2023年12月6日水曜日

12月3日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

「私たちを救ってくださるイエスさま」

 

聖書箇所 ヨハネ7:25-31。231/241。

日時場所 2023年12月3日平安教会朝礼拝式、アドヴェント第一週

  

アドヴェントに入りました。教会にもクリスマスツリーが飾られ、クリスマスの準備がなされました。

クリスマスによく読まれる本に、トルーマン・カポーティの『あるクリスマス』(文藝春秋)という本があります。トルーマン・カポーティがお父さんと過ごした最初で最後のクリスマスについて書かれてある本です。わたしはこの本が好きで、クリスマスになると引っ張り出してきて、よく読みます。

トルーマン・カポーティのお父さんとお母さんは、トルーマン・カポーティが小さい頃、離婚をします。そしてトルーマン・カポーティはお母さんの実家に預けられ、大家族のなかで育てられます。トルーマン・カポーティは、一人のいとこと仲が良かったのです。その人の名前はスックと言いました。物語はトルーマン・カポーティとお父さんの話ですから、このスックという人がそんなに登場するわけでもないのですが、わたしにとってはとても気になる人です。

【とりわけ一人のいとこと僕は親しかった。いとこといっても、彼女は僕よりもずっと年上で、髪は白く、軽いびっこを引いていた。名前はスックと言った。ミス・スック・フォーク。他に友達もいたけれど、何といってもこのスックが僕の親友だった。サンタクロースのことを僕に教えてくれたのはスックだった。たっぷりとした顎髭(あごひげ)、赤い衣装、プレゼントを満載したじゃらじゃらと音のする橇(そり)。僕は彼女のその言葉を信じた。すべての物事は神の意志、あるいはスックの言い方によれば「主」の御こころ、であると信じていたように。僕が爪先をどこかにぶっつけたり、馬から落ちたり、クリークで大きな魚を釣りあげたりすれば、それは良いことであれ、悪いことであれ、すべて主の御こころだった】(P.11-13)。

トルーマン・カポーティの大親友のミス・スック・フォークは、なんでも「主の御こころ」と考えているような人でした。爪先をどこかにぶっつけて痛い思いをするのも、主の御こころ。馬から落ちるのも、主の御こころ。大きな魚を釣り上げるのも、主のみこころ。なんでも「主の御こころ」というのは、まあばかげているような気もいたします。しかし『あるクリスマス』に出てくるミス・スック・フォークの信仰がとても好きで、「主の御こころ」がなされていくのだというような信仰を、わたし自身ももっています。

世界はわたしが思うようには、なかなか変わっていきません。わたしが「ウクライナに平和が来ますように」とずっと祈ってきたのに、なかなかウクライナに平和がやってきません。ウクライナに平和がやってこないどころか、今度、イスラエルとパレスチナの対立が深まり、たくさんの人々が殺され、わたしは「パレスチナに平和が来ますように」と祈っています。世界はわたしが思うようには、なかなか変わっていきません。しかしわたしは必ず「主の御こころが」がなされていくのだと信じています。「主の平和が必ずくる」「神さまの国が来る」と信じています。私たちを救ってくださる神さまがおられるということを、わたしは信じています。

今日の聖書の箇所は「この人はメシアか」という表題のついた聖書の箇所です。この「この人はメシアか」という表題がついた聖書の箇所の次が、「下役たち、イエスの逮捕に向かう」という表題のついた聖書の箇所になります。ですから、イエスさまの周りがだんだんと危険になってきているということがわかります。

ヨハネによる福音書7章25−27節にはこうあります。【さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」】。

イエスさまの時代のユダヤの人々は、救い主メシアが現れて、自分たちを救ってくださるということを信じていました。それでとてもすごい人だという人が出てくると、「その人がメシアではないか」というように思ったわけです。バプテスマのヨハネなども、まあそのように思われたのでした。イエスさまの時代、ユダヤはローマ帝国によって支配をされていました。ですから多くの人々は国が強くなって独立国になることを願っていました。ですから救い主メシアというのは、政治的な指導者というような意味もふくんでいたわけです。「いつか救い主メシアが現れ、私たちの国を以前のダビデ王やソロモン王が納めていたような立派な国にしてくださる」というような思いをもっていたわけです。しかしもう一方で、救い主メシアは世の終わり・終末に現れて、私たちの世界を根底から変えてくださり、神さまの国としてくださるのだというような思いももっていました。

ヨハネによる福音書は、イエスさまは神さまの御子として、私たちの世に来てくださり、私たちに永遠の命へと導いてくださる方であることを、私たちに告げています。そして神さまから離れて生きていこうとする罪深い、神さまの前にふさわしくない私たちがいること。そうした罪深い私たちのために、イエスさまが十字架によって私たちをあがなってくださる。そうした意味での救い主メシアが、イエスさまであることを告げています。そしてそれは神さまのご計画であり、神さまの御こころであることを告げています。

