2023年11月6日月曜日

11月5日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「私たちの道を照らす光」

聖書箇所 ヨハネ3:13-21。461/465

日時場所 2023年11月5日平安教会朝礼拝式


今日は召天者記念礼拝です。毎年、召天者記念礼拝は多くのご親族の方々と共に礼拝を守っています。平安教会に連なる人々が共に集い、神さまを賛美する礼拝です。ここ数年、新型感染症のために、大勢で集うことができません。ことしは以前と同じように案内をして、ご親族の方々も共に集うということにしています。

キリスト教は天上と地上の両方で礼拝がもたれていると考えています。クリスチャンは地上での生活を終えて天に帰ります。そして地上で礼拝を守っていたように、今度は天上で礼拝を守ります。今日もまた天に帰られた私たちの信仰の先達は、天上の礼拝で神さまを賛美しています。ご家族を天に送られて、とてもさみしい思いをしておられる方々もおられると思います。そのさみしさはなかなか癒えることない深いものだと思います。今日、私たちは地上で礼拝を守り、天に帰られた方々は天上で礼拝を守っておられます。そしてご家族の皆さんが、地上の礼拝で共に、神さまを賛美しておられるのをとても喜んでおられると思います。

私たちの教会のメンバーの方々は、ご家族の方々が思っておられる以上に、教会の礼拝に出席してくださることをとてもうれしいことと思っておられると思います。みなさんの教会だと思って、またぜひ教会の礼拝にいらしてください。お母さま、お父さまの信仰を受け継いで、神さまにより頼んで歩んでくださればと思います。 

今日の聖書の箇所は「イエスとニコデモ」という表題のついた聖書の箇所の一部です。ユダヤ人でファリサイ派のニコデモという議員が、イエスさまのところを尋ねてきます。ファリサイ派の人たちの多くは、イエスさまと考えが違って、論争をしかけてくるということがありました。しかしニコデモはイエスさまの教えが気になって、イエスさまのところに尋ねてきました。「ある夜、イエスのもとに来た」ということですので、周りのファリサイ派の人々の目を気にしながら、夜に尋ねてきたということです。そして、イエスさまにいろいろと質問をするのです。今日のところは、その一部分であります。

ヨハネによる福音書3章13−15節にはこうあります。【天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである】。

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように」というのは、旧約聖書の民数記21章4−9節の「青銅の蛇」という表題のついた聖書の箇所に書かれてあることです。旧約聖書の249頁です。イスラエルの民が蛇にかまれて死者がたくさんでたときに、モーセが神さまに祈り、青銅の蛇を作り、それを旗竿の先にかかげました。人々がその青銅の蛇を見上げると、蛇にかまれて死ぬことはなくなったという話です。

「人の子」というのは、世の終わり・終末のときに来られる救い主・メシアのことです。ここではこの「人の子」というのが、イエスさまのことであるわけです。イエスさまは神さまの御子として、「天から降って来た者」であり、神さまのところから来た者であるということです。そしてイエスさまも神さまの御心によって、十字架につけられ、天に帰られます。天に上るのです。そして人々は、モーセの青銅の蛇のように、イエスさまを見上げることにより、救いを得ることができる。イエスさまを信じる者が皆、「人の子」、救い主イエスさまによって、永遠の命を得ることができるのです。

ヨハネによる福音書3章16−17節にはこうあります。【神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである】。

神さまは、神さまの独り子であるイエスさまを、私たちの世に遣わしてくださいました。それほど私たちのことを愛してくださっています。イエスさまを信じることによって、人は永遠の命を得ることができる。私たちは神さまの前に、いろいろな邪な思いをもったり、悪いことをしてしまったりする弱い者です。神さまの前に立つと、私たちは罪深い者であります。しかし神さまは私たちを裁くのではなく、私たちを救うために、御子イエスさまを、私たちの世に遣わしてくださいました。

ヨハネによる福音書3章18−21節にはこうあります。【御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」】。

