日本基督教団平安教会は、京都市の岩倉にあるキリスト教会です。「自由で明るく思いやりのある教会」の歩みでありたいと思っています。教会のwebsiteは、http://heian-church.com/index.html。教会のTwitterは、https://twitter.com/heian2019。教会へのメールは、heiankyoukai@live.jp。郵便振替は、01010-7-22442。
2023年3月21日火曜日
3月19日平安教会礼拝説教要約(鈴木祈牧師)
2023年3月14日火曜日
3月12日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)
「十字架のもとに逃れる」
今週の土曜日に、関西セミナーハウスの講演会がもたれます。「東九条こども食堂の試みから」ということで、前在日大韓基督教会京都南部教会牧師の許伯基(ほべっき)牧師に講演をしていただきます。許伯基牧師は、2016年から2022年まで、東九条こども食堂の実行委員長をしておられました。この講演会はわたしが企画をした講演会なので、一生懸命に宣伝をしています。3月18日(土)13時半からですので、興味のある方はぜひお申し込みください。
こども食堂の取り組みをしている教会というのは、わたしの知り合いでもいくつかあります。とてもすばらしい働きであると思います。こども食堂はボランティアの働きです。NPO法人全国こども食堂支援センター「むすびえ」によると、「こども食堂の輪が全国に広がっておりその数6年で約23倍にまで増えました」とあります。NPO法人「むすびえ」の理事長は湯浅誠さんです。2008年末に日比谷公園で行われた「年越し派遣村」の「村長」として、貧困問題に取り組んでおられた社会活動家です。
【「こども食堂」とは、子どもが一人でも行ける無料または低額の食堂です。「地域食堂」「みんな食堂」という名称のところもあります。こども食堂は民間発の自主的・自発的な取組みです。しかし、それゆえ運営を支援する公的な制度などが整備されていないにもかかわらず、こども食堂の数は増加の一途をたどっており、現在その数は全国で約7,000箇所にものぼっています。(2022年12月「むすびえ及び地域ネットワーク」調べ ※2016年は朝日新聞調べ)】。「こども食堂の数は増加の一途をたどっている」という記事を読みながら、わたしはこれは喜んでいいことなのか、どういうことなのかよくわらないという思いがあります。どんどんとこども食堂がふえていくというように、私たちの国は貧しくなっているのか。どんどんとこども食堂が増えていって、私たちの国はこころ豊かになっているのか。そうしたことも、実際にこども食堂をしておられた許伯基牧師にお伺いして、これからの社会、私たちはどのように考えて生きていけばよいのかを、みんなで考えるときでありたいと思っています。
貧困いう社会的な課題だけでなく、私たちクリスチャンは「何により頼んで生きているのか」という問いの前に、いつも立たされています。わたしを救ってくださる方はだれなのかという問いです。自分で自分を救うのか。地域が救ってくれるのか。また国家が救ってくれるのか。経済的なことであれば、自助・共助・公助ということが中心になるかと思います。しかし経済的なことだけで、私たちは生きているわけではありません。イエスさまが悪魔の誘惑に際して言われた、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ということです。私たちはパンだけで生きているのではありません。パンだけで生きることはできないのです。本当の意味で、私たちを救ってくださる方はだれなのか。八方ふさがりになって、どうしようもなくなったときに、どこに逃れていけば良いのかということです。
今日の聖書の箇所は、「ペトロ、信仰を言い表す」「イエス、死と復活を予告する」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書9章18−20節にはこうあります。【イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」】。
群衆はイエスさまのことを、「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「昔の預言者だ」と言っていました。洗礼者ヨハネはイエスさまよりも少し早く生まれて、ヨルダン川で人々に悔い改めの洗礼を授けていました。そしてユダヤの指導者たちが神さまの御心に反して政治を行っていることを批判しました。ですから洗礼者ヨハネは、まあ預言者のような人です。エリヤは旧約聖書に出てくる預言者です。北王国イスラエルのアハブ王の時代の預言者で、とても力強い預言者でした。モーセのあとに現れた預言者のなかで一番すばらしい預言者であると言われていました。また世の終わり・終末のときにまた現れると言われていた特別な預言者です。そのほか昔の預言者が生き返ったのではないかと、イエスさまについて言われていました。