エルサレムの人々の中には、イエスさまのことを信じる人もいれば、イエスさまのことを信じない人々もいました。イエスさまは信じない人々は、イエスさまを殺そうとねらっていました。しかしイエスさまはそうしたことにひるむこともなく、神さまのことを宣べ伝えておられました。イエスさまのことを信じない人々はこう言いました。救い主メシアはどこから来るかだれも知れないはずだ。しかし私たちはイエスのことを知っている。イエスはナザレの出身で、ヨセフとマリアの子どもだ。そんなイエスが救い主であるはずがない。

ヨハネによる福音書7章28−29節にはこうあります。【すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」】。

イエスさまはエルサレムの人々が、自分のことをあざけっているのを聞いて、大声で言われました。あなたたちはわたしがどこ出身であるかを確かに知っているかも知れない。しかしそうしたことは関係ない。わたしは神さまがお遣わしになったのだ。わたしを遣わされた神さまは真実な方である。わたしは神さまを知っている。わたしは神さまの御子として、神さまのところからやってきたのだ。神さまがわたしをお遣わしになられたのだ。そのようにイエスさまは言われました。

ヨハネによる福音書7章30−31節にはこうあります。【人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。】。

イエスさまのことをよく思っていない人々は、イエスさまを捕まえようとします。しかしイエスさまを捕まえることはできませんでした。イエスさまのことを信じることができない人々がいる一方で、イエスさまのことを信じる人々もたくさんいました。「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」。イエスさまはいろいろな奇跡もなさっておられました。ですからイエスさまのことを、救い主メシア以上にすばらしい人ではないのかというようにさえ言う人々もいたわけです。

「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」という群衆の言葉は、イエスさまに対しての誉め言葉であると同時に、イエスさまに対する誤解も含んでいる言葉であるような気がします。人々はやはりこの世的な意味でのすばらしさを、イエスさまに対して求めているということです。それは預言者的な格好の良さというようなものであるような気がいたします。

預言者モーセや預言者エリヤのような格好の良い預言者です。預言者モーセはエジプトで苦しんでいた人々を、乳と蜜の流れる国へと導いてくれました。エジプトの悪いファラオをやっつけ、周りの悪い王様たちを滅ぼし、人々を導いてくれました。預言者エリヤは神さまの言葉によって、自分たちの国の王様を批判し、この世に神さまの正義と平和を表してくれました。預言者モーセも預言者エリヤも、いろいろな奇跡を行ない、民の苦しみを取り除いてくれました。とても頼もしく、そして格好の良い預言者でした。群衆はそうしたことをイエスさまにも期待をし、イエスさまが行われたいろいろな奇跡に、預言者モーセや預言者エリヤの再来としてのイエスさまを見たのでした。

イエスさまはもちろん奇跡を行われましたし、また力強くユダヤの指導者たちを批判することもありました。しかしイエスさまはそのことのために、私たちの世に来られたのではありませんでした。いえすさまは神さまの御子として、私たちを救ってくださるために、神さまによって遣わされました。そしてイエスさまは神さまの御こころを行ない、神さまがご計画された十字架への道を歩まれました。イエスさまは悪を裁く預言者として、私たちの世に来られたのではありません。私たちを罪からあがなう救い主メシアとして、私たちの世に来てくださったのです。私たちのことをすべて知ってくださり、私たちの中の邪な思いを知りつつ、私たちを赦し、私たちに神さまの御子として永遠の命を受け継ぐ者としてくださるために、救い主イエス・キリストは私たちの世に来てくださったのです。

イエスさまは困難な私たちの世にあって、「神さまの御こころがなされていく」ことを、私たちに教えてくださっています。【わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」】。わたしをお遣わしになられた神さまの御こころがなされていく。

ヨハネによる福音書6章22節以下には、「イエスは命のパン」という表題のついた聖書の箇所があります。そこでイエスさまはつぎのように言われます。ヨハネによる福音書6章38−40節の御言葉です。新約聖書の176頁です。ヨハネによる福音書6章38−40節にはこうあります。【わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」】。

神さまは私たちを愛してくださり、私たちに大切な独り子である御子イエス・キリストを、私たちの世に送ってくださいました。イエスさまは十字架につくことによって、私たちの罪をあがなってくださり、私たちを救ってくださいました。私たちにはとうてい考えられない神さまの御こころによって、私たちは神さまの御前に正しいものとされ、永遠の命を受け継ぐものとされました。

アドヴェントに入りました。救い主イエス・キリストが、私たちの世にきてくださいます。私たちのすべてを知った上で、私たちを赦してくださり、私たちを救ってくださる救い主イエス・キリストが私たちにところにきてくださいます。アドヴェント、イエスさまを迎える準備をしながら、私たちのこころも整えていきたいと思います。私たちを救ってくださったイエスさまに感謝しつつ、この喜びを隣人に届けていきたいと思います。

どんなとき、共にいてくださり、私たちを支え導いてくださる救い主イエスさまがおられます。大きな希望をもって歩んでいきましょう。




  

(2023年12月3日平安教会朝礼拝式、アドヴェント第一週)

    

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