2023年8月15日火曜日

8月13日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

「おごれる人も久しからず」


聖書箇所 ルカ12:35-48。120/453

日時場所 2023年8月13日平安教会朝礼拝


平家物語の冒頭は有名です。

【祇園精舎の鐘の声(ぎおんしょうじゃの かねのこえ)

 諸行無常の響きあり(しょぎょうむじょうの ひびきあり)

 沙羅双樹の花の色(さらそうじゅの はなのいろ)

 盛者必衰の理をあらわす(じょうしゃひっすいの ことわりをあらわす)

 おごれる人も久しからず(おごれるものも ひさしからず)

 ただ春の夜の夢のごとし(ただはるのよの ゆめのごとし)

 たけき者もついには滅びぬ(たけきものも ついにはほろびぬ)

 偏に風の前の塵に同じ (ひとえにかぜのまえの ちりにおなじ)】

【『平家物語』(へいけものがたり)は、鎌倉時代に成立したと思われる、平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。保元の乱・平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。和漢混淆文で書かれた代表的作品であり、平易で流麗な名文として知られ、「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しをはじめとして、広く人口に膾炙している】(ウィキペディア、平家物語)。

高校生のときに覚えさせられたので、いまだに「おごれる人も久しからず」という言葉と共に出てきます。たぶんわりとわたしはこの言葉が好きなのでしょう。わたしもついつい心の中に高慢な思いが出てくることがあります。「おごれる人も久しからず」ということですので、やはり謙虚に歩んでいきたいと思います。

茨木保さんの『まんが医学の歴史』(医学書院)を読んでいました。医学の歴史については、わたしは知らないことが多く、ああ、そんなことがあったのかと感心させられながら読みました。医学者にもいろいろな人がいて、高慢な人がいたり、強欲な人もいたり、嘘つきがいたりします。また、あまり周りの人の評価とかに関心がなく、ぼーっとした人がいたります。

近代外科学の開祖と言われるアンブロアズ・パレという人は、謙虚な人だったと言われています。16世紀の人ですが、当時、拳銃で撃たれると、火薬の毒に汚染されないように、傷口を煮えたぎった油で消毒をしたり、焼きゴテで焼いたりするということが行なわれたそうです。いま考えると恐ろしいことだと思いますが、それが当時の医学的治療でした。あるときペレは油をきらしてしまいます。しかしけが人はどんどんと運び込まれてきます。ペレは卵の黄身と油を混ぜて軟膏をつくり、それを煮えたぎった油の代わりにつかってみました。けが人たちの傷をやさしく包帯で包みました。けが人達はいままでの治療では考えられないほどに回復しました。その後、治療のために煮え油が使われることはなくなっていくのです。

【ペレは、医学史家から「易しい外科医(げかい)」と称されている。その理由には2つある。1つは、彼が煮え油や焼きゴテという根拠のない残酷な処置を否定し、「侵襲(しんしゅう)を最低限におさえる」という、外科学の鉄則を確立したこと。もう1つは、彼が1人ひとりの患者に対しても、常に愛護的な精神を忘れなかったことだ】(P.52)。ということです。

パレが残した有名な言葉は「我、包帯し、神、これを癒やしたもう」という言葉です。「よくなりましたね」「はい、先生のおかげです」「いえ、私は包帯をしただけです。あなたを治したのは神さまですよ」。そのようにパレは患者に接していたようです。「我、包帯し、神、これを癒やしたもう」。なんとも謙虚な言葉でいいなあと思います。

今日の聖書の箇所は「目を覚ましている僕」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書12章35−40節にはこうあります。【「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」】。

「主人が婚宴から帰ってくる」というのは、世の終わり・終末のたとえということです。イエスさまの時代はいまの私たちの時代よりも、世の終わり・終末が近いというふうに考えられていました。「もうすぐ世の終わり・終末が来る」ということが、一般的に信じられていたということです。それでもなかなか終末が来ないですから、「ちょっと遅いなあ」というふうに感じる人たちもいて、ちょっとだらけているという雰囲気もありました。

