「ただ信じなさい。そうすれば救われる」
聖書箇所 ルカ8:40-56。513/528。
日時場所 2023年6月18日平安教会朝礼拝
何かしている途中で、何かを始めてしまって、していたことを忘れてしまうということは、よくあることです。週報を印刷している途中に、玄関でピンポンとなったので、出て行くと、宅急便だったので、それを受け取って、受け取ったものを、自宅に届けて、咽が渇いたのでお茶を飲んで、「あっ、そうそう、郵便局に葉書を買いに行かなければならなかったんだ」と思い出して、郵便局に行って帰ってくると、もう夕ご飯の時間になったので、夕ご飯を食べて、コーヒーを飲んでいる途中、「なんか、忘れている気がするなあ。なんだったかなあ」というようなことが、私たちの日常生活には起こります。「やっぱり一つ一つきっちりと終わらせていかないと、だめだよねえ」と思うのですが、でも途中で何かが入るということが、よくあることです。
今日の聖書の箇所は「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」という表題がついています。この話は、マルコによる福音書にも、マタイによる福音書にもある話です。マルコによる福音書はルカによる福音書と同じくらいの分量がある話となっていますが、マタイによる福音書は少し短い話になっています。福音書は、マルコによる福音書が書かれたあと、マルコによる福音書を見ながらマタイによる福音書やルカによる福音書が書かれたと言われています。ヤイロの娘とイエスの服に触れる女の話は、たぶん別々の話であったものが、一つの話とされるようになったということです。もうマルコによる福音書が書かれたときには、すでに一つの話になっていたということのようです。「十二歳ぐらいの一人の娘」と「十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女」ということですから、この「十二」という数字が二つの物語をつなげたのでしょう。十二歳というと、私たちの社会では小学6年生くらいですから、ほんのこどもという感じですが、この時代のユダヤの女性は十二歳くらいで結婚しましたので、私たちの感覚とはちょっと違う年齢ということです。
ルカによる福音書8章40−42節にはこうあります。【イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た】。
イエスさまはガリラヤ湖の向こう岸のゲラサ地方で悪霊に取りつかれた男の人をいやされました。しかし悪霊は豚に乗り移り、豚が崖から転落死するという事件になりましたので、その地方の人々は気味悪く思い、イエスさまに出ていってほしいと願いました。イエスさまは人々の願いを聞き、この地方から出て行くことにしました。そしてイエスさまはまた帰ってこられたのですが、群衆は喜んでイエスさまを迎えました。ヤイロという名のユダヤ教の会堂長が、十二歳くらいの一人娘が死にかけているのを救うために、自分の家にきてほしいと、イエスさまに願い出ました。イエスさまはその願いを聞き入れられ、会堂長ヤイロの家に向かいました。会堂長というのは、ユダヤ教の会堂を管理している人のことです。礼拝のプログラムを考えたり、誰にお話しをしてもらうのかとかを決めたりする人のことです。
ルカによる福音書8章43−48節にはこうあります。【ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」】。
ヤイロの一人娘を救うために、ヤイロの家に向かう途中で、イエスさまは一人の女性をいやされます。十二年間、出血がとまらない女性です。ヤイロの娘は十二歳ですから、ヤイロの娘が生れ育って、そろそろ結婚をするかなあという年齢に達する十二年の間、この女性はずっとこの病気に悩まされてきたのでした。そして単に病気に悩まされてきてしんどいということだけでなく、この病気のために全財産を使い果たしてしまいました。しかし病気は治らない。お金がないので、この先、医者にかかることもできず、病を抱えてつらい思いをして生活をしていかなければならないのです。
出血がとまらないという、血に関する病気ですので、とくにこの女性は汚れたものというふうに考えられていました。ですからこの女性は、後からイエスさまの服の房に、だれにもわからないように、そっと触れたのでした。もしかしたらこのイエスさまはわたしの病気を治す力があるかもしれないと、この女性は思ったのです。そして勇気を持って、ただし誰にも気づかれずに、イエスさまの服の房にさわったのでした。だれかに見つかったら、どんなに非難されるかわからなかったからです。イエスさまの服の房にさわると、彼女の病気はいやされました。
イエスさまは「わたしに触れたのはだれか」と言いました。周りに一杯人がいたので、ペトロはだれかイエスさまを触ったとしても、わからなくても仕方がないでしょうと言うのですが、イエスさまはそれでも「だれだ、だれだ」と探し回ります。女性からすると、病が治ったので、イエスさまがあまり騒いでくださらないほうが良かったのだろうと思います。あとから日を改めて、またいつかお礼にお伺いするということで良かったのだと思うのですが、しかしイエスさまはだれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言います。女性は隠し切れなくなって、イエスさまの前に進み出ます。そしていままでの事情を、イエスさまに話しました。すると、イエスさまは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言い、この女性を祝福されました。
わざわざ大騒ぎをして、この女性に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言う必要があったのかというような気がするわけですが、イエスさまはこの女性を祝福せずにはいられなかったのです。「ああ、知らないだれか病気がいやされてよかったよね」ということではなく、イエスさまは「いままで十二年間苦しい思いをしていた『この女性』が、『この女性』がいやされたんだ」ということが大切であったのです。そしてこの女性に、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言わずにはいられなかったのです。
ルカによる福音書8章49−56節にはこうあります。【イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった】。
