2023年11月29日水曜日

11月26日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

「ウソはやめた方が良い」

 

聖書箇所 ヨハネ18:33-40。425/386。

日時場所 2023年11月26日平安教会朝礼拝式・収穫感謝日合同礼拝


今日は収穫感謝日合同礼拝です。子どもの教会との合同礼拝です。ご家族でご出席の方々もおられるので、とてもうれしく思います。子どもの教会も、子どもたちもなかなか忙しく、集うことができないことも多くなってきました。それは平安教会だけのことでもありません。そうしたなかでも子どもの教会のスタッフの皆さんは祈りつつ、こころを込めて、子どもの教会に取り組んでくださっています。こころから感謝いたします。

今日は収穫感謝日ですので、収穫の恵みを神さまに感謝をしたいと思います。私たちに良きものを備えてくださり、私たちのこころも体も養ってくださっているのは、天の神さまです。収穫の恵みに感謝しつつ、神さまの愛を感じる歩みでありたいと思います。

イタリアのローマのサンタ・マリア・イン・コスメディン教会には、「真実の口」という石の彫刻があります。真実の口に手を入れると、ウソをついている人はその手首が切り落とされてしまうという伝説があるそうです。映画『ローマの休日』に出てきます。

『ローマの休日』はオードリー・ヘップバーン扮するアン王女が、アン王女であることを隠して、グレゴリー・ペック扮する新聞記者のジョーと、ローマ観光をするという映画です。ヨーロッパ諸国を訪問中、ローマでアン王女は公務がいやになり、部屋を抜け出して、市中を歩いているときに、新聞記者のジョーと出会います。翌朝、新聞記者のジョーはアン王女であることを知り、スクープ記事を書こうとして、アン王女とローマ観光をするわけです。そのためジョーは自分が新聞記者であることを隠しています。どちらもウソをついているわけです。アン王女は「真実の口」に手を入れることをためらうのですが、ジョーはためらいつつ「真実の口」に手を入れます。

映画の最後は、アン王女は新聞記者のジョーが出席している記者会見の場面になるわけです。アン王女は公には、ローマで病気になり静養中となっていました。ある記者からの「どこの都市が一番お気に召しましたか」と尋ねられます。アン王女はあらかじめ公式に用意をされている「どこにもそれぞれよい所があり、どことは申せません・・・」という答えをしようとするわけですが、しかし思い直して、「ローマです。何といってもローマです。私はこの町の思い出をいつまでも懐かしむでしょう」と答えます。ここではアン王女はウソではなく、心からの真実を語るわけです。『ローマの休日』はウソと真実が交差する物語であるわけです。

『ローマの休日』の脚本の原案を書いたのは、ダルトン・トランボという脚本家です。映画が作られていた1953年の時期、アメリカでは共産党とその支持者に対するレッド・パージと言われる迫害が行われていました。トランボもレッド・パージにあい、映画界を追放されていました。トランボは偽名をつかって、いろいろな映画の脚本を書いています。『ローマの休日』の脚本の原案も、その一つです。トランボの友人のイラン・マクレラン・ハンターの名前で、脚本の原案は発表されています。自分の名前で書いていないわけですから、ウソと言えば、ウソであるわけです。

〈私たちが読んでいる聖書にも、偽名で書かれたのではないかと言われる手紙があります。使徒パウロが書いたと記されているけれども、でも書かれてある内容や時代からすると、使徒パウロが書いたのではないと言われる手紙があります。エフェソの信徒への手紙やテモテへの手紙1,2やテトスへの手紙などがそうです。こうした手紙をわたしが学生をしていたときは「偽パウロ書簡」と言ったような気がするのですが、いまはもう少し穏便な名前が付けられていて、「第二パウロ書簡」とか「パウロの名による書簡」、「擬似パウロ書簡」というように言われているようです。「パウロの名を語って書かれている」と言われると、なんか悪いことをしているような感じがするわけですが、しかし書かれた当時はそういうことではなく、「えらいパウロ先生の考えを受け継いで書いている」というような気持ちで、使徒パウロの名前で書いているということのようです〉。