神さまの御子であるイエスさまのことを信じないということが、もうすでに裁きになっている。なにかイエスさまのことを信じないということで、神さまからの罰がくだされるということでありません。イエスさまを信じないから、よくないことが起こるとか、そういうことではないということです。イエスさまが世を照らす光となって、私たちの世にきてくださった。イエスさまを信じて健やかに歩むことができるのに、イエスさまを信じないでよくないことに心を騒がせて、暗闇へと導かれていく。そのこと自体がもう裁きになっているということです。神さまに導かれて、イエスさまに導かれて、良き生き方をする。光の中を歩んでいく。それはとても幸いなことであり、とても健やかなことであるということです。

もう少し説明をしますと、悪いことをすると裁きにあうということではなくて、悪いことをしているということ自体が、裁きにあっているということなのだと、聖書は私たちに告げています。私たちもそうしたことを考えさせられるときというのがあります。たとえば世のため人のために働くために政治の世界でリーダーになっているにも関わらず、そのリーダーの振る舞いが身勝手で、自分のことしか考えていないように思える時に、私たちは「この人、ほんとにかわいそうな人だ」と思います。大切な自分の人生を台無しにしている。神さまから能力も与えられ、環境も与えられているのに、せっかく政治の世界でリーダーになりながら、世のため人のために働こうとしないなんて、なんてかわいそうな人だと思います。まあ当の本人は、自分のことをかわいそうな人間だと思っていないわけです。でもリーダーでありながら、あわれな振る舞いしかできないリーダーをみる時に、もうそのこと自体が裁きになっているというような気がするわけです。

もちろん政治の世界のリーダーだけでなく、自分自身の振る舞いを考えてみるときに、反省をさせられるときがあるわけです。自分のことだけを考えて、身勝手な振る舞いをしているうちに、いつのまにかだれも自分の周りに人がいなくなってしまっていたりするようなことになっていないか。だれからも馬鹿にされたくないと思い、力で人をやっつけているうちに、周りの人が自分から離れていっているということになっていないか。しかしもうすでにそうした生き方しかできなくなってしまっていて、そのこと自体が裁きになっているようなことになっていないか。

わたしは合理的な考え方が好きで、自分勝手なところがありますから、すぐに愛のない方へと生き方が向かっていくのではないかということが心配になることがあります。自分だけがよければそれでいいというさもしい考え方に支配をされてしまい、高慢になり、恥ずかしい人生を歩んでいながら、そのことに自分で気がつかないというようなことになってしまっているとしたら、まさにそれは、神さまの裁きということなのだろうと思います。

聖書は、そうした生き方になることがないようにと、光となって私たちを照らしてくださる方がおられると、私たちに告げています。暗闇の中を歩むのではなく、光の中を歩みなさいと、私たちを照らしてくださる方がおられると、聖書は私たちに告げています。

ヨハネによる福音書は、イエスさまのことを「世の光」であると告げています。ヨハネによる福音書8章12節にはこうあります。新約聖書の181頁です。【イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」】。【イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」】。

私たちの信仰の先達は、世の光であるイエスさまに導かれて、その生涯を歩まれました。人生の中で、いろいろな出来事にあうとき、私たちは不安になることがあります。これで良いのだろうかと迷うときもあります。またこの道はあやうい道ではないかと思いながらも、その道に入っていってしまいそうになるときがあります。そんなとき、私たちの信仰の先達は、聖書の御言葉によって支えられ、イエスさまが照らしてくださる良き道へと導かれてきました。イエス・キリストがいつも守ってくださり、永遠の命につながる、真実な生き方をすることができました。

そうした信仰の先達の歩みを思い出すときに、私たちもまたその生き方のように、イエスさまにより頼んで生きていこうと思います。私たちも信仰の先達の生き方を受けついで、イエスさまに従って歩んでいこうと思います。

どうかご家族のみなさまも、先に天に召されたご家族の信仰を受け継いで、イエスさまを信じて歩んでくださればと思います。イエスさまはいつも私たちと共にいてくださり、私たちの歩みを照らしてくださり、私たちが良き人生を歩むことができるようにと整えてくださいます。イエスさまに導かれて、幸いな歩みをいたしましょう。



  

(2023年11月5日平安教会朝礼拝式)

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