「ごめんね。いいよ。謝罪と赦し」
聖書箇所 ルカ17:1-10。211/445。
日時場所 2023年10月8日平安教会朝礼拝式・神学校日礼拝
今日は神学校日です。神学校・神学部の働きを覚えてお祈りいたします。神学校・神学部で学ぶ神学生、事務職の方々、教師の方々の上に、神さまの恵みが豊かにありますように。私たちの教会には、村上みか牧師(同志社大学神学部教授)が教会員としてお働きくださっています。奏楽のご奉仕をしてくださっています。
わたしも同志社大学の神学部で学びました。同志社大学の神学部はとても良いところでした。ぜひ志のある方は、同志社大学の神学部に入って、神学を学んでいただきたいなあと思います。もちろん同志社大学の神学部に入って、牧師になる人たちがたくさん出てきてほしいと思います。しかしそれだけでなく神学を学ぶことによって、いろいろな事柄について洞察力が深まることが、その人の人生にとって、わたしはとても良いことだと思います。
テレビで最近、謝罪会見が行われます。いま話題の謝罪意見はジャニーズ事務所です。創業者であるジャニー喜多川が未成年に対する性的虐待を行なっていたことがわかりました。そのためにジャニーズ事務所は廃業することになります。先日の謝罪会見では、謝罪会見を取り仕切っている企業が、「この記者には当てないようにしよう」というリストを作っていたということが報じられていました。あんまりまじめに謝罪をしようという気持ちがないのだろうなあという印象を振りまくことになり、企業体としても不安のつきまとう謝罪会見となりました。
ジャニーズ事務所は未成年の育成を行なう部門のある会社でありながら、創業者が未成年に対する性的虐待を多くの人たちに対して、長年行なっていたということですから、まあそれはほかのことと比較にならないくらい罪深い犯罪です。しかしジャニーズ事務所のほうが、あまりそうした意識がなかったのだろうと思います。いいかげんな対応をし続けてきました。たぶんジャニーズ事務所は、政治の世界などでいろいろな不祥事が起こっているけれども、いいかげんな対応でお茶を濁すようなことで乗り切ることができているから、私たちもそうした対応で良いのではないかと思っていたのだと思います。たしかに旧統一協会との関係についても、うやむやなことですませているような政治家もたくさんおられます。私たち日本の社会が、あまりにもいいかげんなことを赦してきたので、ジャニーズ事務所のような対応が生まれてきてしまうのだと思います。それはあまり良いことではないと思います。
「うまく立ち回ってごまかすことができればそれで良いのではないか」というような雰囲気がどんどんと拡がっていくというのは、社会にとって良いことではありません。謝罪会見が混乱することのないように、「この記者には当てないようにしよう」リストをつくって、その場しのぎの会見を行えばよいというのは、やはり良いことではありません。やはり悪かったことをしっかりと謝罪し、誠実に対応していくということを大切にする社会であったほしいと思います。ウソやごまかしが幅を利かすようになると、私たちの社会はとめどもなく衰退していくだろうと思います。
今日の聖書の箇所は「赦し、信仰、奉仕」という表題のついた聖書の箇所です。赦し、信仰、奉仕ということですので、書かれてあることは、そうしたことであります。ですから個別のことが書かれてあるわけですが、しかし赦し、信仰、奉仕ということを通して、クリスチャンとしての生き方、どのように神さまに向き合いつつ、私たちが私たちの人生を歩んでいくのかということが書かれてあります。
ルカによる福音書17章1−4節にはこうあります。【イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」】。
つまずきというのは、元来、獣などを捕らえるときに罠のことをです。ですから、つまずきというのは人を罠に陥れることを意味します。「つまずきは避けられない」というのは、それが良いことであるというのではなく、そういうことは悲しいけれども起こってしまうということです。でもそれを行なうことはしてはいけないことなのです。ですからつまずきをもたらす者は不幸であるのです。そうした人は必ず神さまによって罰せられ、首にひき臼をかけられて、海の中に投げ込まれるよりもひどい目にあうことになる。弱い立場の人を陥れるというようなことは、絶対にしてはならないことなのだと、イエスさまは言われます。
罪を犯すというようなことをしてしまうことが、人にはあるわけです。もし仲間が罪を犯したなら、「それはしてはいけないことなのだ」と戒めなさい。それでその人が悔い改めるのであれば、赦してあげなさい。一日に七回、あなたに対して罪を犯しても、七回、悔い改めると言って、あなたに赦しを乞うのであれば、赦してあげなさい。七という数字は、ユダヤ教の中では特別な数字です。ですから単なる七回という数字ということではなくて、「必ず」とか「何があろうと」というようなことを意味しています。あなたのところに赦しを乞いに来たならば、どんなことがあろうと、必ず赦してあげなさいということです。
「赦し」ということのあとは、「信仰」ということについて、イエスさまは言われます。ルカによる福音書17章5−6節にはこうあります。【使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう】。
イエスさまの弟子たちは、イエスさまに「私たちの信仰を増やしてほしい」と願いました。イエスさまから「信仰の薄い者たちよ」と叱られることが、弟子たちはときどきありました。弟子たちも自分たちは信仰が薄いということを自覚していたのだと思います。それで「私たちの信仰を増やしてほしい」と願うのです。わたしも信仰の薄い者ですから、弟子たちの気持ちはよくわかりません。もう少し自分に信仰があったら、イエスさまを悲しませるようなことはないのではないかと思います。しかしイエスさまは「私たちの信仰を増やしてほしい」と言う弟子たちに対して、「あなたたちの信仰はからし種一粒ほどの小さいもので大丈夫だ」と言われます。からし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木に「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても言うことを聞くと、イエスさまは言われます。