十二年間、出血をわずらっていた女性は、イエスさまにいやされたわけですが、もともとイエスさまはヤイロの一人娘をいやすために、ヤイロの家に向かっていたのです。しかし会堂長の家の人がやってきて、「お嬢さんは亡くなりました」と言いました。ヤイロは驚いただろうと思います。そしてヤイロは、「イエスさまがもっと早く自分の家に着いてくださっていたら」という思いにとらわれただろうと思います。十二年間、出血をわずらっていた女性に関わっていなければ、もしかしたら娘が亡くなる前に、イエスさまは自分の家に着くことができたのではないのか。そうした思いにとらわれただろうと思います。
人は悲しい出来事や苦しい出来事に出会うときに、ときに心が弱くなります。そして人のことを恨んだり、人のせいにしたりします。ヤイロの一人娘が亡くなったのは、イエスさまが何かをしたからというわけではありません。イエスさまはヤイロに頼まれたから、一人娘をいやすためにヤイロの家に向かっていただけなのです。しかし人は「もう少し、イエスさまが早く来てくれたなら」という思いを持ってしまうのです。それは人としては仕方のない弱さでもあります。だれかのせいにしなければ、自分がどうにかなりそうなのです。しかしイエスさまはヤイロに、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」と言われました。大切なことはただ信じるということなのだと、イエスさまは言われました。
ヤイロの家に着くと、イエスさまはペトロ、ヨハネ、ヤコブと、ヤイロとヤイロの妻、信頼できる人だけを家に招き入れました。人々はみんな死んだ娘のために泣き悲しんでいます。そうしたなか、イエスさまは「娘は死んだのではない。眠っているだけだ」と言われました。たしかに娘は死んだのです。そのことはイエスさまもご存じなのです。しかしイエスさまは娘に再び命を与えられるのです。人々は娘が死んだことを知っているので、イエスさまのことをあざ笑います。人々はイエスさまがどのような方であるかを知らないのです。イエスさまが命の源であることを、人々は知らないのです。
イエスさまは娘の手をとって、娘に「娘よ、起きなさい」と呼びかけられました。すると娘は生き返り、すぐに起き上がりました。イエスさまは娘に食べ物を与えるようにと言われました。ヤイロとヤイロの妻はこの出来事に驚きます。イエスさまはこのことをだれにも話さないようにとヤイロたちにお命じになりました。信じられない人々は、何があろうと信じられないからです。
私たちには「もうだめだ」と思えるときがあります。十二年間、出血が治まらなかった女性は、医者にかかり続けて、それでも治ることなく、お金も尽きてしまった。女性は「もうだめだ」と思っていたのですが、最後に、イエスさまのところにやってきて、そしてイエスさまがいやしてくださったのです。会堂長のヤイロも「もうだめだ」と思っていました。一人娘が死にかけているのです。ヤイロもまたイエスさまのところにやってきました。しかしイエスさまが家に着く前に、一人娘が亡くなったということを使いの者から聞きました。ヤイロは「やっぱりだめだった」と思いました。しかしイエスさまは「だめだった」と思ったヤイロに、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」と言われ、一人娘を生き返らせました。
私たちには「だめだ」と思えるときがある。しかし私たちを救ってくださる確かな方がおられると、聖書は私たちに告げています。不安になったり、信じられなかったり、自分ではどうすることもできず、「だめだ」と思える出来事に出会うときが、私たちにはあるけれども、しかし私たちにはすがる方がおられるのだと、聖書は私たちに伝えています。私たちの命の源であり、私たちの救い主である主イエス・キリストが私たちを導いてくださると、聖書は私たちに伝えています。
この「イエスの服に触れる女」の物語と、「ヤイロの娘」の物語は、十二年という数字が結び合わせた物語であるわけですが、しかしそれだけではなく、この二つの物語は「信仰」の物語であるのです。十二年間、出血が治らなかった女性は、イエスさまからいやされたのち、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われています。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」という言葉は、ルカによる福音書7章50節で、「罪深い女をいやす」という聖書の箇所にも出てくる言葉です。ルカによる福音書だけの特別な言葉なのかと言いますと、マルコによる福音書5章34節、新約聖書の70頁の「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」にも出てくる言葉ですから、イエスさまが語られた言葉のようです。しかし「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われているように、この物語は信仰の物語であるのです。そして「ヤイロの娘」の物語においても、イエスさまはヤイロに対して、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」と言っています。この物語もまた、信仰の物語であるのです。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」「恐れることはない。ただ信じなさい」。イエス・キリストは「神さまを信じなさい」と、私たちを招いておられます。「ただ信じなさい。そうすれば救われる」。これはもう信仰とはそうとしか言いようがないのです。私たちが救われるのに、なにか理由があるわけではありません。なにかできるから救われるのでもないですし、なにかりっぱだから救われるのでもないのです。ただイエス・キリストを信じて、そして救われるのです。なにか資格があれば、それはそれで納得がいくということもあります。これこれのキリスト教の知識があれば救われるとか、これこれの良き行ないをしたら救われるとか、ある種の基準があれば、なんとなく納得がいくのにと思えるかも知れません。でも「ただ信じなさい。そうすれば救われる」です。
イエス・キリストは「神さまを信じなさい」と、私たちを招いておられます。神さまを信じること。このこと以上に確かなものはない。神さまはあなたを愛してくださり、あなたを祝福してくださる。安心して神さまにお任せしなさい。たとえ「もうだめだ」と思えることがあったとしても、神さまから捨てられたのだと、あなたが思ったとしても、神さまはあなたを愛しておられる。だから「神さまを信じなさい」。そのようにイエスさまは私たちを招いておられます。イエス・キリストの招きに応えて、神さまを信じて歩みましょう。
(2023年6月18日平安教会朝礼拝)
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