2023年5月23日火曜日

5月21日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「いつまでもイエスと共に」

日時場所 2023年5月21日平安朝礼拝

聖書箇所 マタイ28:16-20。521/522。

新型コロナウイルス感染症のために、お酒を飲みに行く機会も、ここ数年あまりなかったという方もおられるかも知れません。5月の連休明けから、新型コロナウイルス感染症も、五類感染症に移行したので、そろそろ飲みにいくことを考えておられるという方もおられるかも知れません。

お酒を飲みにいき、「お飲物は何になさいますか?」と聞かれたら、人はよく「とりあえずビール」と言います。わたしはビール好きなので、「それの言い方は、ビールに対して失礼だろう」という思います。「お飲物は何になさいますか?」と聞かれたら、やっぱりはっきりと「ビールが飲みたい」と応えるの良いと思います。ビールも「とりあえず」なんかで飲まれたくはないと思っているでしょう。しかし案外、私たちは「とりあえず」というようないい加減なことをいうのです。

バブル期の女性たちは、数人の男の人とつきあっていて、いろんな用途によってつきあいわけていたと言われます。「アッシー」というのは「いい車を持っていて、いろんなところに運転していってくれる人」のことです。いわゆる「あし」がわりの人なのです。「ミツグ君」というのは、「プレゼントをいろいろ買ってくれる人」のことです。「みついでくれる」わけです。そして「キープ君」というのは、「一番好きではないけれども、一番好きな人とうまくいかなかった場合に備えてつきあっておく人」のことです。「本命君」に対する「キープ君」なわけです。しかし最近は、こうしたことがあまり言われなくなってきました。ひとつには女性にとって結婚ということが、人生の中心ではなくなってきたからだと思います。

しかし「とりあえず」とか「キープしておいて」というような生き方を、私たちはよくします。バーゲンセールに行って、「とりあえずこのセーターをキープしておいて」というふうに抱え込んで、そしてもっとよりよいものはないだろうかと探したりします。ものだったら、まあそれでもいいわけですが、やはり人の場合、なかなかそうもいかないわけです。

人間関係だけでなく、私たちと神さまの関係を考えたとき、私たちはかなり自分勝手なことばかりしているのではないかと思います。「神は愛である」というように、キリスト教の神さまは、愛の神さまです。神さまは私たちを一方的に愛してくれている。たえず私たちは神さまから愛の告白をされているわけです。そしてクリスチャンになるということは、その愛の告白を受け入れるということです。

しかし私たちは勝手なもので、神さまがたえず愛してくれているということを知りながら、いつもいつもその愛に応えることをせず、適当にあるいは自分の好きなときだけ応えているのです。神さまから愛されていながら、いつも神さまの方を向いているわけではないのです。他のものに、こころを奪われてしまっていることがあります。とりあえず神さまからの愛を受けておいて、他におもしろそうなことがあると、そちらにいってしまうのです。そういうことを考えると、「神をキープ君」にしてしまっているというように言えるかも知れません。

イエスさまの復活の出来事は、そうしたいいかげんな私たちに対して、またもや神さまの方から「いつもあなたがたと共にいる」という愛の告白がなされるという出来事です。その告白に対して、私たちは今度はどういうふうに応えていくのかということが、イエスさまの復活の出来事を前にして、私たちに問われています。今日の箇所はマタイによる福音書の最後の箇所です。「弟子たちを派遣する」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書28章は、イエスさまの復活物語が書かれてありますが、その復活物語の最後の部分でもあります。

マタイによる福音書28章16節には、【さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った】とあります。マタイによる福音書では、弟子たちがよみがえったイエスさまと出会う場所は、ガリラヤであるとされています。「ガリラヤ」という場所は、イエスさまの活動の中心的な場所でありました(MT0424,0412)。そして弟子たちの故郷でもあります。弟子たちはイエスさまとの出会いの場所であるガリラヤから、再出発することになるのです。

弟子たちはイエスさまに言われていたように、ガリラヤの山にのぼります。シナイ山でモーセが神さまから十戒をもらったことなどからもわかりますように、山というところは、神さまと出会う場所です。そしてそこで弟子たちは、イエスさまと出会うことになります。

マタイによる福音書28章17節には【そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた】とあります。復活の出来事に関して「疑う者もいた」と、マタイによる福音書は言っています。しかしマタイによる福音書には、直接的に疑った人のことが書かれてありません。マルコによる福音書の復活物語は、後からの附加であるというふうに言われたりもしますが、私たちの聖書には一応のっています。イエスさまはマグダラのマリヤや旅をしているふたりの人に現れるのですが、その話を聞いてもだれも「信じません」でした。マルコによる福音書16章は、イエスさまの復活について書かれてあるのですが、この1章の中に「信じなかった」という言葉が3度出てきます。ルカによる福音書24章には、よみがえりのイエスを弟子たちが信じることができなかったので、イエスさまに「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起こすのか」と言われています。またヨハネによる福音書20章には、イエスさまの十字架の傷に指を入れてみなければ信じないと言ったトマスの話が出ています。

