2023年8月23日水曜日

8月20日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「恥ずかしいことをしてしまった」

 

聖書箇所 マタイ21:18-32。155/460。

日時場所 2023年8月20日平安教会朝礼拝式

   

なんかちょっと恥ずかしかったなあと反省させるような出来事に出会うときがあります。先日、地下鉄に乗り、座っていると、妊婦のような女性が入ってきました。「大丈夫かなあ。こりゃ、代わったほうが良いかなあ」とぼんやりと思っていると、前に座っている若い男性がスッと立って、席を代わっていました。「ああ、どうしてわたしはスッと立てなかったのかなあ」と思いました。まあわたしももう60歳ですから、自分が思っているようには、若者のようにスクッと立ち上がることができないということもあるとは思います。まあわたしももう若いとは言えないので、そうそう電車にのって席を立つというようなことを、いつもいつもしているわけでもないのですが、でもなんか、ちょっとこのときは、恥ずかしい気がしました。みなさんにも「こうしたらよかったなあ」と思えるような出来事に出会うことがあると思います。

今週の9月1日は関東大震災から100年の日です。1923年、関東大震災のときに、朝鮮人が暴動を起こしているというデマを信じて、朝鮮人に対する虐殺事件がたくさん起こりました。加藤直樹さんの『九月、東京の路上で』(ころから)という本には、そのことがいろいろと書かれてあります。自警団による朝鮮人に対する虐殺が行われた一方、そのとき朝鮮人を守った人たちもいました。【関東大震災時の朝鮮人虐殺の記録を読んでいると、朝鮮人をかくまった日本人もいたことがわかる。あれほど軽々(かるがる)と多くの朝鮮人の生命が奪われている最中でも、ひそかに、ときに公然と朝鮮人をかくまった人の記録にしばしば出会うのである。屋根裏にかくした、殺されようとしている子どもを連れて逃げた等である。「朝鮮人を守った日本人」の話として最も有名なのは横浜の鶴見警察署署長の大川常吉(つねきち)だろう。警察署を包囲した1000人の群衆を前に「朝鮮人を殺す前にこの大川を殺せ」と宣言したと言われる。・・・。朝鮮人をかくまった庶民の話は多い。下宿人を空き部屋に隠した下宿屋。日本刀を手に職工を守った工場経営者。朝鮮人労働者を守って自らも半殺しの目にあった親方。青山学院の寄宿舎は子どもを含む70-80人の朝鮮人をかくまったという】(P.145)。

朝鮮人の虐殺事件が起こっている中で、必死に朝鮮人を守った日本人がいたわけです。しかし一方で関東大震災時に起こった朝鮮人への虐殺事件を忘れ去ろうとしている人たちもいます。東京都知事は、2017年以降、「1923年の関東大震災で、虐殺された朝鮮人らを悼む式典」への追悼文を送っていません。恥ずかしいことをしてしまったことを隠そうとすることは、とても恥ずかしいことだと、わたしは思います。関東大震災時に起こった朝鮮人への虐殺を忘れ去ろうとすることは、そのときに朝鮮人を守った横浜警察署署長の大川常吉のような日本人に対しても、失礼だろうと思います。9月1日は、関東大震災から100年の式典になるわけですが、東京都知事がぜひこころからの追悼文を送っていただきないなあと思います。後で考え直して、恥ずかしいことをしてしまったことを悔い改めるということは、すてきなことだと思います。

今日の聖書の箇所は「いちじくの木を呪う」「権威についての問答」「二人の息子のたとえ」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書21章18−22節にはこうあります。【朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」】。

朝早く、エルサレムに帰る途中、イエスさまはお腹が空いたなあと思われました。道端にいちじくの木があり、もしかしたらいちじくがなっているのではないかと近寄ると、いちじくの実はありませんでした。それでイエスさまがいちじくの木に、「いまからずっとお前に実がならないように」と言われると、いちじくの木は枯れてしまいました。弟子たちはその様子をみて驚きます。そして「どうして枯れてしまったのですか」と、イエスさまに聞きました。するとイエスさまは「あなたがたも信仰があるならば、いちじくの木に対してだけでなく、山に向かって『立ち上がって、海に飛び込め』と言うと、そのとおりになる。信じて祈るなら、求めるものは何でも得られる、とイエスさまは言われました。

