2023年9月8日金曜日

9月3日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

「幸いなあなた。こちらへどうぞ」

 

聖書箇所 ルカ14:7-14。402/518。

日時場所 2023年9月3日平安教会朝礼拝式   


【もしリーマン・ブラザーズがリーマン・シスターズだったらなら、あのような形での金融危機は起こらなかったはずだ、と当時のフランスの財務大臣を務めていたクリスティーヌ・ラガルド[もと国際通貨基金(IMF)専務理事。2021年現在、欧州中央銀行総裁]は言った】(P.9)。

カトリーン・マルサルが書いた『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』(河出書房新社)にそのように書かれてあります。この『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』の始めには「経済と女性の話をしよう」とあります。経済理論や社会システムが、いかに女性を外に置くことによって作られてきたのかということについて書かれてあります。

アダム・スミスは『国富論』を書いた経済学者です。経済学の父と言われます。【アダム・スミスは生涯独身だった。人生のほとんどの期間を母親と一緒に暮らした。母親が家のことをやり、いとこがお金のやりくりをした。アダム・スミスがスコットランド関税委員に任命されると、母親も一緒にエディンバラへ移り住んだ。母親は死ぬまで息子の世話をし続けた。そこにアダム・スミスが語らなかった食事の一面がある。肉屋やパン屋や酒屋が仕事をするためには、その妻や母親や姉妹が来る日も来る日も子どもの面倒を見たり、家を掃除したり、食事をつくったり、服を洗濯したり、涙を拭いたり、隣人と口論したりしなければならなかった。経済学が語る市場というものは、つねにもうひとつの、あまり語られない経済の上に成り立ってきた。

毎朝15キロの道のりを歩いて、家族のために薪(たきぎ)を集めてくる11歳の少女がいる。彼女の労働は経済発展に欠かせないものだが、国の統計には記録されていない。なかったことにされるのだ。国の経済活動の総量を測るGDP(国内総生産)は、この少女の労働をカウントしない。ほかにも子どもを産むこと、育てること、庭に花や野菜を植えること、家族のために食事をつくること、家で飼っている牛のミルクを搾ること、親戚のために服を縫うこと、アダム・スミスが『国富論』を執筆できるように身のまわりの世話をすること、それらはすべて経済から無視される。一般的な経済学の定義によると、そうした労働は「生産活動」にあたらない。なにも生み出さないことにされてしまう。見えざる手の届かないところに、見えない性がある。・・・。アダム・スミスが答えを見つけたのは、経済の半分の面でしかない。彼が食事にありつけたのは、商売人が利益を求めて取引きしたためだけではない。アダム・スミスが食事にありつけたのは、母親が毎日せっせと彼のために食事を用意していたからだ】(P.26-29)。

1990年代にフェミニスト経済学が登場し、経済学においても、いままでの学問体系のなかで抜け落ちていたことに対する問い直しがなされています。この『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』を訳した、高橋璃子さんは「訳者あとがき」にこう記しています。【フェミニスト経済学は、市場経済の外にあるものを含めて、社会全体がどう維持・運営されるかを考えます。私たちが生活できるのは、そして食事を食べられるのは、アダム・スミスのいう「自己利益の追求」のためだけではありません。家事労働があり、人とのふれあいがあり、ケアがあってはじめて、社会は機能するのです。経済人が目を背けてきた「依存」や「分配」にここで光が当てられます】(P.267)。

イエスさまも一般的に社会で考えられていることとは違うことを言われます。人は自分の都合とか、自分の利益ということで物事を考えるということがあります。しかしイエスさまは「神さまはどう思われるかな」という視点で、物事を考えられて、そして私たちに生きる道を教えてくださいます。

今日の聖書の箇所は「客と招待する者への教訓」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書14章7−11節にはこうあります。【イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」】。

わたしは大学生の頃、茶道のサークルに入っていました。ときどきお茶席に行くことがありましたが、イエスさまが言われているような感じのことに出くわすことがありました。お茶席では正客という、立ててもらったお茶を一番に飲む人の席があります。正客がそのお茶席を整えるというような役割を担わなければならないので、なかなか大変なのです。やはり正客にふさわしいお客が正客にならなければならないわけです。だいたいみんな正客になるのを断りつつ、まあ仕方がないなあと思って、みんなに勧められて、だれかが正客になるわけです。しかし正客の席についた人のあとから、もっと正客にふさわしい人が現れたりして、その人に席を譲るというようなことが行われたりします。