「キリスト教で一番大切なことは、キリストの復活である」とよく言われます。しかし聖書はこの復活に関して、信じられない弟子たちの様子を描き出しています。

多くの場合、この復活の出来事を信じることができないものに対して、非難がなされます。いつの世にもイエスさまのよみがえりを信じることのできない悪人はいるのだという調子で非難されています。「主イエスの復活について、予言され、それが成就し、目のあたりにこれを見ながら、なぜなお、疑ったのか」という感じで、よく論じられます。信じることのできないものが、まるで極悪人であるかのように論じられるとき、わたしはなにか釈然としないものを感じます。「わたしは信じられる」と胸を張って、信じられない人を裁いてしまっていいのかと思うからです。イエスさまは聖書の中で「人を裁くな」と言われたではないかと思うのです。

椎名麟三という小説家は『私の聖書物語』という本の中で、次のように言っています。【キリストが神だからという理由で全的にその奇跡を肯定している方々よ。もし少し正直になろう。あなた方も内心ではそんな奇跡なんか少しも信じられていはしないのだ。しかしそれを恥ずる必要は少しもない。実は、信じられないという点こそ、他の宗教はいざ知らずキリスト教にとっては、大切な生命の泉なのである。信じられないものであるという事実を消してしまえば、キリスト教は死んでしまうほどなのだ。信じられないなら信じられないでよろしい。むしろそれは人間の誇りであり、名誉だからである。何故ならそれはまごうことのない厳然とした人間の事実であるからだ。そしてキリストは、その人間の誇りをささえるために、いいかえれば限界への意識によって貧しくなっている人間を、むしろ生々といかすためにやって来たのである。限界をとりはずすためにやって来たのではなく、限界があるということが人間の喜びとなり栄光となるためにやって来たのである】(『私の聖書物語』、57頁)。

「キリストが神だからという理由で全的にその奇跡を肯定している方々よ。もし少し正直になろう。あなた方も内心ではそんな奇跡なんか少しも信じられていはしないのだ」という言葉は、言い過ぎかも知れません。

しかし椎名麟三の言いたいことというのは「信じられない限界のある人間だからこそ、人間とはそういう存在であるからこそ、キリストが人間に働きかけてくれるのだ」ということです。信じられない弱い器である私たちを認め、そのままで愛してくれるというのです。「疑う者がいた」ということから、「疑うやつは極悪人だ」「おまえは疑っていないか」「疑っているのはおまえだろう」というように考えていくのではなく、「自分が疑う者であり、そうした弱い自分を神がそのままで愛してくれている」ということを信じることが、大切だというのです。

自分が神さまを信じられない者であるということがわかることによって、神さまを信じて生きたイエスさまの歩みのすばらしさがわかります。イエスさまは神さまを信じた歩みのゆえに、「天と地の一切の権能を授かっている」ことになったのです。聖書はいかなる力も、イエスさまの前には無きに等しい者であることを告白しています。

そして神さまからいっさいの権威を授けられたイエスさまが、いま私たちと共にいてくださるのです。マタイによる福音書28章20節には【わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる】とあります。

神さまあるいはイエスさまが私たちと共にあるということを、私たちは素直にうれしいことと思います。イエスさまが守ってくださるので、絶対安心であるような気がします。しかしイエスさまと共にあるということは、私たちにとって安心であるということだけではなく、同時にイエスさまの歩みに従うということをも意味しています。

使徒パウロは、ローマの信徒への手紙6章8節で「わたしたちはキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」と言っています。イエスさまは十字架につけられて殺された方です。そういうことを考えると、イエスさまと共にいるということは、いつもいつもいいことばかりが続くことではないかも知れません。この世的に見れば、あまりいいことがないことなのかも知れません。

そんなことを考え始めると、イエスさまの「いつまでもあなたがたと共にいる」という招きの言葉に対して、すなおに「ありがとう」というふうに思うことができないかも知れません。私たちはそうした弱さを抱えて生きています。

しかし、復活の出来事はそんな私たちを神さまが変えてくださる出来事なのです。イエスさまの弟子たちにとって、イエスさまの死は、奈落の底に突落とされるような事件でした。「神さまはどこにもいない」というように思える絶望的な事件でした。しかし「神はいない」と思える絶望の中に、それでも「神共にいます」ということを信じる人々がいたのです。

私たちはなかなか信じることのできない者であり、イエスさまに従うことのできない者です。しかしイエスさまはそれでもなお、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と私たちに言ってくださっています。この招きに応えて、イエスさまと共に歩みたいと思います。いろいろな不安なことや心配なことが、私たちの現実の中にたしかにあります。しかしそれでもなお、イエスさまは私たちを導き、祝福してくださり、私たちに良きものを備えてくださいます。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言ってくださるイエスさまに、「私たちも世の終わりまであなたと共にいたい」と応える者でありたいと思います。


(2023年5月21日平安朝礼拝)

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