2023年7月4日火曜日

7月2日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「礼拝ーありがとうを言いに集う」

聖書箇所 ルカ17:11-19。495/463。

日時場所 2023年7月2日平安教会朝礼拝式

 

ベルンハルト・シュリンクは、『朗読者』という本で有名なドイツの小説家です。『朗読者』は、『愛を読むひと』という映画になりました。最近、岩倉図書館に行くと、ベルンハルト・シュリンクの『別れの色彩 (新潮クレスト・ブックス)』という本が、「お勧めの本」のところに置いてありました。

【齢を重ねたいま、振り返ると、そこに忘れ得ぬ「あの日」の色がある。男と女、親と子、友だち、親しい隣人・・・・・。ドイツの人気作家が、さまざまな別離をカラフルに描き出す円熟の最新短編集】とあります。年をとった人が読むのにふさわしい本ということなので、借りてきました。

「訳者のあとがき」にはこんなふうに書かれてあります。【若い盛りにはついぞ生まれてこなかった過去に囚われては後悔する感情。友人や家族、隣人の死、そのことがきっかけで、過去の記憶が甦ってくる。あるいは再会をきっかけに、記憶が甦る。もしくは、記憶が甦ってきたために、相手と再会せずにはいられなくなる。・・・。すべてに共通するのは、主人公や視点人物の年齢がシュリンク自身の年齢に近いということだ。・・・。老年に至っても(いや、老年に達したからこそ)、自分の若いころの行いについて後悔の思いが増し、ひどいことをしてしまった相手に赦しを求めたくなるのかもしれない】(P.258)。

「あのとき、こうしておいたらよかったのになあ」というふうに、年をとったときに思うことがある。そしてそのことについてあやまることができるのであれば、あやまりたいと思うというようなことが、皆さんにもあるかも知れません。わたし自身にもあります。【老年に至っても(いや、老年に達したからこそ)、自分の若いころの行いについて後悔の思いが増し、ひどいことをしてしまった相手に赦しを求めたくなる】。

今日の聖書の箇所は「重い皮膚病を患っている十人の人をいやす」という表題のついた聖書の箇所です。すこし古い新共同訳聖書をもっておられる方は、「重い皮膚病」というところが、「らい病」という表記になっているかも知れません。日本聖書協会は、「らい病」という表記が、相応しくないということで、「重い皮膚病」というふうに表記を改めています。

ルカによる福音書17章11ー14節にはこうあります。【イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。】。

イエスさまはユダヤのエルサレムに行かれる途中に、サマリアとガリラヤの間を通っていかれました。エルサレムはイエスさまの国の中心都市です。ガリラヤはイエスさまや弟子たちの生まれ故郷です。ガリラヤは「異邦人のガリラヤ」「ガリラヤからえらい人がでるはずがない」というように言われるような地方であるわけです。またサマリアという地方も、あまりよく言われな地域でした。聖書には「良きサマリア人」というようなたとえがありますが、それは逆を言えば、「サマリア人にいい人がいるはずがない」というようなものの言い方の裏返しであったわけです。サマリア地方は歴史的にみて、他民族が移住するようなことがありましたので、民族主義的なユダヤの人たちからすると、サマリアは良い地方ではありませんでした。ですからユダヤ人とサマリア人は、イエスさまの時代、仲が良くなかったと言われています。

イエスさまがある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人に出会います。この十人は、イエスさまに病をいやしてもらおうと、イエスさまに「イエスさま、先生、どうかわ、わたしたちを憐れんでください」と言いました。イエスさまはこの重い皮膚病にかかっていた人たちを癒やされます。

レビ記13章には「皮膚病」という表題のついた聖書の箇所があります。旧約聖書の179頁です。レビ記13章1−3節にはこうあります。【主はモーセとアロンに仰せになった。もし、皮膚に湿疹、斑点、疱疹が生じて、皮膚病の疑いがある場合、その人を祭司アロンのところか彼の家系の祭司の一人のところに連れて行く。祭司はその人の皮膚の患部を調べる。患部の毛が白くなっており、症状が皮下組織に深く及んでいるならば、それは重い皮膚病である。祭司は、調べた後その人に「あなたは汚れている」と言い渡す。】。

重い皮膚病にかかっているか、重い皮膚病が直っているかを判断するのは、祭司であったわけです。ですからイエスさまは重い皮膚病にかかっている人を癒やされたあと、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われました。イエスさまが病気を癒やされたとしても、祭司たちによって直っていることを判断してもらわないと、社会的にその病気から直ったということにはならないわけです。祭司たちによって直っていると判断してもらうことによって、はじめて社会生活を営むことができるようになるわけです。

