「あなたを愛している人がいる」
聖書箇所 ヨハネ6章34-40節。333/484。
わたしは二つの母子像の絵をもっています。一つはケーテ・コルヴィッツの母子像の絵で、もう一つは『ウラジーミルの生神女』と呼ばれる正教会のイコンの模写です。『ウラジーミルの生神女』は、扇田幹夫先生からいただいたものです。この『ウラジーミルの生神女』は、ロシア正教会で最も有名な生神女(聖母マリア)のイコンの一つだそうです。生神女(しょうしんじょ)というのは、生ける神の女と書きます。生神女とは、聖母マリアのことです。
このイコンの特色は、イエスさまとマリアが頬を寄せ合っているというところです。このイエスさまとマリアが頬を寄せ合って描くというのはイコンの描き方のようです。エレウサ型という形式があるそうです。エレウサというのは、ギリシャ語で「慈憐」、慈愛と憐れみという意味です。マリアのイエスさまへの慈愛と、そしてすべての者に対する慈愛を表し、そしてイエスさまがこれから受けられる十字架の苦しみを思っての嘆きと忍耐を表しているのだそうです。
わたしはこのイコンを見ながら、イエスさまがマリアさんにマーキングをしているのかと思いました。マーキングというのは、「これはわたしのもの」というしるしのようなものです。小さな子どもが母親に甘えて、頬をくっつけるということはよくあることだと思います。また母親のほうからこどもに対して親愛の情をこめて、頬をくっつけるということもよくあることです。もちろん親子ということだけでなく、恋人同士が頬を愛情を込めて頬をくっつけるということもあるでしょう。
エレウサ型という形式は「マリアのイエスさまへの慈愛と、そしてすべての者に対する慈愛を表し、・・・」ということでしたから、たぶんマリアの方からイエスさまに頬を寄せているということなのだと思います。しかし絵を見ただけでは、マリアの方からイエスさまに頬を寄せているのか、それともイエスさまの方からマリアに頬を寄せているのか、わかりません。わたしはなんとなくイエスさまの方からマリアに頬を寄せているような気がしていました。ですからわたしはこのイコンを見ながら、イエスさまがマリアにマーキングしていると思ったのです。わたしはイエスさまはマリアに対してだけでなく、誰に対しても頬を寄せてくださって、「あなたのことが大好きだよ」と言ってくださっているような気がするのです。イエスさまはいつも私たちがさみしいとき、かなしいとき、私たちのところにきてくださり、私たちに頬をよせて慰めてくださいます。この『ウラジーミルの生神女(しょうしんじょ)』を見ていると、そんなふうに感じました。わたしのことを愛してくださる人がいることの幸いを感じます。
今日の新約聖書の箇所は「イエスは命のパン」という表題のついた聖書の箇所の一部です。イエスさまは「五千人に食べ物を与える」という奇跡を行なわれました。ヨハネによる福音書6章1−15節に記されてあります。それは五つのパンで五千人の人々が満腹し、そして残ったパン屑が12の籠いっぱいになったという奇跡でした。人々はその奇跡を見て、ますますイエスさまに付き従うようになります。しかしイエスさまは人々に対して、【朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい】(ヨハネによる福音書6章27節)と言われました。そして【わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる】(ヨハネによる福音書6章32節)と言われました。
そして今日の聖書の箇所になりますが、ヨハネによる福音書6章34−35節にはこうあります。【そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない】。
イエスさまは「わたしが命のパンである」と言われました。ヨハネによる福音書では、イエスさまは「わたしは・・・・・である」という言葉で、自分を表されます。「わたしは羊の門である」(ヨハネによる福音書10章7節)、「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネによる福音書10章11節)、「わたしはまことのぶどうの木」(ヨハネによる福音書15章1節)。イエスさまが「わたしは・・・・・・である」と言われるのは、とても重要なときです。イエスさまは「わたしが命のパンである」と言われました。
イエスさまは人々に、「わたしに付き従うならば永遠の命を得ることができる」と言われました。食べるパンは食べてしまったらなくなってしまう。しかしわたしに付き従って歩むならば、神さまが私たちを祝福してくださり、豊かな人生を歩むことができる。目先のパンではなく、永遠の命につながる生き方をあなたたちはしなければならない。わたしにつながって生きるならば、神さまから永遠の命が与えられると、イエスさまは言われました。
ヨハネによる福音書6章36−38節にはこうあります。【しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである】。
イエスさまは「わたしのことを信じるのか、信じないのか」と一人一人に問われます。「しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」。どうしてわたしのことを信じようとしないのか。わたしはあなたがたを招いているのに。わたしは決して自分の方から追い出すというようなことはしない。すべての人々を招いている。「わたしのところに来なさい」と招いている。わたしがこの世に来たのは、わたしが自分勝手な気持ちで人を裁いたりするためではなく、神さまがわたしをお遣わしになられたのだ。わたしはただ神さまの御心を行なっている。そのようにイエスさまは言われました.
