2023年10月5日木曜日

10月1日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「やっぱり世のため人のため」


聖書箇所 ルカ16章19-31節。197・411。

日時場所 2023年10月1日平安教会朝礼拝

 

今日は世界聖餐日です。世界中の教会の人たちと、共に聖餐に預かる日は、私たちにとってとても大きな喜びの日です。

世界聖餐日・世界宣教の日に、在日大韓基督教会関西地方会京都地区と、日本基督教団京都教区京都南部地区は、合同礼拝をもちます。今年は京都丸太町教会でもたれます。

スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』の冒頭の言葉は有名な言葉で、こころにとまる言葉です。【僕がまだ年若く、こころに傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えたくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件をあたえられているわけではないのだと」】(P9)(スコット・フィッツジェラルド、村上春樹訳『グレート・ギャツビー』、中央公論新社)。

こどもの頃は、自分が義務教育を終え、高校で受験勉強をして、そして大学に行くということ、わたしはあたりまえのことと思っていました。父もそのことを望んでいましたし、また兄も大学に行ったので、わたしも受験勉強をして大学にいくのだと思っていました。しかし実際、大学にいくというようなことは、とてつもなく恵まれているということです。

【世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件をあたえられているわけではない】というのは、そのとおりです。世界を見回せば、貧困や暴力が満ちています。そうしたなかで、勉強をしたくてもできない人々はたくさんいます。ペンをもって勉強したいにも関わらず、銃をもって闘わざるを得ない人々が、この世の中にはたくさんいます。あるいは家族を食べさせるために、道ばたでタバコやキャンディーを売らなければならないというこどもたちがたくさんいます。そうしたことを思うときに、せっかく大学まで出たのだから、やはり自分のできる形で、少しずつであるにしても、世の中に返していかなければいけないと思うようになりました。「やっぱり世のため人のため」ということは、私たちが忘れてはならない大切なことだと思います。そして自分が学問をすることができたということについて、やはり誠実でなければならないと思います。

今日の聖書の箇所は「金持ちとラザロ」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書16章19-21節にはこうあります。【「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた】。

このたとえ話はなかなか衝撃的なたとえ話です。あるお金持ちがいつもいい服を着て、毎日ぜいたくな暮らしをしていました。このお金持ちの門の前にラザロという名前の人がいました。ラザロという名前は、「神は助ける」(エリエゼル、エルアザル)をいう意味の名前です。ラザロはできものだらけで、そして貧しい人でした。お金持ちの【食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた】というわけですから、とくにこのラザロという人はりっぱな人であったということでもありません。とくにラザロが信心深いということでもないでしょう。ラザロはできものだらけで、そして【犬もやって来ては、そのできものをなめた】ということですから、たぶん多くの人々はラザロを見るのをいやがったことでしょう。

ルカによる福音書16章22-23節にはこうあります。【やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。】。

死は貧しい人にもお金持ちにも、等しく訪れます。お金持ちだからと言って、死なないわけではありません。ラザロはこの世では貧しく大変な生活であったわけですが、死んだあとは天使たちによって天上の宴会に連れていかれ、そしてアブラハムのすぐそばにくることになりました。お金持ちも死にました。たぶんこの世で丁重に葬られただろうと思います。しかし死んだあとお金持ちは陰府でさいなまれることにあります。お金持ちが目をあげると、天上で宴会が行われているのが見えます。そしてアブラハムのすぐそばに、自分の家の門の前にいたあのラザロがいるのが見えました。

ルカによる福音書16章24-26節にはこうあります。【そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』】。

お金持ちは「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください」と、アブラハムに呼びかけています。またアブラハムも「子よ、思いだしてみるがよい」と答えています。「父よ」「子よ」という具合に答え合っています。ですからお金持ちはアブラハムの子孫です。しかしアブラハムの子孫であるということは、ほとんど意味を持たないことだということです。ユダヤ教において「アブラハムの子孫である」ということは、神さまから特別に愛され、選ばれているということを意味します。しかしそうしたことは、何の意味もないことだと、イエスさまはこのたとえ話をとおして言っておられるのです。

このお金持ちは【ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください】と言っています。陰府にあっても、このお金持ちはラザロを自分の僕のように考えているわけです。このお金持ちは、この世にあってラザロが苦しんでいるときに、直接手を差し伸べることもなかったでしょう。しかし自分が苦しんでいる時には、【ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください】と言うのです。その姿は憐れです。

ラザロは行ないが立派であったから、アブラハムのそばにあげられたわけではありません。ラザロがアブラハムのそばにいる理由は、「この世で貧しかったから」です。アブラハムはこう言っています。【子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ】。

「生きている間に良いものをもらっていたから、今はお前はもだえ苦しむのだ」と言われると、「えーっ、それはちょっと」というような気が、私たちはします。しかしお金持ちがお金持ちであるのは、たぶんお金持ちの父親とか母親がお金持ちであったからです。彼の兄弟もお金持ちです。たまたま、お金持ちの家に生まれたから、お金持ちであるのです。ラザロがお金持ちの家に生まれたとしたら、ラザロはお金持ちです。お金持ちであることは、たまたまのことであり、それはあたえられたものです。ですからこのお金持ちは、自分のようなことにならなように、自分の兄弟たちにこのことを告げたいと言うのです。この世で配慮のない生き方をしていたらとんでもないことになるということを、自分の兄弟であるお金持ちに告げたいというのです。

