「わたしの罪も赦してほしい」
聖書箇所 ルカ7:36-50。6/444。
日時場所 2023年7月16日平安教会朝礼拝式
シンガーソングライターのさだまさしの「精霊流し」という歌は、長崎の「精霊流し」の様子を歌っている歌です。「去年のあなたの想い出が テープレコーダーからこぼれています。あなたのためにお友達も集まってくれました。二人でこさえたおそろいの浴衣も今夜は一人で着ます。線香花火が見えますか、空の上から」。というようにしんみりとした良い歌です。「精霊流し」と聞くと、「灯籠流し」のようなものであるような気がします。川に灯籠を浮かべて、死者の魂を「しんみりと」とむらうというようなことを思い浮かべます。しかし長崎の「精霊流し」はそのような感じのものではありません。テレビでその様子を見て、想像していた歌の雰囲気とまったくちがうのに驚きました。さだまさしは「精霊流しが華かに 始まるのです」と歌っていますが、たしかに長崎の精霊流しはたくさんの爆竹を鳴らして華やかに行われます。
佐野元春の「ザ・ソングライターズ」という本のなかで、さだまさしが「精霊流し」という自分の歌を解説していました。【このなかに、たとえば歌っている人は女性ということで、あなたの船を送るという時に、ふたりでこさえた浴衣を着ているんだね。浴衣を着ているということは、正式な奥さんでもなければ正式な恋人でもない。長崎は結構厳格にその辺を分ける、ちゃんとした遺族は着物を着るんだね。そういう人間関係も実はこの詞のなかに織り込んでいるんです。で、お母さんは浅黄色の着物を着ていると書いてある。これは着物なんですね。浅黄色というのはお盆だけではなくて、長崎のお祭り、くんちでも浅黄色を着ます。あらたまった時には長崎の女性は浅黄色の着物を着るんですね】(P.130)。「なんかめんどくさ」と思いました。「せっかくいい気持ちで、『精霊流し』を聞いていたのに、さださまし、理屈こねるなよ」と思いました。
今日の聖書の箇所もなかなか理屈ぽい話ですし、またその理屈っぽい話を解説するわたしの話も理屈ぽい話になりそうで、聞いておられるみなさんは「なんかめんどくさ」と思われるかも知れません。
今日の聖書の箇所は「罪深い女を赦す」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書7章36−39節にはこうあります。【さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った】。
ファリサイ派のシモンという人が、イエスさまを食事に招きました。イエスさまはその招きに応えて、その家に行って、食事の席に着かれました。イエスさまはファリサイ派の人たちとよく論争をしています。ですから私たちはファリサイ派の人と食事をされたりすることはないのではないかと思いますけれども、イエスさまはまあファリサイ派の人たちとも、このように食事をされるわけです。この町にいた一人の罪深い女性が、イエスさまがファリサイ派のシモンの家で食事をされるということを聞いてやってきます。罪深い女性がファリサイ派の人の家にやってくるというのも、なかなか勇気のいることです。何を言われるかわかったものではありません。「罪深いおまえが、わたしの家に入ることができると思うのか」と怒鳴られて、追い出されるかもしれません。しかし罪深い女性は勇気を出して、イエスさまのところにやってきたのです。
罪深い女性は香油の入った石膏の壺を持ってきました。罪深い女性は泣いていました。そしてイエスさまの足の涙で濡らし、自分の髪の毛でぬぐい、イエスさまの足に接吻をして、もってきた香油をイエスさまの足に塗りました。その様子をみた、ファリサイ派のシモンは、「この人がもし預言者であるなら、自分に触れている女性が、どんな人か分かるはずだ。この女は罪深い女なのだから」と思います。ファリサイ派のシモンは「人々はイエスのことを預言者だと言っているれども、これで化けの皮がはがれたぞ。イエスは大したやつじゃない」と思ったわけです。
ルカによる福音書7章40−43節にはこうあります。【そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた】。
さきほどから、ファリサイ派のシモンと言っていましたら、この箇所でイエスさまをお家に招いたファリサイ派の人が、シモンという名前であることがわかります。名前がわかっているということは、めずらしいことであるような気がいたします。有名な人であったのかもしれません。罪深い女性のほうは名前がわかりません。
イエスさまはファリサイ派のシモンに「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われました。わたしなど、「ジュン、あなたに言いたいことがある」などと誰かから言われますと、ちょっとドキッとしてしまいます。「何かきついこと言われるのかなあ」と心配になるわけですが、シモンはなかなか強気です。「先生、おっしゃてください」と言いました。イエスさまはシモンにたとえ話をされます。二人の人が金貸しからお金を借りていた。一人は500デナリオン、もう一人は50デナリオン。1デナリオンというのは1万円くらいです。二人ともお金がなかったので、金貸しは両方ともの借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。そのようにイエスさまはシモンに尋ねました。シモンは「帳消しにしてもらった金額の多いほうだと思います」と応えます。そしてイエスさまも「そのとおりだ」と言われました。
ここで終われば、まあそんなに大した話ではないわけですけれども、イエスさまはそのあとシモンに対して嫌みなことを言われます。ルカによる福音書7章44ー47節にはこうあります。【そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」】。