「わたしはウソをついたことがない」と言う人は、「わたしはウソをついたことがない」というウソをついていると思えます。まあなんらかのことでウソをつくというようなことが、私たちの日常生活の中で起こってきます。家族に病気の告知をするかしないかというようなとき、ウソをつくというようなことが起こることがあります。人を傷つけないようにするために、ウソをつくというようなことも起こることがあります。

今日の説教題は「ウソはやめた方が良い」という説教題をつけました。わたしがここでいう「ウソ」というのは、真理と向き合わない姿勢というようなことです。いいかげんに生きている時につく、いいかげんな「ウソ」というのがあります。自分の立場を守るためにウソをついたり、自分の利益のためにウソをついたりする、そうしたウソのことです。政治家の人たちがよく、自分の立場を守るためにウソをつき、自分の利益のためにウソをつきます。そういた不誠実な態度は、世の中に拡がっていき、そして社会を貧しくします。「ああ、ウソをついてもいいのだ」という雰囲気が社会に拡がっていくことになり、不誠実な世の中になっていきます。イエスさまの時代も、支配者のなかで、そうした雰囲気が拡がっていました。

今日の聖書の箇所は「ピラトから尋問される」という表題のついた聖書の箇所の一部です。この聖書の箇所は、イエスさまが十字架につけられる前に、ローマ総督ピラトによって尋問を受けているという聖書の箇所です。ユダヤ人たちが「イエスさまはわるいやつだ」とピラトに訴えて、ピラトがイエスさまを尋問しているわけです。

ヨハネによる福音書18章33−34節にはこうあります。【そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」】。

ピラトが「お前がユダヤ人の王なのか」と、イエスさまを問いただすというのは、イエスさまが自分のことをユダヤ人の王だと言って、ユダヤを支配しているローマ帝国に反逆しようとしているのではないのかということです。イエスさまはその問いに対して、それはあなたがそのように考えているのか、それともだれか他の人がわたしのことをそのように言っていると言うことなのですかと、ピラトに尋ねます。

ヨハネによる福音書18章35−36節にはこうあります。【ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」】。

ピラトはイエスさまは「わたしはユダヤ人なのか」と言います。ピラトにしてみれば、ユダヤ人たちがユダヤ人であるイエスさまを訴え出たので、イエスさまのことを尋問しているのに、イエスさまがその問いに答えないで、逆にピラトに質問をしてきたりするので、うっとうしいのです。「わたしはユダヤ人なのか」というのは、「わたしはユダヤ人ではないのに、ユダヤ人であるおまえたちのいざござに巻き込まれて迷惑をしているのだ」ということを言っているわけです。

イエスさまはピラトに対して、自分はこの世に属しているわけではないので、ユダヤ人たちが言うように、ローマ帝国に対して反逆をしようとしているということはないと言います。わたしがこの世に属していて、この世でわたしがユダヤの国を治めるというようなことがもしあるのだとしたら、わたしがユダヤ人に引き渡されるときに、わたしの部下たちが必死に戦っただろう。しかしわたしの国はこの世に属していないので、そうした政治的な意味での戦いを行なうということはないのだと、イエスさまは言われました。

ヨハネによる福音書18章37−38節にはこうあります。【そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。】。

イエスさまが「わたしの国」というようなことを言っているので、それならユダヤの王なのかとピラトは思うわけですが、しかし何かそんなことを言っているわけでなさそうだと、ピラトは思います。言っていることがいま一つピラトにはよくわからないので、ピラトは確認のため、イエスさまに「それでは、やはり王なのか」と問いました。しかしイエスさまはそれはあなたが言っていることで、わたしはあなたが考えているような意味での王ではないと、イエスさまは言われます。この世でどこかの国を治め、そしてローマ帝国に反逆をするというようなことではないのだと、イエスさまは言われるのです。