重い皮膚病にかかるということは、なかなか大変なことでした。レビ記13章45節以下にはこうあります。【重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。】。

重い皮膚病にかかると自分のことを、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と言って、人々から離れていなければならないということです。ですから重い皮膚病を患っていた十人の人たちは、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言ったわけです。イエスさまの近くに寄ってくることが、重い皮膚病のためにできなかったという事情がありました。

なかなか大変なことであったわけですが、イエスさまからこの人たちはいやされたわけです。ルカによる福音書17章15−19節にはこうあります。【その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」】。

癒やされた中の一人が、大声で神さまを賛美しながら、イエスさまのところにやってきます。そしてイエスさまの足もとにひれ伏して、イエスさまに感謝しました。この人はサマリア人でした。イエスさまは言われました。重い皮膚病にかかっている10人の人をいやしたのに、わたしのところに現れたのは、外国人であるサマリア人だけだ。ほかの9人はどこにいってしまったのだろう。神さまを賛美するために、ほかに戻ってくるものはいなかったのか。イエスさまはそのように言われました。そして「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われ、イエスさまはお礼を言いにやってきたサマリア人を祝福されました。

イエスさまのところに戻ってきたのは、サマリア人だけでした。さきほども言いましたが、サマリア人はユダヤ人から嫌われていました。「あんなやつ」というふうに言われることが多かったサマリア人が、イエスさまのところに戻ってきて、神さまを賛美したのです。残りの9人であるユダヤ人は、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言っていたわけですが、祭司たちのところに行った後、イエスさまのところに戻ってくることはありませんでした。まあとても失礼なことをしているわけです。なにか事情があったのかも知れません。祭司たちのところに言ったら、「あのイエスとは関わらないほうがいいぞ」というふうに脅されたのかも知れません。友だちが癒やされたお祝いの席に招いてくれて、そのまま行ってしまったのかも知れません。まあ重い皮膚病にかかって大変な目にあっていた人については、わたしが「イエスさまのお礼を言いに戻ってこないなんて、なんて失礼なやつだ」というふうにあしざまに言うのも、あまりふさわしいことではないのかも知れません。

わたしはこの聖書の箇所を読みながら、「その後、イエスさまによって癒やされたにも関わらず、イエスさまにお礼を言いに戻ってこなかった人たちはどうしただろうか」と思いました。わたしはたぶんこの人たちは後から後悔しただろうと思います。重い皮膚病をいやしていただいたにも関わらず、癒やしてくださった人にお礼を言わなかったことが、年をとったときに、気になってきたのではないかと思います。もちろん、そんなことは聖書のどこにも書いていないのです。「あのときはお礼を言いに戻ることをしなかったけれども、でもいまから考えるととても失礼なことだし、どうしてイエスさまのところにお礼を言いに行かなかったのかなあ。イエスさま、怒っておられるのかなあ」。そんなふうに年をとってから、思っただろうと思います。サマリア人のように、イエスさまのところに戻って、イエスさまから「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言っていただいたら、生涯、祝福された人生を歩むことができただろうと思います。

老年に至っても(いや、老年に達したからこそ)、自分の若いころの行いについて後悔の思いが増し、ひどいことをしてしまった相手に赦しを求めたくなるのかもしれない】。イエスさまが重い皮膚病をいやしてくださったのだから、サマリア人のように、イエスさまのところに行って、神さまを賛美したらよかったのに。どうしてほかの9人の人たちはそれができなかったのかなあと思います。

しかしよく考えてみると、そのほかの9人のことを考える暇があるのであれば、時分のことをもう少し考えてみたほうが良いのではないかと思います。私たちもまた神さまからいろいろな恵みを受けていながら、そのことに対して当然のように思い込んで、感謝することの少ないものであることに気づかされるからです。

イエスさまのところに戻っていたサマリア人のように、私たちもまたイエスさまのところに集い、神さまに感謝を献げる者でありたいと思い

ます。私たちは日々、神さまから祝福を受けています。ですから神さまに感謝を献げる者でありたいと思います。

今日は「礼拝ーありがとうを言いに集う」という説教題にいたしました。共に礼拝に集い、「神さまありがとう」と感謝をして、神さまをほめたたえる歩みでありたいと思います。神さまに感謝を献げるために、礼拝に集い、そして一週間の私たちの歩みを整えて行きたいと思います。後悔のない歩みでありたいと思います。


  

(2023年7月2日平安教会朝礼拝式)


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