イエスさまはシモンの家にやってきたとき、シモンは足を洗う水をくれなかった。しかしこの女性はわたしの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。シモンはわたしに接吻の挨拶をしてくれなかった。しかしこの女性はわたしの足に接吻してやまなかった。シモンはわたしの頭にオリーブ油を塗ってくれなかった。しかしこの女性はわたしの足に香油を塗ってくれた。だから言っておく。この女性が多くの罪を赦されたことは、わたしに示してくれたその愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。
わたしはこのイエスさまの言葉を聞きながら、すこしファリサイ派のシモンがかわいそうな気がしました。「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」というのは、ファリサイ派のシモンのことなのでしょう。「あなたは赦されていることに気づかないから、愛することも少ないのだ」と言われているわけです。しかし食事に招かれて、あとから「足を洗う水をくれなかった」というように、いろいろと文句を言うというのも、ちょっとまあどうかなあと、わたしは思います。
ルカによる福音書7章48−50節にはこうあります。【そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。】。
イエスさまはファリサイ派のシモンにはきついことを言われましたが、罪深い女性に対してはやさしく接しておられます。「あなたの罪はゆるされた。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。わたしがあなたを救ってあげたというのではなく、あなたの信仰があなたを救ったのだ。神さまはあなたの罪を赦してくださったから、安心して行きなさい。罪深い女性は、イエスさまの言葉に励まされて、新しい歩みを始めることだできたのだと思います。一緒に食事をしていた人たちは、イエスさまについていろいろと考え始めます。「罪まで赦すこの人は、いったい何者なのだろう」。
ファリサイ派のシモンとイエスさまとのやり取りを見ていると、わたしはこのような議論を組み立てて良いのだろうかと心配になります。イエスさまは愛を数値化しておられるわけです。500デナリオンの借金と50デナリオンの借金を帳消しにしてもらったとして、どちらが多くのその金貸しを愛するだろうかというのは、愛を数値化しているということです。ファリサイ派のシモンはこの質問に違和感なく、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と応えているわけですが、わたしはこんなふうに愛を数値化して良いものだろうかという疑問がわいてきます。そしてイエスさまは、ファリサイ派のシモンと罪深い女性とを比べるのです。【「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた】。
そもそもだれかとだれかを並べて非難したり、愛を数値化するというようなことが、イエスさまの教えであっただろうかと考えたときに、ちょっと違うような気がします。ルカによる福音書21章1節以下に「やもめの献金」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の151頁です。ここでイエスさまは金持ちがたくさん献金したものよりも、やもめがレプトン銅貨二枚を献げたほうが尊いのだというお話をされました。ここでは金額で計ることのできない思いというのがあることを、私たちに示されたわけです。イエスさまはファリサイ派のシモンの罪深い女性に対する思いについて、とても腹を立てておられるのだと思います。それでいつもならそうしたことをしないでだろうことをあえてして、ファリサイ派のシモンを叱責したのだと思います。
ファリサイ派のシモンは、「この女は罪深い女なのだから」と思いました。まあファリサイ派らしいなあと思います。ファリサイ派の人はいつも裁き人になってしまうのです。自分は正しいという位置に立って、人を裁くわけです。「この女性は罪深い女性だ」。じっさい、この女性は一般的に見て、罪深い女性だったのだと思います。そうした仕事をしていたということでしょう。しかしイエスさまはファリサイ派のシモンに、「そういう問題ではないのだ」と言われるのです。「シモン、この人は罪深いとか罪深くないとかではなく、あなたがどうであるのかということが大切なのだ」と、イエスさまはファリサイ派のシモンに問われたのでした。
私たちもすぐ人のことが気になります。「あの人は、どうだ」「この人は、こうだ」。「あの人に傷つけられた」「この人に、こう言われた」。まあ私たちは人間ですから、人のことが気になるわけです。人と比べて、自分の方が良い人間ではないだろうかと思いたい。
しかし大切なことは、イエスさまの愛のうちに、私たちがいるのだということです。イエスさまは罪深い女性に、「あなたの罪は赦された」「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われました。罪深い女性は、イエスさまの愛のうちに自分がいるということに、とても安心しただろうと思います。「わたしにはイエスさまがおられるんだ」と、女性は思っただろうと思います。
ファリサイ派のシモンもまた、イエスさまの愛のうちにあるのです。ですからファリサイ派のシモンは、「罪深い女なのに」と思うのではなく、「この女性の罪が赦されるなら、わたしの罪も赦してほしい」と思うことができれば良かったと、わたしは思います。
私たちもまた、イエスさまの愛のうちを歩んでいます。自らの罪深さを認めつつ、イエスさまに素直に「わたしの罪を赦してほしい」とお願いする歩みでありたいと思います。
(2023年7月16日平安教会朝礼拝式)
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