「平和がある。平安がある」
聖書箇所 ルカ24:36-43
ウクライナ戦争が始まって、1年と2ヶ月程になります。私たちはロシアのプーチン大統領が兵を引き上げてほしいと思いますが、なかなかそのような兆しはありません。そうしたなかで、中国の習近平国家主席とロシアのプーチン大統領の首脳会談が、3月に行われました。私たちは中国の習近平国家主席に「おまえもうウクライナ戦争、やめろよ」とロシアのプーチン大統領に言ってほしいと思いますが、まあそんな感じにはなりません。「ロシアと中国は連携を強めている」(NATO事務総長)などと言われます。
中国はお隣の大国ですから、その動向は気になります。「中国が、中国が、・・・」というような、私たちを慌てさせるメディアの報道もあります。しかし「中国が、中国が・・・」と言いつつ、私たちはあんまり中国のことを知らないなあと思います。そんなときわたしは少しでも知るために、本を読むことにしています。本を読んで知識ができると、すこし落ち着いた気持ちになるということがあります。ですので、わたしは慶應義塾大学出版会から出ている高橋伸夫さんが書いた『中国共産党史の歴史』という本を読みました。知らないことが多くて、すこし取っつきにくい本ではありましたが、読んでみると中国共産党の歴史も理解でき、「ああ、そんな感じになっているのか」と思わされました。知識が増えると、またものの見方も変わり、いたずらに恐れることもなくなります。
今日の聖書の箇所は、「弟子たちに現れる」という表題のついた聖書の箇所の一部です。ルカによる福音書では、復活されたイエスさまは、エマオという村で二人の弟子たちにその姿を現されます。二人の弟子たちは、エルサレムにいる他の弟子たちのところに行って、自分たちがイエスさまに出会ったことを報告します。そして今日の聖書の箇所になります。
ルカによる福音書24章36−37節にはこうあります。【こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。】。
イエスさまは弟子たちにその姿を現され、そして弟子たちの真ん中に立たれました。そしてイエスさまは弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と言われました。イエスさまの姿を見た弟子たちは恐れます。そして自分たちがイエスさまの亡霊を見ているのだと思いました。イエスさまが復活されたということを信じることはできませんでした。
ルカによる福音書24章33−34節には、【そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた】とあります。それではどうして、今日の聖書の箇所では、イエスさまが現れた時に、みんな恐れおののき、亡霊を見ているのだと思ったりするのかというふうに思います。しかしまあ、そんなに細かくこだわるのは、私たちが現代人であるからで、少々、違っていても、まあいいわけです。ちょっと伝えられる過程で、若干、そんな話になっているんだなあと思えばよいわけです。
こういうことは私たちにだってあるわけです。安倍元総理大臣の時代、「首相夫人は私人」ということを閣議決定したわけですが、でもいま岸田総理大臣のお連れ合いがアメリカを訪問すると、「ファーストレディ外交」というようにメディアは伝えるわけです。「首相夫人は私人」だったはずなのに、「ファーストレディ外交」はないだろうと思うわけですが、まあ一般的にはそんな感じであるわけです。
ルカによる福音書24章38−40節にはこうあります。【そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった】。
復活されたイエスさまのことを亡霊だと恐れている弟子たちに対して、イエスさまは「まさしくわたしだ」と言われました。わたしが復活してあなたたちを訪ねているのに、どうしてあなたたちはうろたえるのか。どうして疑うのか。イエスさまは手と足をお見せになりました。亡霊だったら肉も骨もないだろう。しかし見てみなさい。わたしには手も足もある。そのように、イエスさまは言われました。
ルカによる福音書24章41−43節にはこうあります。【彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた】。
イエスさまは手も足も見せて、ご自分が復活されたことを弟子たちに信じるように言うわけですが、しかし弟子たちはいまひとつ信じることができません。「喜びのあまり」とありますように、「いや、復活なんてそんなことは絶対にない。あなたはイエスさまの亡霊だ」というふうに感じているわけではありません。「えっ、どうしてイエスさまが。えっ、復活されたの。えっ、ほんとにほんとなの」というような感じで、不思議がっているということです。その様子をみられたイエスさまが、弟子たちに「何か食べ物があるか」と言われます。そして弟子たちが焼いた魚を一切れ、イエスさまに差し出しました。イエスさまはそれを弟子たちの前で食べられました。
