「十字架のもとに逃れる」
今週の土曜日に、関西セミナーハウスの講演会がもたれます。「東九条こども食堂の試みから」ということで、前在日大韓基督教会京都南部教会牧師の許伯基(ほべっき)牧師に講演をしていただきます。許伯基牧師は、2016年から2022年まで、東九条こども食堂の実行委員長をしておられました。この講演会はわたしが企画をした講演会なので、一生懸命に宣伝をしています。3月18日(土)13時半からですので、興味のある方はぜひお申し込みください。
こども食堂の取り組みをしている教会というのは、わたしの知り合いでもいくつかあります。とてもすばらしい働きであると思います。こども食堂はボランティアの働きです。NPO法人全国こども食堂支援センター「むすびえ」によると、「こども食堂の輪が全国に広がっておりその数6年で約23倍にまで増えました」とあります。NPO法人「むすびえ」の理事長は湯浅誠さんです。2008年末に日比谷公園で行われた「年越し派遣村」の「村長」として、貧困問題に取り組んでおられた社会活動家です。
【「こども食堂」とは、子どもが一人でも行ける無料または低額の食堂です。「地域食堂」「みんな食堂」という名称のところもあります。こども食堂は民間発の自主的・自発的な取組みです。しかし、それゆえ運営を支援する公的な制度などが整備されていないにもかかわらず、こども食堂の数は増加の一途をたどっており、現在その数は全国で約7,000箇所にものぼっています。(2022年12月「むすびえ及び地域ネットワーク」調べ ※2016年は朝日新聞調べ)】。「こども食堂の数は増加の一途をたどっている」という記事を読みながら、わたしはこれは喜んでいいことなのか、どういうことなのかよくわらないという思いがあります。どんどんとこども食堂がふえていくというように、私たちの国は貧しくなっているのか。どんどんとこども食堂が増えていって、私たちの国はこころ豊かになっているのか。そうしたことも、実際にこども食堂をしておられた許伯基牧師にお伺いして、これからの社会、私たちはどのように考えて生きていけばよいのかを、みんなで考えるときでありたいと思っています。
貧困いう社会的な課題だけでなく、私たちクリスチャンは「何により頼んで生きているのか」という問いの前に、いつも立たされています。わたしを救ってくださる方はだれなのかという問いです。自分で自分を救うのか。地域が救ってくれるのか。また国家が救ってくれるのか。経済的なことであれば、自助・共助・公助ということが中心になるかと思います。しかし経済的なことだけで、私たちは生きているわけではありません。イエスさまが悪魔の誘惑に際して言われた、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ということです。私たちはパンだけで生きているのではありません。パンだけで生きることはできないのです。本当の意味で、私たちを救ってくださる方はだれなのか。八方ふさがりになって、どうしようもなくなったときに、どこに逃れていけば良いのかということです。
今日の聖書の箇所は、「ペトロ、信仰を言い表す」「イエス、死と復活を予告する」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書9章18−20節にはこうあります。【イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」】。
群衆はイエスさまのことを、「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「昔の預言者だ」と言っていました。洗礼者ヨハネはイエスさまよりも少し早く生まれて、ヨルダン川で人々に悔い改めの洗礼を授けていました。そしてユダヤの指導者たちが神さまの御心に反して政治を行っていることを批判しました。ですから洗礼者ヨハネは、まあ預言者のような人です。エリヤは旧約聖書に出てくる預言者です。北王国イスラエルのアハブ王の時代の預言者で、とても力強い預言者でした。モーセのあとに現れた預言者のなかで一番すばらしい預言者であると言われていました。また世の終わり・終末のときにまた現れると言われていた特別な預言者です。そのほか昔の預言者が生き返ったのではないかと、イエスさまについて言われていました。
しかし人々はイエスさまのことを、「預言者」と思っていたということです。しかしペトロはイエスさまから「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問われて、「神からのメシアです。」と答えています。メシアというのは、「救い主」ということです。ペトロはイエスさまのことを単なる預言者ではなく、「救い主」だと言いました。政治的な問題を解決してくれる預言者ではなく、イエスさまは神さまからのメシア、救い主なのだ。わたしの魂を救ってくださる方なのだと、ペトロは答えました。ですからこの箇所の表題は「ペトロ、信仰を言い表す」ということであるわけです。ペトロの信仰告白であるわけです。わたしがだれにも頼ることができない、周りの人たちもわたしのことを助けることができない、八方ふさがりになって、脅えているときに、逃れていくところは、イエスさまのところだと、ペトロは答えたのです。
ルカによる福音書9章21ー23節にはこうあります。【イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。】。
イエスさまはペトロの信仰告白を受け、そのあと自分がこのあと歩むことになる十字架への道について話されます。そして三日目に復活することについて話されます。実際にイエスさまがどのような目に会われるのかということは、ルカによる福音書では、ルカによる福音書22章あたりから書かれてあるわけです。イエスさまはユダヤの指導者たちによって捕まえられ、裁判をうけて、人々から辱められてながら、ゴルゴタの丘で十字架につけられます。
イエスさまは弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われます。私たちはこのあと、イエスさまがどのような目にあわれるのかということを知っていますが、弟子たちは知りません。ですから「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われても、あまりピンとくることはなかっただろうと思います。なんか「十字架なんて、ちょっと不吉な話をされるものだなあ」という感じで聞いていたのではないかと思います。