しかし人々はイエスさまのことを、「預言者」と思っていたということです。しかしペトロはイエスさまから「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問われて、「神からのメシアです。」と答えています。メシアというのは、「救い主」ということです。ペトロはイエスさまのことを単なる預言者ではなく、「救い主」だと言いました。政治的な問題を解決してくれる預言者ではなく、イエスさまは神さまからのメシア、救い主なのだ。わたしの魂を救ってくださる方なのだと、ペトロは答えました。ですからこの箇所の表題は「ペトロ、信仰を言い表す」ということであるわけです。ペトロの信仰告白であるわけです。わたしがだれにも頼ることができない、周りの人たちもわたしのことを助けることができない、八方ふさがりになって、脅えているときに、逃れていくところは、イエスさまのところだと、ペトロは答えたのです。
ルカによる福音書9章21ー23節にはこうあります。【イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。】。
イエスさまはペトロの信仰告白を受け、そのあと自分がこのあと歩むことになる十字架への道について話されます。そして三日目に復活することについて話されます。実際にイエスさまがどのような目に会われるのかということは、ルカによる福音書では、ルカによる福音書22章あたりから書かれてあるわけです。イエスさまはユダヤの指導者たちによって捕まえられ、裁判をうけて、人々から辱められてながら、ゴルゴタの丘で十字架につけられます。
イエスさまは弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われます。私たちはこのあと、イエスさまがどのような目にあわれるのかということを知っていますが、弟子たちは知りません。ですから「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われても、あまりピンとくることはなかっただろうと思います。なんか「十字架なんて、ちょっと不吉な話をされるものだなあ」という感じで聞いていたのではないかと思います。
ルカによる福音書9章24−27節にはこうあります。【自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」】。
「命を救う」とか「命を失う」とか、イエスさまが言っておられるのを聞いて、弟子たちはますます不安になったことだと思います。そして不安になるのと同時に、自分たちの歩みについて考えさせられただろうと思います。私たちが生きているということはどういうことであるのか。自分たちはイエスさまに付き従って歩みたいと思っているけれども、でも命を失うようなことになるのであれば、それは怖い。そうだけれど、イエスさまに付き従って歩むという生き方を自分たちが止めてしまったら、そのあとの人生はからっぽの人生になってしまうのではないのだろうか。悪魔が「おまえに全世界をやるから、イエスに従うのではなく、オレに従え」と言ったとして、オレは悪魔に従うのか。それはあまりに恥ずかしいことではないのか。イエスさまに従うのではなく、悪魔の誘惑に負けてしまって、悪魔に従っているのであれば、世の終わり・終末の時に、私たちはどうなってしまうのか。世の終わり・終末のときに、イエスさまから「おまえたちのことは知らない」と言われたら、私たちはどうすればいいんだ。そのように弟子たちは思ったことだと思います。
イエスさまは「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と言われ、激しく弟子たちに問いかけました。あなたはだれを頼りにして生きているのか。あなたはだれにより頼んで生きているのか。あなたがだれにも頼ることができず、周りの人たちもあなたのことを助けることができない、八方ふさがりになって、脅えているときに、あなたが逃れていくところは、どこなのかと、イエスさまは弟子たちに問われました。だれが「神からのメシア」であるのか。そして、イエスさまは弟子たちに「わたしについて来なさい」「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。
讃美歌21−300番は「十字架のもとに」という讃美歌です。この讃美歌は讃美歌1編にも載っている讃美歌です。讃美歌1編262番の「十字架のもとぞ いとやすけき」という讃美歌です。この讃美歌は、2番と3番の歌詞は、讃美歌21も讃美歌1編もほぼ同じです。しかし1番の歌詞の前半が若干違っています。讃美歌21の方は「1.十字架のもとに われは逃れ 重荷をおろして しばし憩う」です。そして讃美歌1編の方は「1.十字架のもとぞ いとやすけき 神の義と愛の あえるところ」となっています。讃美歌1編の方の「神の義と愛の あえるところ」という歌詞は、イエス・キリストの十字架ということの意味をよく表している歌詞になっています。どうしてこの歌詞が、讃美歌21では無くなったのかということまでは、わたしには調べることができませんでした。ただ説教塾というグループを運営しておられる平野克巳牧師によると、もともとの讃美歌にはこの「神の義と愛の あえるところ」という内容のものがあるようです。(説教塾「復活と十字架の説教をめぐるメーリングリスト討論」)(http://www.sekkyou.com/jp/example/ml2006.php)。
「1.十字架のもとぞ いとやすけき 神の義と愛の あえるところ」というのは、神さまは義なる方あるから、いい加減で罪深い私たちは裁かれて当然であるけれども、しかし神さまは私たちのところにイエスさまを送ってくださり、私たちの罪のためにイエスさまが十字架についてくださった。それが私たちにしめされた神さまの愛だということです。イエスさまの十字架ということをよく表している歌詞だと思います。
