「神さまの愛がいっぱい」
聖書箇所 ルカ15:1-10。494/482。
日時場所 2023年6月25日平安教会朝礼拝式
谷川嘉浩 (著), 朱喜哲 (著), 杉谷和哉 (著)の「ネガティヴ・ケイパビリティで生きる」(さくら舎)という本を読みました。「「わからなさ」を抱えながら生きる方法を気鋭の哲学者たち、熱論」とあります。
【ネガティヴ・ケイパビリティは、物事を宙づりにしたまま抱えておく力を指しています。つまり、謎や不可解な物事、問題に直面したときに、簡単に解決したり、安易に納得したりしない能力です。説明がすぐにはつけ難い事柄に対峙したとき、即断せずにわからないままに留めながら、それへの関心を放棄せずに咀嚼し続ける力だと言ってもいいでしょう】(P.2)。
「ネガティヴ・ケイパビリティで生きる」という本を読んでいますと、3人の若い哲学者たちが楽しそうに話をしている様子がうかがえます。とくに強い調子で決めつけるというようなこともなく、その様子自体が、「ネガティヴ・ケイパビリティで生きる」とはこんな感じなのかなあと思わされます。
私たちはキリスト教を信じています。信仰というと、「これを信じないと信じていることにならない」というような思いをもつことがあります。しかしそのように信じるということだけが、信仰というわけでもありません。わたしはどちらかというと、「信じているか信じていないかよくわからないけど、信じている」というような宙ぶらりんの信仰というあり方でよいのではないかと思っています。あまり凝り固まった信仰をもってしまうと、自分の信じているもの意外のものは、「不信仰」「サタンのしわざ」というような感じになって、人を裁きがちになってしまいます。聖書を読んでいますと、どうもよくわからないとか、ちょっといまのわたしには信じられないというようなこともあるかと思います。わたしも長年聖書を読んでいますが、よくわからないこともあります。でも細かいところにとらわれるのではなく、よくわからなかったり、信じられない部分もあるけれども、でも全体として信じているというので良いと思います。「ネガティヴ・ケイパビリティで生きる」というのは、まさに信仰の場面で発揮されるような気がします。
聖書のなかに出てくるファリサイ派の人たちや律法学者たちというのは、「こんな感じで信じないといけない」という思いの強い人たちでした。「あの人たちは律法のこの条項に違反しているから、罪人なのだ。だめなのだ」ということで、そうした人たちを裁いていました。いつも人を裁いているので、ファリサイ派の人たちや律法学者たちというのは、いつも怒っている人のような印象を、私たちはもってしまいます。実際のファリサイ派の人たちや律法学者たちにあったら、まあそうでもないかも知れません。「会ってみたけど、案外、いい人だよ」ということもあるような気がします。しかしなんとなく聖書に出てくるファリサイ派の人々や律法学者たちは、いつもイエスさまに反対していて、「なんかなあ」という思いをさせる人たちであるわけです。今日の聖書の箇所でも、ファリサイ派の人たちや律法学者たちは怒っています。
今日の聖書の箇所は、「「見失った羊」のたとえ」「「無くした銀貨」のたとえ」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書15章1−2節にはこうあります。【徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。】。
イエスさまは人気者でしたので、いろいろな人たちがイエスさまの話を聞きにきました。徴税人や罪人も、イエスさまの話を聞きにきます。徴税人というのは、税金を集める人たちのことです。イエスさまの時代、イエスさまの国であるユダヤは、ローマ帝国の支配下にありました。税金の多くはローマ帝国のために使われます。その税金を集める徴税人は、ローマ帝国の手先ということです。そのため徴税人は人々から嫌われていました。罪人というのは、律法という法律をいろいろな事情のために守ることができない人たちでした。イエスさまの時代の人たちは、「まあやっぱり律法を守って生きていくことができればいいよね」と思っていました。そのため律法を守ることのできない人たちは、神さまの前に罪を犯している人たちということで、「罪人」と言われたわけです。
とくにファリサイ派の人々や律法学者たちは、律法を守ることのできない人たちに対して、とてもきびしかったのです。罪を犯している人たちと一緒に食事をするなんて考えられないという思いを持っていました。しかしイエスさまは徴税人や罪人と言われる人たちとも、一緒に食事をされました。そうした人たちも、悔い改めることのできるところは悔い改めて、神さまの愛のうちに歩むことができたらいいなあと、イエスさまは思っておられました。
ファリサイ派の人たちや律法学者たちは、「罪人は悪い人たちだ」というような感じで切って棄てるような扱いをしていました。それに対してイエスさまは「そういう感じは、神さまの御心ではない」と、今日のたとえを話されました。
ルカによる福音書15章3ー7節にはこうあります。【そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」】。
百匹の羊のうち、一匹を見失ってしまった。九十九匹を野原に残して、見失った一匹を探し回るだろう。見つけることができたら、とってもうれしいだろう。その羊を担いで家に帰り、友だちや近所の人達を呼び集めて、「見失った一匹の羊が見つかったので、一緒に喜んでください」と言うだろう。神さまも同じように、神さまのところから離れてしまった一人の人が悔い改めて、神さまのところに帰ってきたら、とってもうれしいと思う。悔い改める必要のない九十九人の正しい人よりも、罪人が悔い改めたということのほうが、神さまにとってはとってもうれしいことだと思う。そのようにイエスさまは言われました。