この話は私たちが読むと、なんとも釈然としないお話のような気がします。子どもの教会のスタッフの方で、子どもの教会の礼拝説教で、この「いちじくの木を呪う」という聖書の箇所があたっていたら、ちょっと戸惑うだろうと思います。わたし自身も戸惑います。まあ言いたいことは、「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」ということなのだと思います。でも、そのことを伝えるために、どうしてイエスさまがいちじくの木を枯らした話を用いるのかということが、わたしには理解できません。お腹が空いていて、自分が育てたのでもない道端のいちじくに実がなっていないのに腹を立てて、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言うなんて、「どれだけイエスさま、機嫌が悪かったんだ」と思います。「イエスさまもお腹が空いていると、機嫌が悪かったから、皆さんも委員会の前には昼食を食べたほうがいいですね」という結論しか、わたしには思い浮かばないというような気がします。こうした聖書の箇所は、無理をして、それらしい結論を導き出すよりも、「なんかよくわからないけど、イエスさまはそうだったんだ」ということで良いような気がします。

マタイによる福音書21章23−27節にはこうあります。【イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」】。

イエスさまが神殿の境内で人々に神さまのことを伝えておられたとき、祭司長や民の長老たちがやってきました。そしてイエスさまに「何の権威でこのようなことをしているのか」と問いただします。祭司長たちや民の長老たちは、自分たちは神さまからの権威が与えられていて、神殿のいろいろなことを取り仕切っている。私たちの言うことを聞かなかったり、私たちを批判することは、神さまを批判することだと言うわけです。私たちを批判しているイエスは、神さまからの権威ではなく、悪魔からの権威によって、それを行なっているのだと言うわけです。

イエスさまはそれに対して、洗礼者ヨハネを持ち出して、祭司長や長老たちを問いただします。あなたたちの質問に答える前に、あなたたちに答えていただきたい。洗礼者ヨハネのことをあなたたちはどう考えているのか。洗礼者ヨハネの洗礼は、天からのものなのか、人からのものなのか。洗礼者ヨハネは群衆に人気があり、群衆は洗礼者ヨハネのことを神さまの使い、神さまの預言者と思っていました。洗礼者ヨハネも、イエスさまと同じように、祭司長や長老たちを批判していました。

イエスさまから問いただされて、祭司長や長老たちは考えます。「天からのものだ」と答えると、「それではどうして洗礼者ヨハネの言うことを聞かなかったのか」と言われるだろう。しかし「人からのものだ」と答えると、群衆が怒り出すだろう。群衆は洗礼者ヨハネのことを、神さまの使い・神さまの預言者だと思っているのだから。ここは「分からない」と答えるしかないな。ということで、祭司長や長老たちは「分からない」と答えます。するとイエスさまはあなたたちが答えないのなら、わたしも答える必要はないだろうと言われました。

祭司長や長老たちは、腰が引けているわけです。そういう意味では、祭司長や長老たちは「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」というような質問をしているわりには、彼らは「人からのもの」で生きています。人から自分がどのように評価されるかとか、この人は人からの支持があるから逆らわないでおこうとか。やっぱり群衆は怖いわとか、彼らは「神からのもの」ではなく、「人からのもの」に強く影響を受けるのです。

マタイによる福音書21章28−32節にはこうあります。【「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」】。

イエスさまはたとえ話をされました。二人の息子をもつ人がいて、兄の方に「今日、ぶどう園に行って働きなさい」と言いました。すると兄は「いやです」と答えます。でも後で考え直してぶどう園に行って働きました。同じように弟にも「今日、ぶどう園に行って働きなさい」と言いました。すると弟は「お父さん、承知しました」と答えました。でも弟は出かけていきませんでした。イエスさまは「この二人のうち、どちらが父の望み通りにしたと思うか」と、祭司長や長老たちにたずねました。彼らは「兄の方です」と答えます。するとイエスさまは、はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちのほうが、あなたたちよりも先に神の国に入るだろう。洗礼者ヨハネがあなたたちに悔い改めを迫った時に、あなたたちは悔い改めなかった。しかし徴税人や娼婦たちは、洗礼者ヨハネを信じて、悔い改めた。あなたたちはそれをみても、まだ考え直して、洗礼者ヨハネを信じようとしなかった。だからあなたたちよりも先に、徴税人や娼婦たちのほうが神の国に入ることになる。