この讃美歌の歌詞をつくった人は、エリザベス・C・クレフェーンという女性です。『讃美歌21略解』にはこう書かれてあります。【作詞者はスコットランドの賛美歌学者エリザベス・クレーフェン(1830−69)です。彼女はエディンバラの裕福な家に生まれましたが、病弱のため弱い立場の人に心をくだき、姉と共に財産を売って貧しい人を助けたこともしばしばあり、地元の人から「太陽」と呼ばれていたと言います。この賛美歌は彼女の死後、雑誌The Family Treasury(1872)に無記名で発表されました。主の十字架のもと、人生の重荷をおろして安らぎを得る、と個人的な景観をうたうこの賛美歌は、多くの人の心に平安を与えてきました】(P.195)。
讃美歌21の「十字架のもとに」の歌詞の1番「1.十字架のもとに われは逃れ 重荷をおろして しばし憩う。あらしふく時の いわおのかげ、荒れ野の中なる わが隠れ家」という歌詞は、エリザベス・クレーフェンの信仰をよく表している歌詞だと思います。エリザベス・クレーフェンは財産を売って貧しい人を助けるということをしていますから、そうした社会の抱える貧困や不条理ということについて、真摯に考え、行動する人であったのだと思います。しかしエリザベス・クレーフェンは、それだけでなく、自分の魂の問題、自分がだれによって守られて生きているのか。自分を救ってくださる方はだれであるのか。あなたがだれにも頼ることができず、周りの人たちもあなたのことを助けることができない、八方ふさがりになって、脅えているときに、あなたが逃れていくところは、どこなのか。そのことをエリザベス・クレーフェンは、「十字架のもとに」という讃美歌の中で明らかにしています。「1.十字架のもとに われは逃れ 重荷をおろして しばし憩う。あらしふく時の いわおのかげ、荒れ野の中なる わが隠れ家」。
守ってくださる方がおられるということは、とても安心なことです。ここに逃れればいいのだというところを知っているということは、とても安心なことです。わたしはそれはクリスチャンに与えられている幸いだと思います。悲しい時、さみしい時、行き詰まった時、ぼろぼろになったとき、私たちは逃(のが)れるところを知っています。「ああ、それ、いいな」と思われた方は、ぜひ、洗礼を受けてクリスチャンになっていただきたいと、わたしは思います。
私たちを守り、導いてくださる、確かな方であるイエス・キリストがおられます。私たちはイエス・キリストを信じて歩みます。教会に集うお一人お一人の歩みが、イエスさまに守られて、健やかな歩みでありますようにとお祈りいたします。
(2023年3月12日平安教会朝礼拝式・受難節3)
2023年3月6日月曜日
3月5日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)
「口を利けなくする悪霊からの解放」
連合の芳野友子(よしの・ともこ)会長と岸田総理大臣との対談の内容が、朝日新聞の記事になっていました。【芳野氏が「夏休みや冬休みは給食がなく、体重が減る子もいる」と話すと、首相はソファから身を乗り出し「え、そんなこどもたちがいるんですか」】と言ったとありました。そうしたことは何度もニュースで流れているような気がするわけですが、総理大臣のところには意外にもそうした声は届いていないのだと、ちょっとこれには驚きました。時代劇で、江戸時代にお殿様のところに、お百姓さんの苦しみが届いていないということで、お百姓さんが直訴をするところを、周りの武士に刀で斬られて殺されてしまうというような感じのことがあります。なかなか為政者には庶民の声は届かないものだのだと思いました。ウクライナ戦争を続けているロシアのプーチン大統領のところにも、なかなか声が届かないのだろうと思います。周りの人もプーチン大統領が不機嫌になることを伝えたいとは思わないのだと思います。アジア・太平洋戦争のときも、やはり同じようなことが行われていたようです。そして戦争が続けられ、破滅的なことになっていきました。
イギリスの代表的な現代作家と言われるジュリアン・バーンズという人はこんなことを言っています。【「最高の愛国心とは、あなたの国が不名誉で、馬鹿で、悪辣な事をしている時に、それを言ってやることだ」(The greatest patriotism is to tell your country when it is behaving dishonorably, foolishly, viciously.)】。「最高の愛国心とは、あなたの国が不名誉で、馬鹿で、悪辣な事をしている時に、それを言ってやることだ」。わたしは自分がそんなに愛国者であるとは思いませんが、やはり国が恥ずかしいことをしているときは、「それはちょっと恥ずかしいよ」と言いたいと思います。とくにいまの時代、わたしは政治家には倫理的であってほしいと思います。デジタルでどんどんとすべてのものが拡がっていく世の中にあっては、「この人は嘘をつかない」「この人は倫理的な人だ」ということは、とても大切なことだと思うからです。そうした基準がなければ、何も信用できないからです。
