2023年11月29日水曜日

11月12日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

「確かな方につながって生きる」

 

聖書箇所 ヨハネ8:51-59。419/437。

日時場所 2023年11月12日平安教会朝礼拝式

  

宮沢賢治の「雨にも負けず」という詩は、次のような言葉ではじまります。

「雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫な体を持ち

 欲はなく 決していからず いつも静かに笑っている」

そのあといろいろと続いて、最後に、「そういう者に 私はなりたい」で終わります。

「雨にも負けず」には、宮沢賢治がなりたい理想像、「これがあれば良いのに」ということが記されているということでしょう。「雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫な体を持ち 欲はなく 決していからず いつも静かに笑っている」と、一番初めにありましたから、やはり大切なのは、「丈夫な体」と「健やかなこころ」というふうになるでしょうか。宮沢賢治は1930年9月に東京で高熱で倒れ、家族に遺書を書きました。そして花巻に戻り、病床生活となります。そして11月に手帳に、「雨にも負けず」を書いたと言われます。ですから「雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫な体を持ち」というのは、とても深刻な願いであったのだろうと思います。「ああ、丈夫な体であれば・・・」。

「これがあれば良いのに」と思えるものは、人によってそれぞれであるわけです。お金などはまあ比較的、万人に愛されるものであるわけです。しかしお金も天国にもっていけるわけではありませんから、「お金はほどほどで、やっぱり健康であることの方が大切ではないか」というような思いをもつ人もいます。年齢が変わると、とても大切にしていたものも色あせてしまうというようなこともあります。わたしは以前は本というものに大きな価値を置いていましたが、しかしだんだんと小さい字を読むのも、なんだかおっくうになってきて、字の小さな文庫本は、どんなすばらしい内容のものでも、「もうブックオフに引き取ってもらっても良いかなあ」というような思いになるときがあります。

自分にとって確かなものであったものが、いろいろと状況が変わるなかで、意味を持たなくなっていくということがあります。自分が心の支えにしていたものが、空虚なものに思えてくるという体験をすることが、私たちにはあります。会社のために、働いて・働いて・働いて・働いたけども、どうやら会社はわたしのことをそんなに愛してくれているのではないようだというような事実を突きつけられたりします。その体験は空しさを伴うことでありますが、しかし悪いことだけでもありません。また新たな出会いによって、「これこそがわたしにとって大切なことだ」ということが見つかるかも知れません。

私たちの救い主であるイエスさまは、私たちを永遠のいのちを受け継ぐ者としてくださいました。イエスさまにつながって生きる時、私たちは神さまの恵みを受けて、永遠のいのちを受け継ぐ者としての祝福に預かることができるのです。わたしはこのことは、私たちクリスチャンがこの世で生きる上で、とても大切な祝福であると思っています。「わたしは永遠の命を受け継ぐ者として、神さまからの祝福を受けている」と思うとき、私たちは何事にも恐れることなく、神さまに向かって歩んでいくことができる気がいたします。

今日の聖書の箇所は「アブラハムが生まれる前から「わたしはある」」という表題のついた聖書の箇所の一部です。ヨハネによる福音書8章51−53節にはこうあります。【はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」】。

ユダヤ人たちはイエスさまが悪霊に取りつかれていると考えていました。悪霊の力でいやしのわざを行ない、悪霊の力で人々の心をとらえて、イエスさまのことを信じさせるのだというわけです。それに対して、イエスさまはわたしはわたしの天の父である神さまのみ旨に従って生きているのだと言われました。

イエスさまは「わたしの教えを信じて守るなら、その人は決して死ぬことがない」と言われました。それに対して、ユダヤ人たちは「そんなことを言うのは、あなたが悪霊に取りつかれているからだ」と言いました。あなたは「自分を信じるなら、死ぬことはない」と言うけれども、人はだれしも死ぬのだ。だって私たちの祖先であり、神さまからあんなに愛されたアブラハムも死んだじゃないか。神さまの言葉を預かって人々を導いて多くの預言者たちも死んだじゃないか。それなのにあなたは「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない」と言うのか。あなたはそんなに偉大なのか。アブラハムよりも偉いというのか。預言者たちよりも偉いというのか。そんなことを言うのは、あなたは高慢になっているのではないのか。そのようにユダヤ人たちはイエスさまに言ったわけです。

ヨハネによる福音書8章54−56節にはこうあります。【イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」】。

イエスさまは自分は自分の栄光を求めるということはありえないと言われます。わたしの父である神さまが、わたしに栄光を与えてくださる。わたしは神さまをよく知っている。わたしをこの世に送ってくださり、父である神さまは世の罪をあがなうためにわたしを十字架につけられる。わたしのその神さまの御心に従って生きている。だからわたしが世の栄光を求めるということはありえないことだ。あなたたちの先祖であるアブラハムも、そのことを知っている。アブラハムも、わたしが世の人々のために十字架につけられる、その神さまのご計画の日を楽しみにし、そして、それを見て、喜んだのだ。

というような話になってくると、聖書を読んでいる私たちは「なんだかわからない」という気持ちになってきます。ユダヤ人たちのように、「イエスさまは悪霊に取りつかれている」とまでは言わないですが、「なんか言っていることがよくわからない」という気持ちにはなってきます。「わたしは神さまのことを知っている」というようなことであれば、「まあ、そうかなあ」と思います。しかし「アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」というようなことになってくると、「いや、アブラハムはイエスさまが生まれるずっと前に死んでいるから、ここで『わたしの日』と言われている、イエスさまが十字架につけられる日を見るということではできないだろう」と思うわけです。

