与えられました。それならできるかも知れません。でも五千人の人に食べ物を与えるということは、自分たちの手には負えないと、弟子たちは思いました。自分たちの手に余ることだと思いました。
私たちも、イエスさまから「これこれのことをしなさい」と言われても、どうも自分には自信がなくて、手に余るような気がするときがあります。だれかがやらなければならないいいことだと自分も思うのだけれども、なかなか勇気をもって踏み出すことができないと思えるときがあります。
「現実を見なければならない」というような思いが、私たちの頭をよぎります。弟子たちが思った、「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません」という思いです。自分たちで人々に食べ物を与えることができるのであれば、それに越したことはない。私たちだって貧しい人々がいることは知っているし、困っている人々がいることは知っている。だからできることであれば、私たちが人々に食べ物を与えたいと思う。でも現実はどうなのか。現実には「わたしたちにはパン五つと魚二匹しか」ないのだ。だからそれは無理なのだ。そのように、私たちは思います。
でもそうした現実を越えて、イエスさまは私たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言っておられるのです。世の中の「現実」ばかりを見ていると、現実に流されてしまいます。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しか」という思いに支配されています。しかしそれはまた私たちが本当に心から望んでいることでもないわけです。現実には無理だと思えるけれども、しかし私たちが心の中で小さく望み、そして、そしてイエスさまが望んでおられることに向けて、私たちは歩んでいきたいと思うのです。
アメリカの公民権運動の指導者であったマーティン・ルーサー・キング牧師は、そのように歩みました。黒人に対する人種差別を撤廃するために、マーティン・ルーサー・キング牧師は働きました。しかしそれはとても困難なことでありました。それは「現実」という言葉の前には、当時は「夢」のように思えました。しかしそれでもマーティン・ルーサー・キング牧師は、「わたしは夢がある」と言いました。
【どうか絶望の谷間でのたうち回らないようにしましょう。わが友よ、私はあなたがたに申し上げたいと思います。私たちは今日も明日もさまざまな困難に直面するでしょうが、それでもなお私は夢を持っています。それはアメリカの夢に深く根ざしている夢です。・・・・。私は夢を持っています。それはいつの日かジョージアの赤土の上で、昔の奴隷の子孫と昔の奴隷主の子孫とが兄弟愛のテーブルに一緒に座ることができるようになるだろうという夢です。・・・・・。私は夢を持っています。それはいつの日かすべての谷は身を起こし、すべての丘と山は身を低くし、険しい地は平らになり、曲がりくねった地はまっすぐになり、主の栄光が現われるのを肉なる者は共に見るという夢です】(クレイボーン・カーソン編、梶原寿訳『マーティン・ルーサー・キング自伝』、日本基督教団出版局)(P.271)。マーティン・ルーサー・キング牧師の夢は、「現実」となります。
マーティン・ルーサー・キング牧師は、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」との、イエスさまの御言葉のように歩みました。キング牧師は絶望の谷間でのたうち回らず、夢をもって歩みました。そしてイエスさまはキング牧師と共に歩まれました。
私たちもまた、いろいろな出来事で、現実ばかりを見て、絶望の谷間でのたうち回ることが多いですけれども、私たちもまたイエスさまが共にいてくださることを覚えて、希望を持って歩みたいと思います。
イエスさまは私たちの心の中の思いをご存じで、私たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と、私たちを励ましてくださっています。「だいじょうぶ。わたしがいるから」「あなたが望んでいる良きことを行ないなさい」。そのように、イエスさまは私たちを励ましておられます。
イエスさまの励ましを信じて、イエスさまと共に歩んでいきましょう。
(2023年2月19日平安教会朝礼拝)
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