イエスさまの時代の婚宴でもそうしたことが行われていたのでしょう。お茶席は「わたしが正客になる」という高慢な思いで正客になるというわけではないでしょうが、でも人は自分が偉い人として評価されたいというような思いもあります。ですから婚宴で上席につきたがるというようなこともふつうにあったのだろうと思います。「ははは、わたしが上席につくことができた」と思っても、もっと偉い人が後から現れて、末席につくようなことになることがあるから、あらかじめ末席の方に座りなさい。そうすれば招いた人が来て、「もっと上席に来てください」と言ってくれるから、そのほうがよいだろうと、イエスさまは言われました。

ルカによる福音書14章12−14節にはこうあります。【また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」】。

イエスさまが婚宴に招いてくれた人に言われました。こうした婚宴や昼食会や夕食会などを催すときには、友人や兄弟、親戚や近所の金持ちを招いてはならない。その人たちはあなたを招いてお返しをしてくれるだろう。だから宴会を行なうときは、貧しい人や体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招いたほうがよい。その人たちはあなたにお返しをするということができない。でもあなたは幸いだ。神さまがあなたに報いてくださる。世の終わり・終末のときに、正しい者たちが復活するときに、あなたも一緒に復活することができるだろう。

イエスさまは話された「客と招待する者への教訓」という話は、まあそんな大した話でもないわけです。前半の話など、ちょっと処世術ぽい話で、「現代マナー講座」というような話で出てきそうな話です。「これくらいのこと、イエスさまに言われなくても、わたしでも思いつく」というふうに思われた方もおられるのではないかと思います。

食べられるものが同じであれば、まあ上席だろうが末席だろうがどちらでも良いというふうに思う、一般庶民と違って、メンツを重んじる人たちもいるわけです。そうした人たちにとっては、やはり上席・末席の問題はなかなか大きな問題であったのでしょう。処世術ぽい話はともかくとして、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」ということに気をつける必要があったのだと思います。

イエスさまの時代、お金持ちのほうが神の国に入り安いというふうに考えられていました。マルコによる福音書10章23ー26節にはこうあります。新約聖書の82頁にあります。【イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。】。

イエスさまが「金持ちが神の国に入るのは、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」と言われると、弟子たちはとても驚きます。金持ちが救われないのなら、だれが救われるというのだろうかと、弟子たちは互いに言うわけです。イエスさまの時代はお金持ちのほうがたくさん献金をすることができたりするので、貧しい人よりもお金持ちのほうが、神の国に入りやすいと考えられていたわけです。しかしイエスさまはそうした考えを否定されました。人はお金持ちのほうが、神の国に入りやすいと思っているけれども、神さまはそう思っておられないと、イエスさまは言われるのです。

そして人がどのように見ているのかということではなく、「神さまがどのようにご覧になっておられるのか」ということを大切にしなさいと、イエスさまは言われるのです。私たちはこの世のことだけに目が向きがちです。もちろん人間の世界で、「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」というような出来事にも出くわします。イエスさまが婚宴の食事の席の話をされたようなことです。あまりに高ぶっている人は結局、人々から尊敬されることはありません。人間の世界でもそうですけれども、それ以上に「神さまがどのようにご覧になっておられるのか」ということを考えた時に、高ぶっている人は絶望的です。

謙虚な思いになって、いろいろなことを見直してみるということは大切なことです。「わたしはわたしのちからで、だれにも迷惑をかけずにいきているのだ」と思いながら生きているわけですが、しかしやはりそうでもないわけです。経済学の父であるアダム・スミスがそうであったように、アダム・スミスもお母さんの助けによって生きていました。『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』にあるとおりです。いろいろな人の支えによって、私たちは生きています。

イエスさまは婚宴を催すことのできる幸せな人たちに、人はわかちあって生きていくことが大切だと言われました。婚宴を催すことができるというのは、とても幸いです。その幸いをみんなでわかちあっていくことできれば、それはもっと幸いなことだと、イエスさまは言われます。宴会を催すときは、貧しい人、体の不自由な人を招きなさい。その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。神さまがあなたにお返しをしてくださる。この世のことばかりを見るのではなく、神さまがどのように考えておられるのかということを考えなさい。どうしたら神さまが喜んでくださるか。そのことに思いをはせなさい。

私たちはついつい、この世のことだけに目がいってしまいます。しかし私たちによきものを備えてくださるのは、神さまです。イエスさまは「あなたは幸いだ。こちらにどうぞ」と、私たちに良き席を整えてくださっています。この世のことだけに目がいってしまい、上席と言われるその席に居座っていると、とんでもないことになるから、こちらにどうぞ。あなたの謙虚でやさしい振る舞いを、神さまはみておられるから、こちらにどうぞ。「あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」。

神さまの愛のうちを、謙虚に歩んでいきましょう。神さまは私たちを祝福し、私たちに良きものを備えてくださいます。



(2023年9月3日平安教会朝礼拝式・CS振起日礼拝)

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