マタイによる福音書やルカによる福音書、マルコによる福音書では、イエスさまが自分のことをいろいろと言うことというのはあまりないのですが、ヨハネによる福音書ではイエスさまが自分のことについて「わたしは世の光である」とか「わたしはぶどう木」とか、「わたしは神さまの御子である」というようなことを匂わせたりします。ヨハネによる福音書をよむとき、そのことが私たちを混乱させるというようなときがあります。これはヨハネによる福音書を書いた人たちの思いや信仰を、イエスさまご自身が語っているという形がとられているということがあるからです。それはヨハネによる福音書の著者の、イエスさまについての書き方ということなので、ちょっと「なんかよくわからない」と思っても、あまり気にすることなく、イエスさまが言っているということに強く関心をよせることなく、「イエスさまは世の光なんだよね」という内容のように、こころを向けて読むのが良いのだと思います。これはヨハネによる福音書のお約束事なんだから、あまり深く考えずに、そういうものだのだと思って読めば良いわけです。ミュージカルを見ていて、「どうして突然歌い出すのかわからない」というふうに思う人がいますが、「まあそれはミュージカルなのだから仕方がない」としか言いようがないわけです。

ヨハネによる福音書8章57−59節にはこうあります。【ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。】。

イエスさまが「アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた」というようなことを言われるので、ユダヤ人たちは「あなたはまだ50歳にもならないのに、アブラハムを見た」と言うのかと、起こり出します。まあイエスさまが50歳だろうと、100歳だろうと、アブラハムを見ることなど、ふつうはないわけです。これもまたヨハネによる福音書の著者の信仰が現れています。「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」というのは、イエスさまは神さまの御子として、天地創造の前から存在している。だからアブラハムの生まれる前から、「わたしはある」ということです。神さまと、神さまの御子イエス・キリストはすべてのことの始まりの前から、存在しているということです。キリスト教の用語では、このことを「キリストの先在」と言い表します。「先在」とは、「なによりも先に在る」ということです。これを聞いて、ユダヤ人は怒ります。石を取り上げて、イエスさまに投げようとしました。イエスさまはそれをすっとかわして、神殿から出ていかれました。

「キリストの先在」というのは、ヨハネによる福音書の著者が信じている信仰で、「このことを伝えたい」という中心的な信仰です。ヨハネによる福音書1章以下に「言が肉となった」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の163頁です。ヨハネによる福音書1章1−5節にはこうあります。【初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。】

この聖書の箇所はクリスマスによく読まれる聖書の箇所です。「初めに言があった」というところの「言」というのが、イエスさまのことであります。「初めに言があった」ということですから、天地創造の前に、イエスさまがおられたということを言い表しています。そして「言は神と共にあった」ということですから、「イエスさまは神さまと共にあった」ということです。「言は神であった」ということですから、「イエスさまと神さまは一つである」ということです。そのようなヨハネによる福音書の著者の信仰が、この聖書の箇所に表されています。それにのっとって、ヨハネによる福音書では、イエスさまがご自身のことを語るということになっています。

今日の聖書の箇所には、「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」とありました。イエスさまは天地創造の前から、神さまと共にあり、アブラハムが生まれる前から、神さまと共にあるのです。

「わたしはある」というのは、「わたしの存在は絶対である」ということです。天地創造の前から、アブラハムが生まれる前から「ある」わけですから、「わたしの存在は絶対である」のです。天地創造の前から、神さまと共にあるわけですから、「わたしの存在は絶対である」わけです。ヨハネによる福音書は、「確かな方がおられる」ということを、私たちに告げています。

イエスさまは今日の聖書の箇所で、「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」と言われました。それに対して、「ユダヤ人たちはアブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。あなたはアブラハムより偉大なのか」と言いました。ユダヤ人たちにとって、アブラハムはこれ以上ないくらい偉大な人であるわけです。自分たちの祖先であるわけです。しかしヨハネによる福音書の著者は、はっきりと、イエスさまはアブラハムより偉大な方であると言っているのです。イエスさまは私たちに命を与えてくださる方である。イエスさまは私たちに永遠の命を与えてくださる方である。そのように聖書は私たちに告げています。

「それなら、小笠原牧師、イエスさまにつながっているので、あなたは死なないのか」と問われると、私たちは人間ですので、それはアブラハムと同じように、預言者たちと同じように、みな天に召されます。そういう意味では、わたしは死ぬのです。「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」とイエスさまが言われるのは、「死なない」ということではなくて、「あなたは神さまからの祝福を受けて、永遠の命につながる者とされている」ということです。

私たちは人生のなかで、思わぬ出来事を経験することがあります。病気になることもありますし、神さまのところに愛する人が帰っていかれたというようなことを経験することもあります。職場で大きな失敗をして、非難をされるような出来事を経験することもあります。自分ではどうしようもない出来事を前にして、こころが折れてしまうような時もあります。このことを頼りに生きていこうと思っていたものが、意外にもろく崩れ去ることを経験することもあります。確かなものであると思っていたのに、確かなものではないことを知り、大きな戸惑いのなかに投げ込まれてしまう時もあります。

しかしそうしたなかにあって、私たちには救い主イエス・キリストがおられます。イエスさまは私たちに「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」と言われ、私たちがイエスさまにつながることによって、神さまから永遠の命を受け継ぐ者とされることを教えてくださいました。

イエスさまは「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われました。マルコによる福音書13章31節の御言葉です。新約聖書の90頁です。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。

私たちは確かな方につながって生きようと思います。神さまの御子イエス・キリストにつながり、イエスさまを頼りにして歩んでいきたいと思います。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。どんなときも、私たちを守り、導き、祝福してくださる確かな方がおられます。イエスさまを信じて歩んでいきましょう。



  

(2023年11月12日平安教会朝礼拝式)

 

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