これはいったいどういうことなのだろうと思います。桑の木が言うことを聞くということはないでしょうから、弟子たちにはからし種一粒ほどの信仰もないのかということですが、そもそもイエスさまは弟子たちが信仰があるかどうかということを、あまり問題にしておられないのだと思います。私たち人間の側に、信仰があるとかないとか、信仰が深いとか信仰が薄いとか、そういうことはある意味、あまり重要なことではないと、イエスさまは言われます。「あなたたちにはからし種一粒ほどの信仰がないのか」と、イエスさまが弟子たちを叱っておられるということではなく、そんな薄い信仰しかない、だめな弟子たち、そして私たちを愛してくださる神さまがおられるということがたいせつなのです。
ルカによる福音書17章7−10節にはこうあります。【あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」】。
この箇所は「奉仕」について書いてあります。僕が畑から帰ってきた時に、主人が「すぐに来て食事の席に着きなさい」とは言わない。「わたしの食事を用意してくれ。そしてわたしの食事の間は給仕をし、その後でおまえは夕食を食べなさい」と言うだろう。主人が命令したことを僕が行なったからと言って、主人が僕に感謝することはない。あなたたちも同じように、神さまから命じられていることを行なうことができたら、「私たちは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです」と言いなさい。私たちがこんなすばらしいことをしたというように、自分のことを誇るのではなく、謙虚に神さまから任されている業を行なう者でありなさい。自分は神さまに仕える僕であるということを、しっかりとこころに留めて、謙虚に生きていきなさい。そのようにイエスさまは言われました。
私たちはいつのまにか自分の力で生きているような気持ちになってしまいます。自分の力で生きている気持ちになるので、人に対しても厳しくなります。「わたしはこんなにしっかりと生きているのに、あの人はどうして失敗したり、罪を犯したりするのだ。怠け者だからだ。悪い奴だからだ」。そうした思いになり、人の失敗や罪を赦すことができないという思いが強くなります。それで自分の力で生きていると思って高慢になっている私たちに、弱い立場の人をつまずかせるようなことをしてはいけない。またあなたに対して罪を犯した人を赦してあげなさいと、イエスさまは言われるのです。
また自分の力で生きていると思っている私たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と願うときに、「あなたの信仰が深いとか、信仰熱心だということが大切なのではなく、信仰の弱いあなたのことを愛してくださっている神さまの憐れみに気づくことが大切なのだと、イエスさまは言われたのです。
そして神さまが私たちに託してくださった能力を生かして、神さまの前に立つ者として、仕える生き方をしなさいと、イエスさまは私たちに言われました。高慢な思いになるのではなく、あなたに託された良き業を誠実に行なっていくような生き方でありなさいと、イエスさまは言われました。
イエスさまは私たちに「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」と言われました。「赦してやりなさい」。赦すということはなかなかむつかしいことです。私たちはそんなに心が広くないですが、そんな「赦してやりなさい」と言われても、そう簡単に赦すことはできないと思います。まあじっさいにできないわけです。私たちが赦すことのできない者であることは、イエスさまもご存知です。イエスさまは頑なな私たちの気持ちをご存知です。もっと言えば、「あなたのその気持ちもわかる」と、イエスさまは思っておられるだろうと思います。それでも「赦してやりなさい」と、イエスさまは言われます。ですから「7度、赦してやりなさい」といわれるのです。
「あの人のことを赦すことはできない」という思いに、私たちはなることが多いですけれども、しかし私たちもまた「神さまの前に立つ一人の罪人である」ということを、私たちは知っています。神さまの前に立つとき、私たちは自分がだめな人間であることを、罪深い人間であることに気づかされます。
昔、保育園で園長をしていたときに、ときどきこどものけんかの仲裁をするということがありました。砂場で砂をかけられたとか、つきとばされて転んだとか、いろいろな理由でけんかになります。あまりひどいけんかにならないように、仲裁に入るわけです。そして「太郎君がこうした。次郎君がこうした」という説明を受けて、そして謝罪と赦しの儀式を行なうのです。「ごめんね」「いいよ」という儀式です。「ごめんね」「いいよ」。こどものけんかですから、私たち大人のようなどろどろとしたどうしようもないけんかというわけでもありません。ですからまあ和解しやすいということもあります。それでもこどもたちもそんなに簡単に「ごめんね」「いいよ」というふうになるわけでもありません。大人にとっても謝罪と赦しはむつかしいように、こどもにとってもやはりそれなりに「ごめんね」「いいよ」はむつかしいことであるわけです。
それでもはやり私たちは謝罪と赦しを、「ごめんね」「いいよ」を繰り返しながら、私たちの世界で生きていきます。
神さまがイエス・キリストのゆえに、私たちを赦してくださり、そのイエスさまが私たちに言われるのです。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」。私たちは欠けたところも多いですから、失敗をしたり、傷つけあったりすることもあります。ですから補い合い、赦しあい、支え合って生きていきます。そしてそうした誠実な私たちの歩みを、神さまは導いてくださり、支えてくださいます。
神さまの導きのもと、互いに支え合い、互いに赦しあい歩んでいきたいと思います。
(2023年10月8日平安教会朝礼拝式・神学校日礼拝)
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