今日の聖書の箇所は「ベルゼブル論争」「汚れた霊が戻って来る」という表題のついた聖書の箇所です。ベルゼブルというのは悪霊の頭のことです。まあ「サタン」というような感じのものであるわけです。ルカによる福音書11章14−16節にはこうあります。【イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。】。
イエスさまは悪霊に取りつかれた人たちから悪霊を追い出しておられました。悪霊に取りつかれて、暴力的な行動をとったり、大声を出してどなったり、自分で自分のことを傷つけたりする人がいたわけです。イエスさまの時代、病気は悪霊のなす業であると考えられていました。この聖書の箇所では、「口を利けなくする悪霊」が追い出されます。
わたしはこの聖書の箇所、何度となく読んでいますし、何度も説教をしているわけですが、「口を利けなくする悪霊」に関心が向くことはあまりありませんでした。日常生活の中で、悪口を言っているような場面に出くわすことがありますし、また自分自身も悪口を言っていることがあったりします。「しつこく人の悪口を言うわたしは悪霊に取りつかれているなあ」というのは感じるわけです。
しかしルカによる福音書では、洗礼者ヨハネの誕生に際して、その父親のザカリアは神殿で口が利けなくなります。そしてそののち口が利けるようになると、最初に神さまを讃美します。ルカによる福音書1章64節にはこうあります。新約聖書の101頁です。【すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた】。口が利けなくなっていてザカリアが口が利けるようになると、神を賛美し始めるというのは、なかなか考えさせられます。私たちは自分の口を何のために用いているのかということです。不平や不満、悪口を言うために用いているのではないのか。神さまを賛美するために、しっかりと用いているのかということです。
また悪霊に取りつかれて、口が利けなくなる場合もあるわけです。私たちは「口が利けなくなる」悪霊に取りつかれているのではないかとも思うときがあるわけです。独裁者がいる国の様子などをニュースでみる場合が、私たちにはあります。「ああ、自由に口を利くことができないのは、つらいなあ」と思います。独裁者によって治められ、戦争をしている国などの様子を見てみると、「戦争反対」と自由に言うことができない様子がうかがえます。食べるものもなく飢え死にしそうであるにも関わらず、独裁者に不平を言うことも許されない。そうした国があります。
イエスさまは口を利けなくする悪霊を追い出され、口の利けない人がものを言い始めるようにされました。それをみて、群衆は驚きます。しかしイエスさまが悪霊を追い出されたのをみて、「イエスは悪霊の頭であるベルゼブルの力によって悪霊を追い出している」という人たちがいました。またイエスさまに奇跡をしてほしいと言って、イエスさまを試す人たちもいました。
ルカによる福音書11章17−19節にはこうあります。【しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。】。
まあ、イエスさまのことを悪く言う人が、「あいつは悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言っていることに、イエスさまは「そんなことはあるわけないだろう。あほらしい」と答えているということなので、内容的にはまあそんなに深いことが書かれてあるわけでもありません。「サタンは内輪もめすれば、どうしてその国は成り立っていくだろうか」と、イエスさまは言っておられます。まあ実際、私たちはサタンのような指導者が内輪もめして、その国が内戦状態に陥ってしまっているというようなことを見聞きします。国家の支配者になりたいという人の気持ちというのは、一般人である私たちの考えをはるかに越えて、奇妙な論理で成り立っているというような場合がありますから、そうしたことが起こるのです。なかなか怖いなあと思います。
ルカによる福音書11章20−23節にはこうあります。【しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」】。
イエスさまは自分は悪霊の力ではなく、神さまの力によって悪霊を追い出している。だから神さまの国はあなたたちのところに来ている。だから安心しなさいと、言われました。力のある方に守られていると安心だろう。戦いのとき、強いと思っている人も、それ以上に強い人がやってくると負けてしまう。そして強い人がすべての武器を奪い取り、そして分捕り品も強い人たちのグループがみんなでわける。あなたたちはわたしのことを、「悪霊の頭ベルゼブルの仲間だ」というようなことを言うけれども、わたしに味方しない者はわたしの敵である。わたしと一緒に歩んでいかない人は、わたしの仲間だということだけれど、あなたたちはわたしに敵対していて、それでよいのか。と、イエスさまは言われました。
ルカによる福音書11章24−26節にはこうあります。【「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」】。
「汚れた霊が戻って来る」という表題のついた聖書の箇所です。汚れた霊が人から出て行くと、まあその人は良い状態になるわけです。しかしまた不養生をしていると、汚れた霊に取りつかれてしまって、以前よりももっと悪い状態になるということです。せっかく病気が治っても、また好き勝手なことをしていると、それよりも重い病気になってしまうというようなこともあります。また信仰的なことからすれば、イエスさまの教えを聞いてそのときは悔い改めても、人は弱いですからまた勝手なことをしてしまって、不信仰な歩みになってしまうというようなことがあるわけです。
