2023年5月15日月曜日

5月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「徳の高い生き方をなさいませ」

聖書箇所 ルカ7:1-10。433/520。

日時場所 2023年5月14日平安教会朝礼拝式・母の日礼拝


今日は、5月の第2日曜日ということで、母の日です。6月の第3日曜日が父の日です。母の日と父の日がどちらが子どもから覚えられているのかと言いますと、まあやっぱりいまの時代であっても、やはり母の日だろうと思います。最近は「父の日のプレゼント特集」というものもやっていますが、それでもやはり「母の日のプレゼント特集」のほうが活発なような気がします。

昔、政治家が自分の言ったおかしなことを指摘された時に、ぜったいに自分が正しいと言い張っていましたが、明くる日に「おかんに怒られた」と言って、自分の言ったことを取り下げるというようなことがありました。わたしは「おかんに怒られた」と言って取り下げるんだと、なんとも不思議な気がしました。わたしの文化のなかでは、いい大人が「おかんに怒られた」と言って、自分の言ったことを取り下げるというようなことは、やっぱりないだろうと思います。しかしこの「おかんに怒られた」という文化は、なんとなくあるような気がします。だからまあ政治家の人は自分に分が悪いと思った時に、自分が自分で言ったことを撤回するのではなく、「おかんに怒られた」という形で取り下げたのだと思います。そして周りの人たちも、「まあ、おかんに怒られたのならしょうがないかなあ」というふうに思うわけです。

2020年、「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」という映画をみたときに、主人公の煉獄さんのお母さんが亡くなる前に、煉獄さんに話しかけるシーンはなかなか印象的なシーンでした。お母さんはこう言います。

「なぜ自分が人よりも強く生まれたのかわかりますか。弱き人を助けるためです。生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は、その力を世のため人のために使わねばなりません。天から賜りし力で人を傷つけること、私腹を肥やすことは許されません。弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。決して忘れることなきように」。やっぱりこの言葉をお母さんが語るというところが、ミソなのだと思います。お父さんが語ったのではだめなのです。お母さんが語るということに意味があるのです。

しかしなんとなくお母さんにもたれかかったような息子のあり様というのは、なんとなくひっかかるような気もするのですが、しかしなんとなく涙を誘うのです。ということで、わたしは今日の説教題を、母が子どもに伝えるという形の言葉遣いにしました。「徳の高い生き方をなさいませ」。「徳の高い生き方をしよう」や「徳の高い生き方をしなさい」ではなく、「徳の高い生き方をなさいませ」といたしました。

今日の聖書の箇所は「百人隊長の僕をいやす」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書7章1−5節にはこうあります。【イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」】。

ルカによる福音書6章では、「幸いと不幸」「敵を愛しなさい」「人を裁くな」というような、いわゆるマタイによる福音書の山上の説教に出てくるような内容のイエスさまのお話がされてあります。そうした大切なお話を民衆に話されて、イエスさまはカファルナウムにやってきます。そこである百人隊長に出会います。百人隊長というのは、軍隊組織のなかで、百人の部下をもつ隊長ということです。イエスさまの時代、ユダヤを治めていたのはローマ帝国でしたので、ローマ帝国の百人隊長ということです。この百人隊長の部下が病気で死にそうでした。イエスさまが病気の人たちをいやしておられたということをどこかで聞いたのでしょうか、百人隊長はイエスさまに部下をいやしてもらおうと、ユダヤ人の長老たちに頼みました。長老たちはイエスさまのところにきて、百人隊長の願いを叶えてあげてほしいと、一生懸命にお願いをします。長老たちは「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を立ててくれたのです」と言いました。「わたしたちユダヤ人を愛して」とありますから、百人隊長はユダヤ人ではないことがわかります。ですから百人隊長はローマ帝国の百人隊長で、異邦人ということです。でも異邦人でありながらも、ユダヤ教に対する理解者であり、ユダヤ教に心を寄せていたので、ユダヤ教の会堂を建ててくれたりして、支援をしてくれていました。それでユダヤ人の長老たちは熱心に、百人隊長の願いを聞いてくれるようにと、イエスさまにお願いをしたのでした。

マルコによる福音書7章24節以下には「シリア・フェニキアの女の信仰」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の75頁です。この聖書の箇所は、マタイによる福音書15章21−28節にも同じような話が出てきます。ルカによる福音書には出てきません。この「シリア・フェニキアの女の信仰」という話は、異邦人の女性が、自分の幼い娘をいやしてもらおうと、イエスさまにお願いをするという話です。しかしはじめイエスさまは彼女が異邦人だったので、やんわりと断ります。でも異邦人の女性が熱心にお願いするので、娘の病をいやしてあげるという話です。この話の中では、イエスさまは基本的には、ユダヤ人の病気を治すけれど、異邦人の病気は治さないという話になっています。しかし今日の聖書の箇所では、百人隊長は異邦人ですが、イエスさまは百人隊長の願いを聞いて、部下の病をいやされます。

ルカによる福音書7章6−8節にはこうあります。【そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」】。

イエスさまはユダヤ人の長老たちの願いを聞いて、百人隊長の部下をいやしにいかれました。イエスさまたちが百人隊長の家に近づいた時に、百人隊長は友だちを使いとしてたてて、イエスさまにこう言いました。イエスさま、家にまで来ていただかなくても大丈夫です。わたしは異邦人なので、あなたをお迎えするような立場の者ではありません。わたしのほうからお伺いすることさえ、ふさわしくないと思っていました。どうかひと言、「あなたの部下の病気は治る」とおっしゃってください。そうすればわたしの部下の病気は治ります。わたしも百人隊長という立場の者ですが、わたしが兵士に「行け」と言えば、兵士は行きますし、「来い」と言えば来ます。「これをしろ」と言えば、そのとおりにします。