私たちは携帯電話の時代に生きていますから、「いま地下鉄の国際会館駅、もうすぐつきます」というように簡単に伝えることができますが、イエスさまの時代はそういうわけにはいかないのです。主人が婚宴から突然帰ってくるように、終末はやってくると考えられていました。世の終わり・終末はいきなりやってくるのです。ですから「終末はなかなか来ないなあ」などと思ってだらけていると、大変な事になるわけです。ですからいつも目を覚ましていなければならないのです。【腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ】というのは、そういうことです。いつもちゃんとして、主人が帰ってくるのを待っていることができれば、主人のほうもそれ相応の対応をしてくれる。【主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる】。だから世の終わり・終末に備えて、しっかりとしていなさいということです。

ルカによる福音書12章41−44節にはこうあります。【そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない】。

イエスさまが世の終わり・終末の話をされたときに、使徒ペトロは「このたとえ話は私たち使徒に対して言われていることなのですか、それとも一般的な人々に対して言われていることなのですか」と質問をしました。イエスさまはその問いに直接答えられるということはありませんでした。イエスさまが話されたたとえからすると、まあふつうに考えて一般的な人々に対して語られている教えのように思えます。しかしイエスさまは使徒ペトロの質問に続けて、忠実で賢い管理人の話をしておられます。この忠実で賢い管理人というのは、ペトロたち使徒であるということでしょう。【主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである】というように、神さまから使徒として託された業をちゃんとするということが大切だと、イエスさまは言われます。

ルカによる福音書12章45−48節にはこうあります。【しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」】。

世の終わり・終末のときに備えてちゃんとしている忠実で賢い管理者である僕は、神さまから大きな祝福を受けるわけですが、どうではなくいいかげんなことをしている不忠実な管理者は、神さまから罰せられるのです。神さまは管理者である僕にいろいろなことをまかせているわけです。ある意味信頼されているのです。だからその信頼に応えなければならないのです。しかし信頼に応えることをしないで、いいかげんなことをしていると、あとで罰せられるというのです。

神さまから託された管理者として、してはいけないことというのは、「下男や女中を殴ったりしてはいけない」ということです。管理者は神さまから託されて、下男や女中が仕事をするような体制を整えるのが、その役割であるわけです。しかしそうしたことを忘れて、自分が女中の主人であるかのようになって、下男や女中に対して暴力をふるったり、虐げたりする。そうしたことは許されないことなのです。また終末がくるわけですから、ちゃんとしていなければならないので、贅沢三昧をしていたり、よっぱらってしまっていてはいけないのです。

「下男や女中を殴ったりしてはいけない」というのは、結局、「謙虚になりなさい」ということなのです。力で人を支配しようとするのは、それは神さまの目からすると、それは異常なことなのです。自分のことを異常に高いところに置くからこそ、力で人を支配することができるのです。暴力的であったり、力で人を支配しようとすることを、神さまは強く戒められ、「謙虚になりなさい」と言われるのです。

そしてイエスさまは弟子たちに言われました。【すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される】。あなたたちは使徒として多くの責任を求められ、多くのことを任されているのだから、多くのことが要求されるのだ。なかなかきびしいことが言われています。神さまから選ばれて、その役割を与えられているのだから、謙虚になって、任されていることに誠実に取り組みなさい。世の終わり・終末は必ず来るから、それにしっかりと備えなさい。ぼんやりとしているのではなく、神さまから託されていることを行ないなさい。そんなふうにイエスさまは弟子たちに言われました。

【すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される】。世の中の社長さんたちはたぶんこの聖書の箇所を読まれると、「まさにそのとおりだ」と思われるのではないかと思います。座右の銘にしているというクリスチャンの社長さんなども多いのではないかなあと思います。「やっぱり社長さんは大変だなあ。そこいくと私たちは気楽なもんだ」と、私たちは思いがちですが、そういうことでもないわけです。