ルカによる福音書16章27-31節にはこうあります。【金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」 】。

お金持ちはまだ「ラザロを遣わしてください」と言います。まだラザロのことを自分の僕のように考えています。なかなか身に付いたものは抜けないのです。アブラハムはお金持ちに、【『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』】と言います。彼らが耳を傾けるべきモーセと預言者の言葉というのは、小さき者への配慮ということです。出エジプト記22章20節以下には「人道的律法」という表題のついた聖書の箇所があります。【寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない】(出エジプト22章20-21節)とあります。モーセの律法には小さき者への配慮ということがしっかりと記されてあります。また多くの預言者たちも小さき者への配慮ということを語りました(アモス書8章4-7節)。

お金持ちは【死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう】と言います。しかしアブラハムは【『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』】と言います。もうすでに語られるべきことは語られている。しかしそれを行おうとしないだけだと、アブラハムは言うのです。

ユダヤ教では「ヘセドを施せ」ということが、よく言われます。「ヘセド」というのは「慈しみ」ということです。慈愛というような意味です。箴言11章17節には【慈しみ深い人は自分の魂に益し、残酷な者は自分の身に煩いを得る】という言葉があります。この「慈しみ」というのが「ヘセド」です。ユダヤの人々は小さい頃から「ヘセドを施せ」ということを言われながら成長します。

イエスさまもまた【『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』】(マタイ22章37-39節)と言われました。神さまを愛し、隣人を自分のように愛することが、イエスさまが言われた大切な教えです。

ハロルド・S・クシュナーという人が書いた『天国に行くための8つの知恵』(聖公会出版)という本があります。『天国に行くための8つの知恵』。「みなさん、天国に行きたいですか!」。クシュナーは『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(岩波書店)という本を書いています。この『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(岩波書店)も、なかなか考えさせられる本です。

『天国に行くための8つの知恵』という本の中で、クシュナーは恩師のヘッシェルの言葉を引用しています。【恩師アブラハム・ジョシュア・ヘッシェル先生の次のような言葉をよく思いだします。「若い頃は賢い人を尊敬しました。しかし年齢を重ねていくにつれて親切な人を尊敬するようになりました」】(P3)。「若い頃は賢い人を尊敬しました。しかし年齢を重ねていくにつれて親切な人を尊敬するようになりました」。わたしはヘッシェル先生(1907年-1972年)ほど年を重ねてはいませんが、なんとなく自分の中でそうした気持ちが出て来たような気がします。そして賢い人間にならなくても、親切な人、良き人でありたいと思います。

クシュナーはこんなことも書いています。【最近、たまたま、あるアメリカ先住民の部族指導者が自らの内なる葛藤について記述した話を読みました。「私の中に二匹の犬がいる。一匹は意地悪で悪だ。もう一匹はいい犬だ。意地悪な犬はいつも「いい犬」(注:『悪い犬』と日本語で訳されているけれど、文脈からすると『いい犬』という気がする。確かめることはできなかったけど・・・。『いい犬』だということで話をすすめる)と喧嘩している」と、彼は言いました。「どちらの犬が勝つんですか」と聞かれたとき、少し考えて、「餌をたくさんやった方だ」と答えました】(P64)。

私たちはいつもいつもいい人間ではありません。善人であるときもありますし、悪人であるときもあります。心の中で善と悪が闘っているということがあります。で、どちらが勝つのかというと、「餌をたくさんやった方だ」というわけです。ですから生き方として、「小さな良き業に励む」ということは、わたしはとても大切なことだと思います。私たちは完全な善き人ではないかもしれません。しかし小さな良き業に励むことは、私たちが悪人に成り果てることを阻んでくれるのです。だから「ヘセドを施す」のです。慈しみを大切にして生きるのです。箴言14章22節にも同じような言葉があります。【罪を耕す者は必ず迷う。善を耕す人は慈しみとまことを得る】。【罪を耕す者は必ず迷う。善を耕す人は慈しみとまことを得る】。

たしかに私たちの世の中は「正直者が馬鹿を見る」ような世界です。「お金をたくさんもうけて、何が悪いんですか」と言われたりする世の中です。わたしは「お金はたくさんもうけていい」と思います。ただもうけたお金を自分のためだけに使うのは良いことではないと思います。なぜかというと、今日のたとえ話のお金持ちのようになってしまうからです。

世の人から笑われるかも知れませんが、私たちキリスト者は「やっぱり世のため人のため」という心意気で生きていきたいと思います。私たちは一人で生きているわけではありません。私たちは神さまから命をあたえられ、そして周りの人々に支えられて生きています。小さな善き業に励み、神さまの御前に誠実に生きて行きましょう。


(2023年10月1日平安教会朝礼拝)


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