ルカによる福音書9章24−27節にはこうあります。【自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」】。
「命を救う」とか「命を失う」とか、イエスさまが言っておられるのを聞いて、弟子たちはますます不安になったことだと思います。そして不安になるのと同時に、自分たちの歩みについて考えさせられただろうと思います。私たちが生きているということはどういうことであるのか。自分たちはイエスさまに付き従って歩みたいと思っているけれども、でも命を失うようなことになるのであれば、それは怖い。そうだけれど、イエスさまに付き従って歩むという生き方を自分たちが止めてしまったら、そのあとの人生はからっぽの人生になってしまうのではないのだろうか。悪魔が「おまえに全世界をやるから、イエスに従うのではなく、オレに従え」と言ったとして、オレは悪魔に従うのか。それはあまりに恥ずかしいことではないのか。イエスさまに従うのではなく、悪魔の誘惑に負けてしまって、悪魔に従っているのであれば、世の終わり・終末の時に、私たちはどうなってしまうのか。世の終わり・終末のときに、イエスさまから「おまえたちのことは知らない」と言われたら、私たちはどうすればいいんだ。そのように弟子たちは思ったことだと思います。
イエスさまは「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と言われ、激しく弟子たちに問いかけました。あなたはだれを頼りにして生きているのか。あなたはだれにより頼んで生きているのか。あなたがだれにも頼ることができず、周りの人たちもあなたのことを助けることができない、八方ふさがりになって、脅えているときに、あなたが逃れていくところは、どこなのかと、イエスさまは弟子たちに問われました。だれが「神からのメシア」であるのか。そして、イエスさまは弟子たちに「わたしについて来なさい」「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。
讃美歌21−300番は「十字架のもとに」という讃美歌です。この讃美歌は讃美歌1編にも載っている讃美歌です。讃美歌1編262番の「十字架のもとぞ いとやすけき」という讃美歌です。この讃美歌は、2番と3番の歌詞は、讃美歌21も讃美歌1編もほぼ同じです。しかし1番の歌詞の前半が若干違っています。讃美歌21の方は「1.十字架のもとに われは逃れ 重荷をおろして しばし憩う」です。そして讃美歌1編の方は「1.十字架のもとぞ いとやすけき 神の義と愛の あえるところ」となっています。讃美歌1編の方の「神の義と愛の あえるところ」という歌詞は、イエス・キリストの十字架ということの意味をよく表している歌詞になっています。どうしてこの歌詞が、讃美歌21では無くなったのかということまでは、わたしには調べることができませんでした。ただ説教塾というグループを運営しておられる平野克巳牧師によると、もともとの讃美歌にはこの「神の義と愛の あえるところ」という内容のものがあるようです。(説教塾「復活と十字架の説教をめぐるメーリングリスト討論」)(http://www.sekkyou.com/jp/example/ml2006.php)。
「1.十字架のもとぞ いとやすけき 神の義と愛の あえるところ」というのは、神さまは義なる方あるから、いい加減で罪深い私たちは裁かれて当然であるけれども、しかし神さまは私たちのところにイエスさまを送ってくださり、私たちの罪のためにイエスさまが十字架についてくださった。それが私たちにしめされた神さまの愛だということです。イエスさまの十字架ということをよく表している歌詞だと思います。
この讃美歌の歌詞をつくった人は、エリザベス・C・クレフェーンという女性です。『讃美歌21略解』にはこう書かれてあります。【作詞者はスコットランドの賛美歌学者エリザベス・クレーフェン(1830−69)です。彼女はエディンバラの裕福な家に生まれましたが、病弱のため弱い立場の人に心をくだき、姉と共に財産を売って貧しい人を助けたこともしばしばあり、地元の人から「太陽」と呼ばれていたと言います。この賛美歌は彼女の死後、雑誌The Family Treasury(1872)に無記名で発表されました。主の十字架のもと、人生の重荷をおろして安らぎを得る、と個人的な景観をうたうこの賛美歌は、多くの人の心に平安を与えてきました】(P.195)。
讃美歌21の「十字架のもとに」の歌詞の1番「1.十字架のもとに われは逃れ 重荷をおろして しばし憩う。あらしふく時の いわおのかげ、荒れ野の中なる わが隠れ家」という歌詞は、エリザベス・クレーフェンの信仰をよく表している歌詞だと思います。エリザベス・クレーフェンは財産を売って貧しい人を助けるということをしていますから、そうした社会の抱える貧困や不条理ということについて、真摯に考え、行動する人であったのだと思います。しかしエリザベス・クレーフェンは、それだけでなく、自分の魂の問題、自分がだれによって守られて生きているのか。自分を救ってくださる方はだれであるのか。あなたがだれにも頼ることができず、周りの人たちもあなたのことを助けることができない、八方ふさがりになって、脅えているときに、あなたが逃れていくところは、どこなのか。そのことをエリザベス・クレーフェンは、「十字架のもとに」という讃美歌の中で明らかにしています。「1.十字架のもとに われは逃れ 重荷をおろして しばし憩う。あらしふく時の いわおのかげ、荒れ野の中なる わが隠れ家」。
守ってくださる方がおられるということは、とても安心なことです。ここに逃れればいいのだというところを知っているということは、とても安心なことです。わたしはそれはクリスチャンに与えられている幸いだと思います。悲しい時、さみしい時、行き詰まった時、ぼろぼろになったとき、私たちは逃(のが)れるところを知っています。「ああ、それ、いいな」と思われた方は、ぜひ、洗礼を受けてクリスチャンになっていただきたいと、わたしは思います。
私たちを守り、導いてくださる、確かな方であるイエス・キリストがおられます。私たちはイエス・キリストを信じて歩みます。教会に集うお一人お一人の歩みが、イエスさまに守られて、健やかな歩みでありますようにとお祈りいたします。
(2023年3月12日平安教会朝礼拝式・受難節3)
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