私たちもまた神さまに多くのことを任されているのです。使徒ペトロはイエスさまに【「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」】と尋ねました。使徒ペトロは十二弟子として、一般的な人々からすると、先にイエスさまを知り、イエスさまに弟子として召された人でした。使徒ペトロはだれよりも先にイエスさまに弟子として召された者の責任があるのです。そしてそういう意味において、私たちもまた先にクリスチャンになった者としての大きな責任があるのです。私たちは先に救われた者として、宣べ伝えるという仕事を神さまから託されています。私たちは伝えられた者として、伝える者になるということを、神さまから託されています。【すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される】。私たちも神さまからたくさん愛された者として、神さまに多くのことを託されています。

神さまはイエス・キリストの十字架のあがないによって、私たちの罪をゆるしてくださいました。そして私たちはクリスチャンとして、永遠の命を受け継ぐ者として、神さまから招かれています。このことはとてもすばらしいことですが、それは私たちがいばることではありません。私たちはときどき勘違いをして、自分がクリスチャンであることを誇りに思うがゆえに、いいばってしまうことがあります。「まだ救われていない人たちに、神さまのことを教えてやる」というような感じで、キリスト教の福音を宣べ伝えていくというようなときがありますが、それはちょっと違うだろうと思います。私たちは救われた喜びを宣べ伝えているわけですから、いばっていてはその喜びは伝わらないのです。

讃美歌1編の11番に「あめつちにまさる」という讃美歌があります。【1.あめつちにまさる かみの御名を ほむるにに足るべき こころもがな。2.おごらず、てらわず へりくだりて、わが主のみくらと ならせたまえ。(3.生くるも死ぬるも ただ主をおもう ゆるがぬこころを あたえたまえ。4.こころをきよめて 愛をみたし、わが主のみすがた 成らせたまえ。5.みめぐみゆたけき 主よ、きたりて、こころに御名をば しるしたまえ)】。もうわたしの年代の人であっても、なかなか意味のわからない讃美歌だなあと思います。

讃美歌21では492番です。讃美歌1編の11番の「おごらず、てらわず へりくだりて わが主のみくらと ならせたまえ」というのは、なかなか印象的な歌詞です。讃美歌492番では「心を低くし、御前に伏す」です。「てらう」というのは「ひけらかす」ということです。(自分の学識・才能・行為などを誇って、言葉や行動にちらつかせる)。「みくら」というのは「大切なものを納めているところ、またそこに勤める下級役人(僕)」ということです。「おごらず、てらわず へりくだりて」というのが、クリスチャンの良き姿勢であるということです。

イエスさまは【「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい】と言われました。世の終わり・終末の話というと、私たちはなんだかちょっと遠くの話というような気になってしまいがちです。しかし世の終わり・終末がいつくるか、それは昔の人がそうであったように、私たちにもわからないことです。すぐに来るかも知れないし、またなかなか来ないかも知れません。私たちは備えて待つしかありません。備えて待つと言っても、無理して待つことは出来ませんから、ふつうに待つのです。「おごらず、てらわず へりくだりて」、神さまの僕としてふつうに待つのです。

私たちクリスチャンは、「終末を見つめて、きちんと生きる」ということが大切です。周りの人々から誉めたたえられるような生き方でなくても、神さまとの関係を正しく保って、きちんと生きるのです。私たちは罪人ですから、正しく生きることはできないかも知れません。なんどもなんども神さまを裏切るようなことをしてしまうかも知れません。それでもやはり神さまの前に立つ一人の罪人として、きちんと生きるのです。世の終わり・終末に、神さまの前に立つということを、心に留めて、きちんと生きるのです。できなかったことはできなかったこととして、神さまにご報告し、だめだったことはだめだったと、神さまにご報告する。そして神さまに守られ、神さまに愛されて、人生を歩むことができた幸いを、心から感謝したいと思います。

「おごらず、てらわず へりくだりて」、クリスチャンとしての良き人生を、これからも歩みましょう。




(2023年8月13日平安教会朝礼拝)

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