「見えないけど、感じる神さまの愛」
聖書箇所 ルカ17:20-37。227/476。
日時場所 2023年10月15日平安教会朝礼拝式
『絶対音感』という本で有名な最相葉月(さいしょう・はずき)というノンフィクションライターは、2022年10月に、『証し 日本のキリスト者』(角川書店)という本を出しています。5センチくらいある分厚い本で、大判の旧新約聖書くらいの大きさです。
【なぜ、神を信じるのか。全国の教会を訪ね、135人に聞いた信仰のかたち。「証し」とは、キリスト者が神からいただいた恵みを言葉や言動を通して人に伝えることである。本書は、北海道から沖縄、五島、奄美、小笠原まで全国の教会を訪ね、そこで暮らすキリスト者135人に、神と共に生きる彼らの半生を聞き書きしたものだ】。
最相葉月は、インタビューにあたって何度も聞いた質問というのがあります。【インタビューにあたって、キリスト者にたびたび回答を求めた質問があった。その一つは、自然災害や戦争、事件、事故、病のような不条理に直面してなお、信仰はゆるぎないものであったかということ。神を信じられないと思ったことはないのか、それでも信じるのはなぜかということ】。
大きな災害で家族が犠牲になることや、自分が大けがをしてしまうこと、また財産を失い、どのように生きていけばよいかわからなくなること。そうしたなかにあって、どのように神さまを信じて生きてきたのか。人間的なことを考えたら、どうしてそのようなことができるのか、私たちにもよくわかりません。しかし実際に、大きな災害を経験しても、神さまを信じて生きてきた人たちは、私たちの周りにもたくさんおられます。それはもう神さまのわざとしか言いようのないような気がわたしにはいたします。
今日の聖書の箇所は「神の国は来る」という表題のついた聖書の箇所です。世の終わり・終末や、神さまの国の到来ということは、イエスさまの時代にも、いろいろと議論がなされている事柄でした。イエスさまの時代は、世の終わり・終末ということが、いまにも起こるというふうに考えられていた時代です。ですからどのような形で、世の終わり・終末がやってくるのか。世の終わり・終末が起こる前に、なにかその兆候というものがあるのかというような事柄が議論されていました。だいたいは世の終わり・終末の前には、天変地異が起こって大変なことになると言われていたり、偽預言者が現れるというようなことが言われたりしていました。今日の聖書の箇所もそうした世の終わり・終末についての議論の中にある話であるわけです。
ルカによる福音書17章20−21節にはこうあります。【ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」】。
ファリサイ派の人々は、イエスさまに「神の国はいつ来るのか」と尋ねます。ファリサイ派の人々は、世の終わり・終末、そして神の国が来るというようなことを考えていました。そしてそれがいつ起こると考えているのかということを、イエスさまに質問をします。ファリサイ派の人たちは、神の国が来て、自分たちが神さまによって義とされると考えていました。私たちは一生懸命に、悪い罪人たちを罰してきたのだから、神の国の中で自分たちは義とされる。その神の国はいつ来るのかと、イエスさまに質問をしたわけです。
しかしイエスさまはその質問について、すこしはぐらかすような答えを語られました。イエスさまは「神の国は、見える形では来ない」と言われます。それはあなたたちが考えているような形では、神の国というのは来ないのだと、ファリサイ派の人たちに言われたということです。「ここにある」「あそこにある」「私たちが義とされる」というように、あなたたちに都合の良いようには神の国は来ない。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」というのは、神の国ということが、世の終わり・終末に、私たちが神さまから義とされる、神さまから誉められるというようなことなのではなく、いまあなたたちがどのように生きているのかということの問題であるのだということです。
そしてそれはイエスさまを受け入れるのかどうかということと関係しているということです。ファリサイ派の人たちは、律法を守ることのできない人たちを裁き、自分たちが義の裁き人であるかのようにふるまっていました。しかしイエスさまはそうしたファリサイ派の人々を批判されました。批判をされただけでなく、イエスさまはファリサイ派の人々が罪人と非難した人々を愛され、罪人と共に食事をされます。神さまの御子であるイエスさまは、神さまの御心を行ない、そして罪人を悔い改めと新しい命への導かれました。そうしたイエスさまを受け入れるのか、どうかということが問われているということです。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」というのは、あなたたちはさも自分たちが義とされる神の国がやってくることを望んでいるけれども、そのような神の国はやってこない。いまあなたたちに必要なことは、悔い改めるということなのだ。イエスさまが支配しておられる神の国はあなたがたの間にある。そしててあなたがたがイエスさまに従うかどうかの決断をするかどうかということ大切なことなのだと、イエスさまはファリサイ派の人々に問われたのです。
ルカによる福音書17章22−25節にはこうあります。【それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。】
ここで言われている「人の子」というのは、いわゆる世の終わり・終末にやってくるとされている救い主・メシアということです。その方がどのような方であるのかということは、世の終わり・終末の出来事がどのような出来事であるかはっきりとしないので、まあいろいろなことを言う人たちがいるわけです。まあでもみんなやっぱりその方に会ってみたいと思うわけです。でもイエスさまは「見ることができない」と言われます。ここでも「見ることができない」というのは、あなたたちが頭のなかで想像しているような感じのこととしては「見ることができない」ということです。みんないろいろというわけです。「見よ、あそこにいるぞ」「見よ、ここにいるぞ」というふうに言うわけですが、そうしたことはあてにならないと、イエスさまは言われます。
