「口を利けなくする悪霊からの解放」
連合の芳野友子(よしの・ともこ)会長と岸田総理大臣との対談の内容が、朝日新聞の記事になっていました。【芳野氏が「夏休みや冬休みは給食がなく、体重が減る子もいる」と話すと、首相はソファから身を乗り出し「え、そんなこどもたちがいるんですか」】と言ったとありました。そうしたことは何度もニュースで流れているような気がするわけですが、総理大臣のところには意外にもそうした声は届いていないのだと、ちょっとこれには驚きました。時代劇で、江戸時代にお殿様のところに、お百姓さんの苦しみが届いていないということで、お百姓さんが直訴をするところを、周りの武士に刀で斬られて殺されてしまうというような感じのことがあります。なかなか為政者には庶民の声は届かないものだのだと思いました。ウクライナ戦争を続けているロシアのプーチン大統領のところにも、なかなか声が届かないのだろうと思います。周りの人もプーチン大統領が不機嫌になることを伝えたいとは思わないのだと思います。アジア・太平洋戦争のときも、やはり同じようなことが行われていたようです。そして戦争が続けられ、破滅的なことになっていきました。
イギリスの代表的な現代作家と言われるジュリアン・バーンズという人はこんなことを言っています。【「最高の愛国心とは、あなたの国が不名誉で、馬鹿で、悪辣な事をしている時に、それを言ってやることだ」(The greatest patriotism is to tell your country when it is behaving dishonorably, foolishly, viciously.)】。「最高の愛国心とは、あなたの国が不名誉で、馬鹿で、悪辣な事をしている時に、それを言ってやることだ」。わたしは自分がそんなに愛国者であるとは思いませんが、やはり国が恥ずかしいことをしているときは、「それはちょっと恥ずかしいよ」と言いたいと思います。とくにいまの時代、わたしは政治家には倫理的であってほしいと思います。デジタルでどんどんとすべてのものが拡がっていく世の中にあっては、「この人は嘘をつかない」「この人は倫理的な人だ」ということは、とても大切なことだと思うからです。そうした基準がなければ、何も信用できないからです。
今日の聖書の箇所は「ベルゼブル論争」「汚れた霊が戻って来る」という表題のついた聖書の箇所です。ベルゼブルというのは悪霊の頭のことです。まあ「サタン」というような感じのものであるわけです。ルカによる福音書11章14−16節にはこうあります。【イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。】。
イエスさまは悪霊に取りつかれた人たちから悪霊を追い出しておられました。悪霊に取りつかれて、暴力的な行動をとったり、大声を出してどなったり、自分で自分のことを傷つけたりする人がいたわけです。イエスさまの時代、病気は悪霊のなす業であると考えられていました。この聖書の箇所では、「口を利けなくする悪霊」が追い出されます。
わたしはこの聖書の箇所、何度となく読んでいますし、何度も説教をしているわけですが、「口を利けなくする悪霊」に関心が向くことはあまりありませんでした。日常生活の中で、悪口を言っているような場面に出くわすことがありますし、また自分自身も悪口を言っていることがあったりします。「しつこく人の悪口を言うわたしは悪霊に取りつかれているなあ」というのは感じるわけです。
しかしルカによる福音書では、洗礼者ヨハネの誕生に際して、その父親のザカリアは神殿で口が利けなくなります。そしてそののち口が利けるようになると、最初に神さまを讃美します。ルカによる福音書1章64節にはこうあります。新約聖書の101頁です。【すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた】。口が利けなくなっていてザカリアが口が利けるようになると、神を賛美し始めるというのは、なかなか考えさせられます。私たちは自分の口を何のために用いているのかということです。不平や不満、悪口を言うために用いているのではないのか。神さまを賛美するために、しっかりと用いているのかということです。
また悪霊に取りつかれて、口が利けなくなる場合もあるわけです。私たちは「口が利けなくなる」悪霊に取りつかれているのではないかとも思うときがあるわけです。独裁者がいる国の様子などをニュースでみる場合が、私たちにはあります。「ああ、自由に口を利くことができないのは、つらいなあ」と思います。独裁者によって治められ、戦争をしている国などの様子を見てみると、「戦争反対」と自由に言うことができない様子がうかがえます。食べるものもなく飢え死にしそうであるにも関わらず、独裁者に不平を言うことも許されない。そうした国があります。
イエスさまは口を利けなくする悪霊を追い出され、口の利けない人がものを言い始めるようにされました。それをみて、群衆は驚きます。しかしイエスさまが悪霊を追い出されたのをみて、「イエスは悪霊の頭であるベルゼブルの力によって悪霊を追い出している」という人たちがいました。またイエスさまに奇跡をしてほしいと言って、イエスさまを試す人たちもいました。
ルカによる福音書11章17−19節にはこうあります。【しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。】。
まあ、イエスさまのことを悪く言う人が、「あいつは悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言っていることに、イエスさまは「そんなことはあるわけないだろう。あほらしい」と答えているということなので、内容的にはまあそんなに深いことが書かれてあるわけでもありません。「サタンは内輪もめすれば、どうしてその国は成り立っていくだろうか」と、イエスさまは言っておられます。まあ実際、私たちはサタンのような指導者が内輪もめして、その国が内戦状態に陥ってしまっているというようなことを見聞きします。国家の支配者になりたいという人の気持ちというのは、一般人である私たちの考えをはるかに越えて、奇妙な論理で成り立っているというような場合がありますから、そうしたことが起こるのです。なかなか怖いなあと思います。