ヨハネによる福音書6章39−40節にはこうあります。【わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」】。
そしてイエスさまは神さまの御心について話されました。神さまはイエスさまのことを信じる人々がすべて永遠の命を得ることができるようにと願っておられる。イエスさまのことを信じるすべての人が、神さまによって永遠の命を得ることができる。そして世の終わりの時にみな復活することができる。イエスさまを信じる人がすべて、神さまの祝福のうちに永遠の命を生きることができる。それが神さまの御心だと、イエスさまは言われました。
イエスさまは人は神さまから愛されている。人はみな神さまの救いの中に入れられている。神さまを信じる人々に永遠の命を与えるために、神さまはわたしをお遣わしになったのだと、イエスさまは言われました。だからイエスさまは【「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」】と言われたのです。
神さまは私たちの世にイエス・キリストを送ってくださいました。それはイエス・キリストの十字架によって、私たちの罪を贖うためでした。イエスさまが私たちの罪のために十字架についてくださることによって、私たちは救われたのです。このことは神さまがご計画されたことでした。愛する御子イエス・キリストを十字架につけることによって、神さまは私たちの罪を赦されました。イエスさまが私たちの身代わりになって、神さまに罰せられたのです。【わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである】というのは、そのことです。ヨハネによる福音書3章16−17節にはこうあります。【神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである】。
私たちは神さまの愛の中に生きています。私たちは罪深いものです。いろいろな邪な思いも持ちますし、また互いに傷つけあうことも多いです。神さまの前に正しいものであることはできません。いろいろなときに自分のだめなところに気づいて、とてもいやな気持ちになります。どうして心ない言葉を語ってしまったのだろう。どうして配慮できなかったのだろう。どうして傷つけてしまったのだろう。いろいろなことで後悔します。神さまの前に立ち得ない罪深さを感じるときがあります。
そんな私たちですから、神さまから裁かれて当然であるわけです。しかしそんな私たちであるわけですが、私たちは神さまの愛の中に生きています。私たちは裁かれるために生きているのではなく、私たちは愛されるために生きています。
イエスさまは【わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである】と言われました。「わたしに与えてくださった人を一人も失わないで」とありますように、神さまは私たち一人一人をかけがえのない者として愛してくださっています。「一人も失わないようにする」という思いで、神さまは私たちを愛してくださっています。
イエスさまは「あなたを愛している方がいる」と、私たちにくりかえしくりかえし教えてくださいます。私たちは神さまにふさわしいから愛されているのではありません。私たちにすばらしいことがあるから、私たちを神さまが愛してくださっているのではありません。私たちは神さまの前にふさわしいものではないけれども、ただ神さまは私たちを愛してくださっているのです。
使徒パウロは「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3章10節)と言いました。そして自分は罪にとらわれた惨めな人間だと言いました。その胸のうちを使徒パウロは、ローマの信徒への手紙7章15−20節でこう語っています。【わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです】。悪いことと知りながら、罪に取りつかれて悪いことを行なってしまう。【わたしはなんと惨めな人間なのでしょう】(ローマ7章24節)と使徒パウロは嘆きました。
しかし、使徒パウロはそんな惨めな人間を救うために、イエス・キリストが十字架についてくださり、私たちの罪を贖ってくださったことを知りました。そして【わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします】(ローマ7章25節)と、イエス・キリストによって救われた者の喜びを告白しています。
「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3章10節)。しかしそれでも神さまは私たちを愛してくださるのです。私たちは神さまのものです。神さまは罪深い私たちに、「わたしのところに帰ってきなさい」と招いておられます。神さまの愛に応えて、神さまのところに帰りましょう。
(2023年4月30日平安教会朝礼拝)
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