イエスさまは病気の人々をいやされ、神さまが私たち一人一人を愛してくださっていることを、いろいろなところでお話しておられました。またときにイエスさまは神さまの国が来ていると思えるような国の治め方をしてほしいと、国を治めている人々を非難されました。イエスさまの言われることが都合の悪い人たちにとって、イエスさまは悪霊の頭ベルゼブルの仲間に思えました。そして「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言っていました。
私たちは主の祈りで、「御国が来ますように」と祈ります。神さまの御心にかなった世の中になりますようにと願います。政治は人間が行っていることですから、まあそんなにりっぱで愛に充ちた政治になるということは、なかなかむつかしいのかも知れません。私たちは「ウクライナに平和が来ますように」と祈りますが、なかなかそのような気配はありません。そうしたなかで、「いつまでもアメリカが守ってくれるわけでもなさそうだから、増税をして軍備を増強して」というような話がでてきます。武力が世の中を治めているという視点にだけ目を向けていると、そのようになってしまうのだと思います。しかし私たちは武力がこの世を治めているとは思いません。私たちの世界を治めているのは、神さまの愛です。だから私たちは「御国が来ますように」と祈ります。
「黙ってたほうがいいかなあ。まあわたしが言うことでもないか」というような気持ちになることが多いですが、しかし「口を利けなくする悪霊によって口が利けなくされているのではないか」と、立ち止まって考えてみることも、私たちには大切です。
ルカによる福音書19章28節以下に、「エルサレムに迎えられる」という表題のついた聖書の箇所があります。イエスさまが十字架につけられるために、エルサレムにやってくるという聖書の箇所です。受難週の始まりであります「棕櫚の主日」によく読まれる聖書の箇所です。新約聖書147頁です。
ルカによる福音書19章37−42節にはこうあります。【イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。】。
子ろばに乗ってイエスさまがエルサレムにやって来られるとき、群衆は自分たちの服を道にしいて、イエスさまを迎えます。そしてイエスさまの弟子たちは、神さまを賛美します。そのとき、ファリサイ派のある人は、イエスさまに「先生、お弟子たちを叱ってください」と言うわけです。そのときイエスさまは、「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」と言われました。そして自分を十字架につける人たちの都であるエルサレムにこう言われました。「「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない」。そしてエルサレムでイエスさまは十字架につけられます。
自由にものが言えない社会は、滅びへと向かっていきます。ですから私たちは、口を利けなくする悪霊が出ないように、私たちの国でも社会でも会社でも教会でも、そのような雰囲気にならないように気をつけたいと思います。みんなが自由にものが言えるように、穏やかに話しあうことができる社会を作り出していきたいと思います。
ときにわたし自身も、人が自由にものが言えないような雰囲気を作り出してしまうときがあります。この受難節のとき、そうした自らの罪深さにもこころを向けつつ過したいと思います。国家も社会も、私たち自身の有り様が作り出していく世界です。私たちが悪霊に魂を売り渡していく時に、私たちの国家も私たちの社会も、悪霊にとって快適な世界になっていきます。そのことを受けとめながら、イエスさまが示される愛の道を、私たちは歩んでいきたいと思います。神さまを賛美しつつ、イエスさまの御跡を歩んできましょう。
(2023年3月5日平安教会朝礼拝式)
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「Church: Living with compassion」 「教会ー思いやりをもって生きるー」 聖書箇所 使徒言行録2章1−13節 日時場所 2025年6月8日平安教会朝礼拝・ペンテコステ・花の日子どもの日礼拝 Congratulations on Pentecost. I...
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「隠れたことを見ておられる神がおられる」 聖書箇所 ルカ24:44-53。155/470。 日時場所 2025年6月1日平安教会朝礼拝式 来週はアメリカのサンディエゴからPOVUCC教会の方々がきてくださいます。アメリカのトランプ大統領もいろいろな政策を打ち出し、以前のようなアメ...
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「幼子のような者に」 聖書箇所 マタイによる福音書11章25ー30節 日時場所 2025年6月15日平安教会朝礼拝 西巻茅子さんという絵本作家がおられます。『わたしのワンピース』(こぐま社)という絵本が、とても有名です。わたしの娘は幼稚園のとき、西巻茅子さんの絵の『ちいさなきい...