ルカによる福音書11章20−23節にはこうあります。【しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」】。
イエスさまは自分は悪霊の力ではなく、神さまの力によって悪霊を追い出している。だから神さまの国はあなたたちのところに来ている。だから安心しなさいと、言われました。力のある方に守られていると安心だろう。戦いのとき、強いと思っている人も、それ以上に強い人がやってくると負けてしまう。そして強い人がすべての武器を奪い取り、そして分捕り品も強い人たちのグループがみんなでわける。あなたたちはわたしのことを、「悪霊の頭ベルゼブルの仲間だ」というようなことを言うけれども、わたしに味方しない者はわたしの敵である。わたしと一緒に歩んでいかない人は、わたしの仲間だということだけれど、あなたたちはわたしに敵対していて、それでよいのか。と、イエスさまは言われました。
ルカによる福音書11章24−26節にはこうあります。【「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」】。
「汚れた霊が戻って来る」という表題のついた聖書の箇所です。汚れた霊が人から出て行くと、まあその人は良い状態になるわけです。しかしまた不養生をしていると、汚れた霊に取りつかれてしまって、以前よりももっと悪い状態になるということです。せっかく病気が治っても、また好き勝手なことをしていると、それよりも重い病気になってしまうというようなこともあります。また信仰的なことからすれば、イエスさまの教えを聞いてそのときは悔い改めても、人は弱いですからまた勝手なことをしてしまって、不信仰な歩みになってしまうというようなことがあるわけです。
イエスさまは病気の人々をいやされ、神さまが私たち一人一人を愛してくださっていることを、いろいろなところでお話しておられました。またときにイエスさまは神さまの国が来ていると思えるような国の治め方をしてほしいと、国を治めている人々を非難されました。イエスさまの言われることが都合の悪い人たちにとって、イエスさまは悪霊の頭ベルゼブルの仲間に思えました。そして「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言っていました。
私たちは主の祈りで、「御国が来ますように」と祈ります。神さまの御心にかなった世の中になりますようにと願います。政治は人間が行っていることですから、まあそんなにりっぱで愛に充ちた政治になるということは、なかなかむつかしいのかも知れません。私たちは「ウクライナに平和が来ますように」と祈りますが、なかなかそのような気配はありません。そうしたなかで、「いつまでもアメリカが守ってくれるわけでもなさそうだから、増税をして軍備を増強して」というような話がでてきます。武力が世の中を治めているという視点にだけ目を向けていると、そのようになってしまうのだと思います。しかし私たちは武力がこの世を治めているとは思いません。私たちの世界を治めているのは、神さまの愛です。だから私たちは「御国が来ますように」と祈ります。
「黙ってたほうがいいかなあ。まあわたしが言うことでもないか」というような気持ちになることが多いですが、しかし「口を利けなくする悪霊によって口が利けなくされているのではないか」と、立ち止まって考えてみることも、私たちには大切です。
ルカによる福音書19章28節以下に、「エルサレムに迎えられる」という表題のついた聖書の箇所があります。イエスさまが十字架につけられるために、エルサレムにやってくるという聖書の箇所です。受難週の始まりであります「棕櫚の主日」によく読まれる聖書の箇所です。新約聖書147頁です。
ルカによる福音書19章37−42節にはこうあります。【イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。】。
子ろばに乗ってイエスさまがエルサレムにやって来られるとき、群衆は自分たちの服を道にしいて、イエスさまを迎えます。そしてイエスさまの弟子たちは、神さまを賛美します。そのとき、ファリサイ派のある人は、イエスさまに「先生、お弟子たちを叱ってください」と言うわけです。そのときイエスさまは、「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」と言われました。そして自分を十字架につける人たちの都であるエルサレムにこう言われました。「「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない」。そしてエルサレムでイエスさまは十字架につけられます。
自由にものが言えない社会は、滅びへと向かっていきます。ですから私たちは、口を利けなくする悪霊が出ないように、私たちの国でも社会でも会社でも教会でも、そのような雰囲気にならないように気をつけたいと思います。みんなが自由にものが言えるように、穏やかに話しあうことができる社会を作り出していきたいと思います。
ときにわたし自身も、人が自由にものが言えないような雰囲気を作り出してしまうときがあります。この受難節のとき、そうした自らの罪深さにもこころを向けつつ過したいと思います。国家も社会も、私たち自身の有り様が作り出していく世界です。私たちが悪霊に魂を売り渡していく時に、私たちの国家も私たちの社会も、悪霊にとって快適な世界になっていきます。そのことを受けとめながら、イエスさまが示される愛の道を、私たちは歩んでいきたいと思います。神さまを賛美しつつ、イエスさまの御跡を歩んできましょう。
(2023年3月5日平安教会朝礼拝式)
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