「だめな人だけど、でもいいよそれで」
聖書箇所 ルカ14:25-35 137 434 470
日時場所 2023年9月10日平安教会朝礼拝
「いい人」とか「悪い人」という言葉は、男女関係・恋愛関係などの場合、微妙な言葉として使われます。ふつうであれば、善し悪しであるわけですから、その言葉のとおりであるはずです。「あの人いい人よ」とか「彼は悪い人だ」とか。しかし男女関係・恋愛関係などの場合が「あの人、いい人だけど・・・」とか「悪い人♡」とか、いい人だけどのあとに・・・があったり、悪い人の後に♡マークが使われるような感じで、いい人・悪い人という言葉が使われるわけです。「いい人だけど・・・」って、いい人だったらええやんと思いますが、人間、そういうわけでもないわけです。すべて合理的な判断で人間は生きているわけではありません。
イスラエルの王様で、ダビデ王という人がいます。ダビデ王には何人かの子どもがいますが、その一人がアブサロムという人です。アブサロムはダビデ王の子どもですが、ダビデ王に反旗をひるがえし、ダビデ王を殺そうとしました。旧約聖書のサムエル記下15章あたりに書かれてある話です。旧約聖書の503頁です。ダビデ王はアブサロムの兵によって都落ちすることになります。しかしのちにダビデ王は形勢を逆転させて、アブサロムの兵をやっつけ、アブサロムは逃げる途中に木に宙吊りになり、ダビデ王の部下のヨアブによって殺されます。ダビデ王はアブサロムによって大変な目に合わされたわけですが、自分の兵にアブサロムを殺すことのないようにと言っていました。ダビデ王は息子であるアブサロムのことを大切に思っていました。どんな目に合わされようとも、しかしアブサロムはわたしの愛する息子だと思っていました。
アブサロムが死んだということを聞いて、ダビデ王は嘆くのです。ダビデ王は家来に「若者アブサロムは無事か」と尋ねます。しかし家来は「主君、王の敵、あなたに危害を与えようと逆らって立った者はことごとく、あの若者のようになりますように。」と答えます。それを聞いて、アブサロムの死を知ったダビデ王は、「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ。」と嘆き悲しみます。
ダビデ王はアブサロムの死を嘆き続けます。それを見た部下のヨアブはダビデ王を諭すのです。【「王は今日、王のお命、王子、王女たちの命、王妃、側女たちの命を救ったあなたの家臣全員の顔を恥にさらされました。あなたを憎む者を愛し、あなたを愛する者を憎まれるのですか。わたしは今日、将軍も兵士もあなたにとっては無に等しいと知らされました。この日、アブサロムが生きていて、我々全員が死んでいたら、あなたの目に正しいと映ったのでしょう。】(サムエル記下19章6−7節)。
ダビデ王がまったくの私人であったのであれば、息子のために涙を流しても、それはそれで許されることであったと思います。しかしダビデは王様でした。彼は王としての合理的な振る舞いをしなければなりません。とはいうものの、ダビデ王は息子アブサロムのことを愛していました。それはもう合理的な判断というよりも、ダビデ王のこころからわきでる気持ちとしかいいようがないのです。自分を殺そうとした息子であるわけですが、それでもダビデ王はアブサロムのことを愛さずにはいられないのです。ダビデ王のしていることはとても愚かなことであるのですが、しかしそれはダビデ王自身にとっては、どうしようもないことなのでした。
このダビデ王のアブサロムに対する気持ちは、私たちに対する神さまの気持ちに似ています。私たち人間は心の中に邪な思いをもったり、自分勝手な気持ちをもっています。傲り高ぶったり、また自分のことをだめな人間だと思い込んでみたり。互いに傷つけあったり、互いにうらやましがったり。神さまの前に立つには、私たち人間は罪深い者です。神さまに愛されるのに私たちはふさわしくないわけですが、しかし神さまは私たちを愛してくださっています。私たちを愛して、私たちを憐れみ、私たちを救うために御子であるイエス・キリストを私たちのところに送ってくださいました。神さまの振る舞いはどう考えても合理的なものではありません。神さまはろくでもない私たちを救うために、自分の大切な御子イエス・キリストを十字架につけられたのです。しかし神さまはだめな私たちを愛さずにはいられないのです。