イエスさまはあなたたちが考えているような感じで「人の子を見ることはできない」と言われます。そして「人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排除されることになっている」と言われます。ここで言われていることは、イエスさまご自身が経験されることであるわけです。イエスさまは多くの苦しみを受け、人々から排除され、十字架につけられます。ですからここで言われている「人の子」というのは、イエスさまのことであるわけです。
弟子たちは自分の頭の中で勝手に、「世の終わり・終末には救い主・メシアと呼ばれる「人の子」がやってきて、私たちに敵対している悪いやつらをやっつけてくれる。そして私たちは神さまによって、良き者として特別に祝福を受けるのだ」というようなことを考えているわけです。しかし実際に起こることは、弟子たちは救い主であるイエスさまを裏切り、イエスさまは人々から蔑まれ、そして十字架につけられるのです。そしてそのことは神さまの御心であり、避けることのできないことであるのです。イエスさまの十字架によって、私たちの罪は赦されるのです。
ルカによる福音書17章26−29節にはこうあります。【ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった】。
ノアの時代のことは、創世記6章ー10章に書かれてある、ノアの洪水物語の話です。旧約聖書の8頁以下に書かれてあります。ロトの時代のことは、創世記の19章「ソドムの滅亡」に書かれてある物語です。旧約聖書の25頁に書かれてあります。物語として興味深い話ですから、あとでじっくりと読んでくだされば良いかと思います。ノアの時代のことも、ロトの時代のことも、要するに神さまが人々に罰を与えられ、洪水が起こったり、町が滅ぼされたりする大災害の話であるわけです。しかしそうした災害は突然やってくるのです。同じように世の終わり・終末も、明日来るとか明後日来るとか、3ヶ月後にとか、1年後にとか、その日について言うことはできないということです。ただいつ来るかわからないけれども、必ずやってきて、そして飛んでもないことになってしまうと、イエスさまは言われるのです。
ルカによる福音書17章30−37節にはこうあります。【人の子が現れる日にも、同じことが起こる。その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」*畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」】。
人の子が現れる日、いわゆる世の終わり・終末ということです。そのときもやはりノアの時代やロトの時代と同じようなことが起こる。同じことをしていても、一人は被害にあい、一人は生き延びることができる。そうしたことは避けがたいことであり、「どうしてわたしが生き延びることができたのだろう」というような思いになることもあるかもしれない。「どうして、どうして」というような問いかけの中に生きていくことがあるかもしれない。しかしそれはただそのようなことが起こるとしか言いようがない。そのようにイエスさまは言われました。イエスさまの弟子たちは、イエスさまが語られたつらい出来事をこころに留めながら、それならそうした災害にあうことがないように、そのことが起こる場所を教えてほしいと、イエスさまに言うのです。「主よ、それはどこで起こるのですか」と、イエスさまに弟子たちは尋ねたのです。するとイエスさまは「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ」と言われました。それはどこで起こるというようなことではなく、人のいるところではどこでも起こることであるということです。人がいるところではどこでも災害が起こり、そして人が死んでしまうということが起こる。そしてその死体をみて、はげ鷹も集ってくるということです。
イエスさまの時代、世の終わり・終末が、いつ・どのような形で来るのかということは、とても不安なことでした。ですからファリサイ派の人も、世の終わり・終末はいつ来るのかと、イエスさまに尋ねました。イエスさまも、世の終わり・終末がどのような形で来るのかということを語っています。しかしまあそれから2000年ほどの年月がたっているわけですから、私たちの人生という尺度からすると、結局は世の終わり・終末ということについてはよくわからないというのが、私たちの感覚だと思います。世の終わり・終末は来るけれども、それはいつ来るか、どのような形で来るのかということは、わからないのです。でも同時に、明日来ないということでもないわけです。いつ来るかわからない。それはイエスさまの時代から変わらないことです。
世の終わり・終末に事柄に関わらず、私たちは不安がつきまとう人生を生きています。あるときは信仰のゆらぎを感じる時もあります。神さまはわたしのことを忘れておられるのではないか。神さまはわたしを見捨てておられるのではないか。そのような思いになるときもあります。信仰とはゆらぎのあるものです。
しかしまた私たちは自分が神さまの救いの中に生きていることを感じます。私たちは神さまの愛を感じて生きています。それは「ここにある」とか「あそこにある」というふうに言えるものでもありません。私たちの都合の良いように、神さまが働いてくださるというわけでもありません。現実の生活の中で、いろいろなことで私たちは右往左往させられ、不安になったり、悩んだりもします。しかしそうした中にあっても、私たちは神さまの愛を感じて生きています。「ここにある」とか「あそこにある」というように見えるわけではないので、説明をするのがとてもむつかしいわけですけれども、私たちは弱い私たちを支え、導いてくださる神さまの愛を感じて生きています。
信仰とはほんとに不思議なものだと思います。いろいろな出来事にあい、もちろん信仰がゆらぐということもあるわけです。しかしそれでも、私たちは神さまの愛を感じて歩んでいます。わたしはそれはとても幸いなことであり、そしてとても平安なことだと思います。
ぜひ「わたしも共にそのような歩みに導かれたい」との思いをもつ方がおられましたら、私たちと一緒に、神さまを信じて、共に歩んでいくことができればと思います。
(2023年10月15日平安教会朝礼拝式)
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