そしてイエスさまはピラトに自分がどうしてこの世に来たのかということを語ります。イエスさまにとってはこのことが重要であるわけです。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」。そのようにイエスさまは言われます。国を治め、人々を支配し、他の国を力でもって支配したりするようなことに、わたしは興味はない。ローマ帝国への反逆ということに、わたしは興味はない。わたしは真理について証をするためにこの世に来たのだ。

ピラトはイエスさまが、「真理」「真理」と言うので、ちょっとげんなりします。ピラトは政治家として、この世のことばかりに心が向けられています。ピラトにとってはもはや真理などというものは、どうでも良いことであるわけです。それでピラトは「真理とは何か」と言うのです。それは真理を求めている言葉ではなく、「真理などというものがあるのか」というようなつぶやきであるわけです。

ピラトはイエスさまが「真理」「真理」というようなことを言っているのを聞いて、「ああ、こいつはローマ帝国に反逆するというようなことはないだろう。どうせユダヤの社会のなかのちいさないざござに違いない。ユダヤ人たちはこの男に馬鹿にされたような気持ちになって、この男を殺そうとしているだけだろう。わたしには関係ない」というように思います。そしてユダヤ人の前に出て、「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」と言いました。

〈ヨハネによる福音書18章39−40節にはこうあります。【ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。】

ユダヤのお祭りの過越祭には、犯罪人として捕らえられている人を一人釈放するというようなことが行われていました。そのためピラトは、ユダヤ人たちにもわたしに面倒をかけることなく、イエスを釈放してことをおさめるということを、やんわりと提案したわけです。「このピラトさまがそのような提案をしているのだから、もうわたしに迷惑をかけることなく、そのようにしろよ」ということです。しかしユダ人たちはピラトの提案を無視して、「その男ではない。バラバを」を大声で言い返したのでした。ピラトはとても安易に考えていたわけですが、ユダヤ人たちのイエスさまに対する怒りは、ピラトの想像をこえて、とてつもないいものであったのでした。このあと、ピラトはそのことを知ることになります〉。

ピラトは「真理とは何か」と言いました。ピラトの中では「真理」とか「正しさ」とかそういうものはあまり意味のないものになっていたのです。ですから「真理とは何か」というようなつぶやきが出てくるわけです。「真理とは何か。そんなものあるわけないだろう」。世の中は混とんとして、みんな好き勝手に生きている。世の中にはウソがいっぱいで、みんな気軽にウソを言う。良き社会をつくりたいとか、良い人として生きたいというような思いが、社会全体の中で失せてしまっている。

そうした社会の中にあって、しかしイエスさまは言われます。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。イエスさまは真理について証をされます。神さまの御子として、神さまのみ旨を行われます。神さまは私たちを愛してくださり、私たちを良きものを備えてくださる。神さまがこの世を治めておられる。私たちが迷子になり、恥ずかしいことをしてしまうことがあったとしても、神さまは私たちを探し出してくださり、神さまのところに連れ戻してくださる。私たちの勝手な思いではなく、神さまの御心が実現していく。

わたしはそのことを伝えるために、この世に来た。そして「真理に属する者は皆、わたしの声を聞く」。あなたたちはわたしの告げる福音を信じて、わたしに従ってきなさい。あなたたちはほんとうは神さまを求め、神さまを信じて生きようとしているのだから、わたしの声を聞き、わたしのところにやってきなさい。イエスさまはそのように言われ、人々を招かれました。

実りの秋。私たちは私たちの神さまが多くの実りをもたらしてくださいました。神さまは私たちに良きものを備えてくださり、そして私たちをよき人として祝福してくださいます。神さまを信じ、イエスさまに導かれて歩みたいと思います。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。真理に属する者として、御声を聞きつつ歩んでいきましょう。



  

(2023年11月26日平安教会朝礼拝式・収穫感謝日合同礼拝)


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