イエスさまが魚を食べられたというのは、なにもイエスさまがお腹が空いていたから、弟子たちに「なにかないのか」と言ったということではありません。食べるという日常の姿を見せることによって、弟子たちが「あっ、やっぱりイエスさまなんだ」ということに気づくようにと、何かを食べてみられたということです。「あっ、この食べ方、この食べ方、イエスさまの食べ方だ。やっぱり亡霊じゃない、イエスさまだ」と弟子たちが気がつくということです。
よれよれのコートを着て「うちのかみさんがね」と言えば、刑事コロンボだとわかりますし、「君の瞳に乾杯」と言えば、ハンフリー・ボガートだとわかります。「tomorrow is another day」と言えば、スカーレット・オハラに扮するビビアン・リーだとわかります。まあ、一定の年代の人にしかわからないですが・・・。弟子たちはイエスさまの日常のしぐさを見て、イエスさまだとわかるのです。
日常に戻ると落ち着くということがあります。旅行に行って、あっちへいったり、こっちへいったりというのは、楽しいわけですが、でもお家に帰ってくると、「ああ、やっぱりお家が一番」と思えます。「ああ、なんか落ち着くわ」という感じになるわけです。
イエスさまのお弟子さんたちは、このときだけが不安であったということではなく、不安なことにいろいろと出くわします。それはお弟子さんたちがそうであるのではなく、私たちもまたいろいろなことで不安になったりするわけです。
ルカによる福音書8章22節以下に、「突風を静める」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の119頁です。ルカによる福音書8章22ー25節にはこうあります。【ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。】。
この「突風を静める」という表題のついた聖書の箇所は、ルカによる福音書だけでなく、マルコによる福音書にも、マタイによる福音書にも書かれてあります。初代教会がいろいろな迫害を経験し、教会に集う人たちの不安が、イエスさまと弟子たちが乗っている舟が突風で沈みそうになる様子に表れているというふうに言われたりします。初代教会の人たちはなにかと不安でありました。この聖書の箇所など、イエスさまが一緒にいるにもかかわらず、自分たちの舟が沈むのではないかと、弟子たちは不安になっているわけです。しかしそうした弟子たちの不安にも関わらず、嵐を静められるイエスさまがおられるのです。イエスさまがいてくださり、嵐を静めてくださり、弟子たちは平安を得ることができるのです。
よみがえられたイエスさまは弟子たちの前にその姿を現され、「あなたがたに平和があるように」と言われました。そして恐れおののいている弟子たちに、「なぜ、うろたえているのか」と言われ、弟子たちを落ち着くようにと諭されました。
私たちは臆病な者ですから、いろいろなことで浮き足立ってしまい、こころを騒がせてしまいます。不安になってしまいます。そんな私たちに、イエスさまは「大丈夫だ。安心しなさい。わたしが共にいる」と力強く励ましてくださいます。「あなたがたに平和があるように」。わたしの平和が必ずあなたの世界を治めるから安心しなさい。そのようにイエスさまは私たちに告げておられます。
「平和」という言葉は、ヘブライ語で「シャローム」という言葉です。シャロームという言葉は、日常の挨拶の言葉でもあり、「こんにちは」というような言葉として使われます。ヘブライ語の「シャローム」は「平和」というだけでなく、もう少し広い意味をもつ言葉です。「救済」とか「健在」とか「順調」とか、そして「平安」です。神さまの平安がありますようにという意味の言葉です。
私たちの教会の名前は、「平安教会」です。日本基督教団のなかでも「平安教会」という文字がつく教会はいくつかあります。「近江平安教会」「世田谷平安教会」「はりま平安教会」「呉平安教会」「玉川平安教会」「天草平安教会」「大塚平安教会」「神戸平安教会」。
いろいろな平安教会がありますが、私たちは何も付かない「平安教会」です。ときどき間違って「京都平安教会」と言われたりしますが、そんなとき「何も付かない、ただの平安教会です」とお伝えします。「平安」という言葉は、キリスト教界において、とても愛されている言葉です。「皆様のうえに、神さまの平安がありますように」と記すたびに、わたしは平安教会の牧師として、「そうだよ。私たちは神さまの平安が満ちあふれた教会なのだ」と思います。
「平和がある。平安がある」。イエスさまは私たちの教会の歩みを祝福してくださり、そして私たちに神さまの平安のうちに歩むことを告げ知らせてくださいます。「あなたがたに平和があるように」「あなたがたに平安があるように」「うろたえることなく、神さまを信じて歩みなさい」「神さまはいつもあなたと共にいてくださり、あなたを祝福してくださる」。
イエスさまの招きに応えて、こころ平安に歩んでいきましょう。
(2023年4月23日平安教会朝礼拝式・教会定期総会)