「わがままばかりでごめんなさい」
聖書箇所 ルカ14:15-24。105/507。
日時場所 2023年6月11日平安教会朝礼拝式・花の日こどもの日合同礼拝
新型感染症のために、子どもの教会との合同礼拝を行なうことができませんでした。今日はひさしぶりの合同礼拝です。昔はこどもの数が多かったので、日曜学校、教会学校が行われているということは、ふつうのことでした。しかしいまは教会学校を行なっている教会の数も少なくなってきていると言われています。平安教会は子どもの教会が行われているとても恵まれた教会であるわけです。私たちはなんでも当たり前のように思ってしまって、不平や不満に感じることも多いですが、すこし冷静になって考えてみると、このように多くの恵みが私たちに備えられていることに気がつきます。
友だちと旅行にいく計画を立てたり、なにか集まりを考えたりするときがあります。そうしたときに世話役になることが、皆さんもあると思いますが、なかなか大変です。大変なことのひとつに人数の把握ということがあります。わたしもよく牧師の研修会の世話役などをやりましたが、参加と出しているのに何も言わずに欠席をする人や、参加と言わずに参加してくる人がいたりということがあります。まあ牧師さんですから、葬儀のようにどうしても外すことのできない用事ができるということもありますから、あまり腹を立てるのもどうかと思うわけですが、それでも世話役としてはホテルに食事や宿泊をキャンセルしたりするわけです。昨日1名欠席としたのに、今朝はまた2名増やして、昼になると1名減らしてというようなことをしていると、「もうこれが最後ですよね」というようなこともホテルから言われます。
人それぞれですから、几帳面な人もいますし、あんまり几帳面でない人もいます。「あ、こんどの食事会、出席する、出席する」と調子の良いことを言いながら、出席の連絡をしてこない人もいます。「あの人は、出席するといつも言うけど、いつも出席しないから、もう誘わなくてもよいのではないか」と言うことになり、誘わないと、「どうしてオレを誘ってくれなかったんだ」と怒る人がいたりもします。なかなかむつかしいなあと思う時があります。実際自分も年をとってくると、出席の連絡したかどうかわからなくなって来る時があったりして、あんまり人を責めることもできないなあと思ったりもします。
今日の聖書の箇所は「大宴会のたとえ」という表題のついた聖書の箇所です。この箇所の前のルカによる福音書14章7節以下には「客と招待する者への教訓」という表題のついた聖書の箇所があります。どちらも宴会の注意事項のような話であるわけです。
イエスさまは宴会を開く時に、人を招くのであれば、お返しをすることのできない人を招いたほうが良いと言われました。ルカによる福音書14章13−14節にはこうあります。【宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」】。
イエスさまはこの世で宴会を開く時は、貧しい人たちや体の不自由な人たちを招きなさいと言われました。そうした人たちはこの世でお返しをするということができない。そのお返しは神さまがあなたにしてくださる。あなたが天の国に入ったら、神さまがごちそうしてくれる。そのほうがいいだろう。と、イエスさまは言われました。
そのことを受けて、今日の聖書の箇所の話になるわけです。ルカによる福音書14章15ー17節にはこうあります。【食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた】。
イエスさまと一緒に食事をしていた人は、この世で貧しい人たちを招いて、神の国に招かれて、神さまと食事をすることができるのであれば、それはいいですねと言いました。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言いました。それに対して、イエスさまのたとえとなるわけです。
ある人が盛大な宴会を開いた。大勢の人を招いてきてもらおうと思っていた。宴会の時間になったので、僕を送って、招いていた人たちに「もう準備ができたので、宴会にいらしてください」と案内をするわけです。
ルカによる福音書14章18−20節にはこうあります。【すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。】。
僕を送って、宴会に来てもらおうとすると、招いた人たちが次々と言い訳をして、断ります。「畑を買ったので、見に行かなければなりません」。まあ畑を買うというのは、なかなか大きなことで、その畑の状態を見に行かなければならないというのも、わからないではありません。でもそれであれば、前もって、「その宴会の日は畑を見に行かなければならないので、申し訳ないけれども、出席できません」と連絡をしておけば良いわけです。いろいろと宴会を催すほうも準備があるわけです。
「牛を二頭ずつ五組かったので、それを調べにいかなければなりません」。たしかに牛を10頭も買ったのであれば、それがどんな牛であるのかを調べにいくことは大切なことだと思います。それであれば、出席できないことを伝えておけば良かったのです。
「妻を迎えたばかりなので、行くことはできません」。現代であれば、まあ妻を迎えたばかりであるのであれば、それは宴会に行かないほうが良いかなあとも思えます。迎えたばかりの妻は生活の環境もすべて新しいわけですから、まあ不安であると思います。知らないところにひとりぼっちというのは、なかなか精神的にきついものがあります。そうしたこともあるので、引っ越してきた妻を一人だけ残して、夫がどこかに出かけていくというのも、まあ考えたほうがええかなあと思えます。まあしかし、そうであるなら、あらかじめそのように伝えておけば良いわけです。