ルカによる福音書7章9−10節にはこうあります。【イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。】。

イエスさまは百人隊長の言葉を聞いて関心します。そしてイエスさまは「イスラエルの中でも、これほどの信仰をわたしは見たことがない」と言われました。イエスさまは「この人の信仰はすばらしい信仰だ」と、異邦人である百人隊長のことをほめたわけです。そしてイエスさまはいやしのわざを行われました。百人隊長の使いが、百人隊長の家に帰ると、病気の部下は元気になっていました。

旧約聖書の列王記下5章1節以下には、預言者エリシャがアラム王の軍司令官ナアマンの重い皮膚病をいやしたという話が出てきます。旧約聖書の583頁です。預言者エリシャは使いのものを、ナアマンのところに送り、「ヨルダン川で七回体を洗ったら直るから」と言わせました。それに対してナアマンは怒ります。列王記下5章11節にはこうあります。【ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた】。ナアマンはエリシャが自分のところに来なかったことを怒ったわけです。

まあナアマンの気持ちもよくわかるわけです、病気をみてもらうのに、私たちもやっぱり親身になってみてもらいたいと思います。私たちも病院に行って見てもらう時に、お医者さんがコンピュータの画面ばかりみていると、「あの医者はコンピュータの画面ばかり見ていて、わたしのことをみてくれない」と思います。コンピュータの画面をみるお医者さんよりも、わたしの顔をみて、「ああ、こりゃ、風邪ですね。葛根湯を出しておきましょう」と言うお医者さんのほうが、良いお医者さんのような気がするわけです。みてもらったあと、診察室の外で待っていると、お医者さんのやさしい声が聞えてきます。「ああ、こりゃ、風邪ですね。葛根湯を出しておきましょう」。それでもやっぱりコンピュータの画面ばかり見ているお医者さんよりも、良いお医者さんのような気がするわけです。

まあそれはさておき、百人隊長はナアマンとは違い、イエスさまが自分の家に来てくださらなくても、「あなたの部下は直る」とひと言言ってくださるだけで、大丈夫ですと言いました。百人隊長はナアマンのようにいばったりしませんでした。自分がえらいものであるというような振る舞いをしませんでした。

百人隊長は日頃から、ユダヤ人たちに親切にしています。会堂を建てたのも、百人隊長です。百人隊長は異邦人でありながらも、ユダヤ人の信じる神さまを信じていたのだと思います。そしてユダヤ人に対して敬意をはらっていたのでしょう。イエスさまに部下の病気をいやしてもらうときも、「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました」と言っています。当時、ユダヤ人の多くは異邦人のことを汚れた人たちであると考えていました。自分たちは特別な民族であるという考え方は、私たちの時代からすると、「それはちょっと高慢な考え方だろう」と思います。ですから本来であれば、民族的な意味においては、百人隊長はイエスさまに対して、「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」というようなことを言う必要はないような気がします。ただ百人隊長は、イエスさまに対して特別な敬意をもっていたのだと思います。「この方は病気の人をいやし、貧しい人々のことを心に留めておられる方だ。神さまの示される道を歩んでおられるすばらしい方だ」。そのような敬意を、百人隊長はイエスさまに対してもっていたのだと思います。

百人隊長が病をいやしてほしいと願ったのは、自分の病気ではなく、また自分の家族の病気ではありませんでした。。百人隊長は自分の部下の病気をいやしてもらうようにと、イエスさまにお願いをしました。百人隊長は部下思いの人であるわけです。

イエスさまは百人隊長をほめられました。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」と、イエスさまは言われました。それは百人隊長が、まっすぐな信仰をもっていたからです。兵士が上官に命令をされたら、それに従うように、自分も神さまによって良きことを示されたら、神さまの御心をしっかりと行なっていきたい。そういうまっすぐな信仰をもっていたからです。

百人隊長は神さまに対してしっかりとこころを向けて歩んでいました。ですから百人隊長はユダヤ人に対して親切でしたし、部下に対しても配慮がある人でした。神さまの御子としての歩みをされているイエスさまに対して、とても謙虚な思いをもっていました。ひと言で言えば、百人隊長は人徳者であったのです。

徳の高い生き方をするということは、とても大切なことです。とくに現代のように、「法律に違反しなければいいだろう」「立件されなければ、犯罪を犯したことには成らない」というような雰囲気が漂っている社会の中にあって、徳の高い生き方をするということは、それはとても大切なことだろうと思います。

今日は母の日ですので、はじめに紹介いたしました、「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」の主人公の煉獄さんのお母さんの言葉をもう一度読んでみたいと思います。「なぜ自分が人よりも強く生まれたのかわかりますか。弱き人を助けるためです。生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は、その力を世のため人のために使わねばなりません。天から賜りし力で人を傷つけること、私腹を肥やすことは許されません。弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。決して忘れることなきように」。

百人隊長のお母さんが百人隊長にどんな言葉をかけていたのかというようなことは、あたりまえですが、聖書に出てくるわけではありません。しかし私たちは思います。たぶん百人隊長のお母さんは百人隊長に、「徳の高い生き方をなさいませ」と語っただろうと思います。それは私たちの願いであり、私たちもそのように歩んでいきたいと思うからです。

神さまが私たちを祝福し、私たちを愛してくださっています。私たちはそのことをしっかりと受けとめて、神さまに神さまにふさわしい歩みでありたいと思います。



  

(2023年5月14日平安教会朝礼拝式・母の日礼拝)


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