今日の新約聖書の箇所は「弟子の条件」「塩気のなくなった塩」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書14章25−27節にはこうあります。【大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない】。
初期のクリスチャンはクリスチャンであるがゆえに迫害にあったりしました。ですからまさにイエスさまに付き従っていくということは、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹から恨まれることや、自分の命を危険にさらすことでありました。イエスさまは犯罪人として十字架につけられました。十字架という刑罰は極悪人が受ける刑罰でした。またローマ市民権をもつ人には適応されない残酷な刑罰でした。十字架につけられたということは、どうしようもない人間ということです。そのどうしようもな悪い人についていくということですから、まさに自分の十字架を背負ってついていくということでした。そうでなければイエスさまの弟子ではあり得なかったのです。
ルカによる福音書14章28−30節にはこうあります。【あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう】。
これはイエスさまについていく、クリスチャンになったら途中でやめないということです。ときどき途中で建てるのをやめられた建築物というのがあります。いま中国では不動産市場が悪化して、工事が止まっているマンションがたくさんあるというようなニュースを、最近、聞きました。天津市に建設中の巨大マンションも、工事が止まっているようです。わたしが同志社大学の神学部にいた40年ほど前に、琵琶湖半に途中までしかたっていないホテルの建築物がありました。琵琶湖畔幽霊ホテルといわれたりしていました。費用がなくなったら建てることができなくなるわけですから、十分に考えて建てなければならないわけです。腰をすえてじっくりと考えなければならない。イエスさまについていくというのも、腰をすえて、じっくりと考えて、ちゃんとイエスさまに生涯つきしたがっていくことができるようにする。一度、イエスさまについていくと決心をしたら、ちゅうと半端な歩みではなく、生涯イエスさまに付き従っていく覚悟が必要だということです。
ルカによる福音書14章31−33節にはこうあります。【また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」】。
これも先ほどの「完成できない塔の話」とよく似ています。戦争をするときはちゃんと戦争をして勝つことができるかどうかということを判断して戦争をしなさい、勝つことができないのであれば、使節を送って和平をしなさいということです。日本も昔、戦争をしましたが、いまから考えると勝てるように思えないのに、戦争をしています。なかなかむつかしいのでしょうが、しかしはやり腰をすえてちゃんと考えてから戦争をしなければならなかったわけです。戦争をするには覚悟が必要なのです。勝てなければ殺されてしまいますし、また和平を結ぶにしても王は自分の命を差しだすということや、すべてのものを相手に明け渡してしまわなければならないかも知れません。そのようにイエスさまに付き従うということは、すべての持ち物を失う覚悟が必要だということです。
ルカによる福音書14章34−35節にはこうあります。【「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」】。私たちは「塩から塩気がなくなる」というのは、どうしてだろうと思いますが、当時の塩は製塩技術が未熟ですから、純粋な塩ではなく塩化化合物のようなものもあり、塩気がなくなるというようなことが起こりました。塩気がなくなると、もうその塩は捨てるしかなくなるわけです。イエスさまに従うということも、しっかりとした気持ちがなくなって、いい加減な気持ちだけになってしまったら、それはもう惰性になってしまい、信仰生活というものではないということです。
イエスさまは「弟子の条件」「塩気のなくなった塩」というたとえの中で、なかなかきびしいことを言われます。イエスさまの弟子になるためには、 1)自分の十字架を背負ってついてくる。2)途中でやめない。3)自分の持ち物を捨てる。そんなことを言われると、ちょっと「わたしには無理かも」というふうに思えます。とくにキリスト教に出会って、いまから洗礼を受けてクリスチャンになろうとしておられる方など、「弟子の条件」などと言われると、「これは無理だわ」と思います。なかなかイエスさまの弟子になる条件は高いのです。どうみても自分がこの条件を満たすことはできそうもありません。それではイエスさまのお弟子さんになることはできないのか。クリスチャンになることはできないのか。