このイエスさまが語られたたとえを聞くと、「野原に残された九十九匹はどうなるんだ。狼に食べられるぞ」というような気持ちになりますが、でもこれはたとえ話ですから、そこに強調点があるわけではないのです。「でも気になって、気になって仕方がない」ということもあると思います。ついつい私たちは自分が何の問題もない優秀な九十九匹の羊のような気がしてしまうのです。そして神さまの言うことを聞かない罪人である一匹の羊を裁くのです。自分が迷子になってしまった一匹の羊であるかも知れないという思いをもつこともなく、「泣く子はいねがぁ〜」「怠け者はいねがぁ〜」「悪い子はいねがぁ〜」と、秋田のなまはげ状態になってしまうわけです。「迷子になるのは自己責任だろう」というようなことを言い始めるのです。でも人はだれしも迷子になることはあるわけです。わたしは子どもの時、万博会場で迷子になりましたし、わたしの母は認知症で迷子になりました。もちろん大人になってからも梅田の地下街で迷子になっています。
人は何かと、細かいところにとらわれて、人を責めることに熱中してしまうというようなことがあります。まあ、羊は狼に襲われたら大変ですので、そうした思いになってしまうのも仕方がないような気がします。ルカによる福音書では「そんなに言われるのであれば、ドラクメ銀貨ということにしましょう」と、同じ内容のことをドラクメ銀貨で、イエスさまはたとえ話をされることになります。ドラクメ銀貨は羊と違って、じっとしていますし、狼に襲われることもありません。羊のたとえは難癖をつけられますが、ドラクメ銀貨のたとえは難癖のつけようがないわけです。
ルカによる福音書15章8−10節にはこうあります。【「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」】
聖書の後ろのほうに、「度量衡および通貨」というところがあります。そこをみますと、1ドラクメというのは、1デナリオンと同じであることがわかります。1デナリオンというのは、一日の賃金ということですので、大ざっぱに考えると、1ドラクメというのは1万円くらいです。ドラクメ銀貨を10枚もっている女性がいて、1枚なくしてしまいます。こりゃ大変だということで、一生懸命に部屋の中を探します。ともし火を付け、家の中を見つかるまで、探し回ります。そして見つけたら、大喜びして、友だちや近所の人を呼び集めて、「無くした銀貨を見つけました。一緒に喜んでください」というだろうと、イエスさまは言われます。それと同じように、一人の罪人が悔い改めたら、神さまの天使たちの間では大きな喜びがあるのだ。一人の罪人が悔い改めたら、天ではみんなで大騒ぎして、喜んでくれているんだと、イエスさまは言われました。そう言われると、とてもありがない話だと思います。私たちが「神さま、本当にごめんなさい」と悔い改めたら、天ではみんなで大喜びしてくれるというわけです。なんかとってもありがたい気がします。
今日の聖書の箇所には、「喜」という感じが、何度も出てきます。喜びに満ちている聖書の箇所であるわけです。イエスさまはうれしいこと出来事を、一緒に喜ぶということは大切なことなのだと、私たちに言っておられます。もちろん見失った一匹を見つけ出すまで探し回るような生き方ができれば、すばらしいと思います。困っている人、さみしい思いをしている人、つらい思いをしている人。私たちの世の中にはそうした人たちがたくさんおられます。迷子になって、一人つらい思いをしておられる人たちもたくさんおられます。そうした人たちが安心することができるようにすることができれば良いと思います。
しかしなかなかそこまでわたしは行なう自信がないということもあると思います。だからイエスさまは言われるのです。「一緒に喜んでください」「一緒に喜んでください」。見失った一匹が見つかったら、一緒に喜んでください。無くした銀貨が見つかったら、一緒に喜んでください。困っている人やつらい思いをしている人が、困っていることやつらいことがなくなったら、一緒に喜んであげてほしい。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」というように、人を裁くのではなく、とにかく一緒に喜んであげてほしいと、イエスさまは言われるのです。
「大きな喜びが天にある」「神の天使たちの間に喜びがある」。神さまの愛がいっぱいある世界に私たちは生きているのです。そのことに気づくことのできる歩みでありたいと思います。
自分だけがなんか損をしているのではないかというような思いになるときがあります。そして人を裁いてみたり、不平を言い出してみたりするのです。「わたしが野原に残されているのは、いかがなものか」「なんで見失った一匹の羊だけを、イエスさまは探し回るのか」。わたしのことはかまってもらえないのか。なんか不公平な気がする。そうした思いにとらわれてしまうときが、私たちにはあります。
しかし私たちは「大きな喜びが天にある」「神の天使たちの間に喜びがある」、そうした出来事を共にしているということを思い起こして、神さまと一緒に、イエスさまと一緒に喜ぶものでありたいと思います。皮肉を言ったり、人を蔑んだりすることなく、神さまと一緒に、イエスさまと一緒に、喜ぶものでありたいと思います。
神さまの愛のうちに、私たちは生かされています。その愛に感謝して、共に喜つつ歩んでいきましょう。
(2023年6月25日平安教会朝礼拝式)
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