イエスさまは「後で考え直す」ということは大切なことだと言われます。人間ですからそのとき機嫌が悪いというようなこともあります。また体調がすぐれないということもあるかも知れません。元気な時であれば素直に応じることができることであっても、機嫌が悪かったり、体調がすぐれなかったりすると、意固地になってしまうというようなこともあります。出かけに夫と口論になり、いやな気持ちを抱えて、人に会いに行くと、その人が言った小さな冗談が気に障って、大きな口論になるというようなことも、人間ですからあるわけです。でもあとから冷静になって考えてみると、「ああ、やっぱり自分が悪かったなあ」と思えることもあります。

またお腹が空いていたので、ついついトゲのある言葉をかけてしまったというようなこともあると思います。普通なら言わないのだけれど、なんかお腹が空いててイライラして、言わなくても良いことを言ってしまったというようなことがあるわけです。イエスさまでさえお腹が空いていて機嫌が悪くて、いちじくの木に「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われることがあるくらいです。

しかし私たちには「後から考え直す」ということができるわけです。いろいろな事情があって、おかしなことを言ってしまったり、卑怯なことをしてしまったり。言わなくても良いことをいってしまったり、人を傷つけてしまったり。そうしたことが私たちの日常生活のなかで起こります。未然に防ぐことができれば、まあそれに越したことはないわけですが、でもなかなかそういうわけにもいかないのです。私たちは腹を立てることがありますし、いらいらするようなこともあるわけです。そしてついつい、良くないことを言ってしまったり、してしまったりします。

そうしたことがあるわけですが、私たちは「後で考え直す」ということができるのです。イエスさまのたとえ話の中の兄は、「後で考え直す」のです。父親から「ぶどう園へ行って働きなさい」と言われるわけですが、「いやです」と答えてしまったのです。しかし「後で考え直して出かけた」のでした。

祭司長や長老たちは「後で考え直す」ことができませんでした。徴税人や娼婦たちは、洗礼者ヨハネの呼びかけに応えて悔い改めました。しかし祭司長や長老たちは、徴税人や娼婦たちが悔い改めた様子を見ても、彼らは「後で考え直して」、洗礼者ヨハネを信じることはできませんでした。悔い改めることがありませんでした。

「恥ずかしいことをしてしまった」と後で考え直して、そのことを改めるということは、とても大切なことです。だれでも失敗をしたり、へんなことをしてしまうことがありますから、後で考え直して、すてきな自分に戻ることが大切です。

いつのころからか、私たちの世の中でも「嘘に嘘を重ねる」というようなことが行われるようになってきました。自分に都合の悪いことは、フェイクニュースだと言う人たちも出てくるようになりました。「後で考え直して」反省をするのではなく、忘れることを期待して、嘘に嘘を重ねて逃げ切ろうというような姿勢が見られるようになってきました。そうしたことは神さまの前にふさわしいことではないような気がします。

しかし洗礼者ヨハネの呼びかけに、徴税人や娼婦たちが答えたように、私たちもまた悔い改めつつ歩んでいきたいと思います。私たちが神さまの前に誠実な歩みをしているときに、「やっぱりわたしも誠実な歩みでありたいよね」と思う人たちが増えてくるだろうと思います。そして私たちの世界も良い世界になると思います。

イエスさまは私たちに「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」と教えてくださいました。私たちは「御国がきますように」と信じて祈りたいと思います。神さまの義と平和とが満ちあふれる世界になりますようにと、信じて祈りたいと思います。よくないことやへんなこともしてしまう私たちですが、それでも「後で考え直して」、神さまの前に悔い改めて、神さまの平安のうちを歩んでいきたいと思います。





(2023年8月20日平安教会朝礼拝式)

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