そのように考えてみると、おかしなことに気がつきます。どう考えてもこの「弟子の条件」を満たしていると思えない人が、実際にクリスチャンになっているからです。周りをしげしげと見回してみて、「どう考えても、イエスさまが言われる条件を満たしているとは思えない」と思います。でも実際にクリスチャンになっています。なんかおかしいわけです。「おかしい???」。そして気づくわけです。「たぶんクリスチャンになるには裏口があるに違いない。じゃないと、この人がクリスチャンになることができるわけがないじゃないか」。
まさにそうです。わたしは裏口から入ってクリスチャンになりました。このイエスさまが言われた弟子の条件を満たしたからクリスチャンになったわけではありません。というか、だいたい多くのクリスチャンはイエスさまが言われた弟子の条件を満たして、クリスチャンになるわけではありません。イエスさまの言われた弟子の条件を満たすことができないからこそ、クリスチャンになるのです。自分はイエスさまが言われることはできないだめな人間だ。しかしだからこそ、イエスさまに付き従いたいと思うのです。イエスさまの言われる弟子の条件を満たすことができるほど、りっぱな人間であれば、別にイエスさまに付き従おうとは思わないのです。だめな人間だからこそ、イエスさまの言われることは到底できないけれども、イエスさまに付き従いたいのです。
使徒パウロは「人はイエス・キリストを信じる信仰によって義とされる」と言いました。ローマの信徒への手紙3章21節以下に、「信仰による義」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の277頁です。ローマの信徒への手紙3章21ー26節にはこうあります。【ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。】
人は何かできるから義とされるのではありません。何もできたくても、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされるのです。何もできないけれども、神さまの愛と憐れみによって、私たちは罪赦され、そしてクリスチャンになるのです。この「人はイエス・キリストを信じる信仰によって義とされる」というのが、いわばクリスチャンになる裏口です。しかしこの裏口こそが、ある意味、表口であるのです。
イエスさまのお弟子さんたちはすべてを捨ててイエスさまに付き従いました。その点においては、イエスさまが言われた弟子の条件に当てはまるところもあります。しかしイエスさまが十字架につけられたとき、弟子たちはみんなイエスさまから逃げ出してしまい、イエスさまを裏切ってしまいました。イエスさまの弟子たちはイエスさまを裏切るだめな人間でした。しかしだからこそ、弟子たちにはイエスさまに惹かれ、イエスさまに付き従おうとしたのです。
そして神さまはだめな人間のために、イエス・キリストを私たちの世に送ってくださったのです。神さまは私たちを愛してくださるのです。それは合理的な考えではないでしょう。愚かでわがままな私たちを神さまは愛されるのです。イエスさまの言われることに聞き従うことのできない弱い私たちを神さまは愛してくださるのです。神さまの前にふさわしくない私たちを神さまは愛してくださるのです。
そして弱さや高慢さのゆえに罪を犯す私たちのために、イエスさまは十字架についてくださり、私たちの罪をあがなってくださったのです。イエスさまは「自分の十字架を背負ってついてきなさい」「途中でやめてはだめです」「自分の持ち物を捨てて、わたしについてきなさい」と厳しいことを言われます。でも結局、イエスさまは私たちに言われます。「だめな人だけど、でもいいよそれで」「わたしのところにやってきなさい」。
イエスさまの招きに応えましょう。イエス・キリストこそわたしの救い主と告白し、そして神さまの深い愛によって祝福され、こころ平安に歩んでいきましょう。
(2023年9月10日平安教会朝礼拝)
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