ルカによる福音書14章21ー24節にはこうあります。【僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」】。
僕は帰ってきて、招いた人たちが来ないことを家の主人に報告します。すると当たり前ですが、家の主人は怒ります。そして僕に、町の広場や路地に行って、貧しい人、体の不自由な人たちを連れてきなさいと言いました。それで僕はそのとおりにします。しかしそれでもまだまだ席はあります。そのことを主人に報告すると、主人はもう一度、通りや小道に行って、無理やり人を連れてきて、この家をいっぱいにするようにと命じます。主人はとても怒っているわけです。だれでもいいから連れてこい。ただ始めに招いていた人たちは、もう誰一人、一緒に食事をする気はないと、家の主人は言うのでした。
イエスさまのたとえに出てくる、「家の主人」というのは、神さまのことです。神さまは神の国の宴会に招かれます。まあ一般的なユダヤの人々の感覚から言えば、神の国に招かれるのはユダヤ人でしょう。ユダヤ人のなかでも畑を買ったり、牛を飼ったり、結婚したりすることのできる人たちです。しかしその人たちは、神さまから招かれながら、神さまの招きに応えないいわけです。それで神の国の宴会は、貧しい人たち、体の自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たちのものになる。この世でとてもしんどい思いをしている人たちこそが、神の国の宴会に招かれることになると、イエスさまは言われるのです。それでもまだまだ神の国の宴会はいっぱいにならないので、「だれでも入れるようになります」。異邦人でも良いわけです。ただ招かれていたのに、来なかった人たちは、もう二度と入ることはできないのです。
「神さま、そんなに怒らんといてください」と思わないでもないわけですが、でも一生懸命に計画をして招いたのに、急に自分の都合だけを言ってくるというのは、まあ腹の立つことだと思います。
このイエスさまのたとえは、一緒に食事をしていたある人が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったことから、このたとえが話されています。このたとえはこの人に対するちょっとした皮肉を含んでいるわけです。この人だけということではありませんが、この人に類する人たちに対する皮肉を含んでいるわけです。
いいことをいうわけです。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」。なんかわかっているような感じのことを言うわけです。宴会を招くのであれば、貧しい人たち、体の不自由な人たち、弱い立場の人たちを招きなさい。そうすれば神の国に入ることができますよと、イエスさまが言われているのに対して、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と応えるのです。それに対して、イエスさまは「いや、いや、神さまがそのようにあなたたちを招いているのだから、神の国に入るべく、そのようにしなさいよ」と思うわけです。あなたたちは「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」というけれども、そのことがほんとうにわかっているのであれば、そのようにしなさい。そうでないと、あなたたちも「あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」ということになってしまうよ。というわけで、今日のたとえを話されたのでした。
この人たちもそうですが、私たちもまた神さまから招かれていることの恵みに気がつかないということがあります。神さまの招きをないがしろにしているようなところが、私たちにもあるわけです。私たちも招かれているにも関わらず、その招きを断るということがあるわけです。「神さまが招いてくださっていることを知りつつ、今日も礼拝を欠席してしまった」というようなことがあったりします。「なんか面倒だ」「それは良いことかも知れないけれども、でもね。こっちの都合もあるわけだし」「畑を買ったので、いけません」「馬を買ったので、いけません」「羊を買ったので、いけません」「犬を買ったので、いけません」「買い物にいかなければならないので、いけません」「雨が降ったので、いけません」「あまりに天気が良いので、いけません」。
まあ理由はいろいろあるわけです。それが日常生活というものです。私たちの都合に合わせていけば、「どうか、失礼させてください」「どうか、失礼させてください」「行くことができません」となってしまいます。
しかしそうした自分勝手な私たちをそれでも招いてくださっている神さまがおられます。私たちは「わがままばかりでごめんさない」という気持ちを思い起こしたいと思います。神さまから招かれているにも関わらず、わがままばかり言っている自分に気がつきたいと思います。神さまからいろいろな恵みをいただいているにも関わらず、それに気がつかないで、不平や不満を口にすることの多い自分に気がつきたいと思います。
「わがままばかりでごめんさない」。そして正気に戻って、神さまに感謝するものでありたいと思います。神さまは私たちを愛してくださっています。私たちに命を与えてくださり、私たちに生きる力を与えてくださいます。神さまは私たちに良きものを備えてくださり、私たちが共に生きていく知恵を与えてくださいます。私たちがさみしいとき、私たちを慰めてくださいます。神さまが私たちともにいてくださいます。安心して、神さまにお委ねして歩んでいきましょう。
(2023年6月11日平安教会朝礼拝式・花の日こどもの日合同礼拝)
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