2023年12月26日火曜日

12月24日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「主の平和の年がやってくる」

 「主の平和の年がやってくる」

 

聖書箇所 ルカ2:1-7。261/264。

日時場所 2023年12月24日平安教会朝礼拝式

    

クリスマス、おめでとうございます。

主イエス・キリストのご降誕をこころからお祝いいたします。

11月11日にわたしの出身大学の恩師の記念会で、高松に行きました。そのとき、わたしの出身大学は香川大学という大学なのですが、ことし大学創立100周年であることを知りました。わたしの恩師は、山崎怜(やまさき・さとし)という経済学者です。創立100周年記念行事に合わせて、山崎怜先生の記念会を計画されたようでした。記念会の最後に、香川大学の逍遥歌を歌いました。香川大学の前身の旧制高松工商時代から歌われている学生歌のようなものです。わたしは在学中、歌った記憶はないのですが、寮生などの中ではよく歌われていたようです。長らく埋もれていたものを、わたしの恩師の山崎怜先生が掘り起こして、「この歌はこういう歌なのだ」ということを香川大学経済学部の後援会の季報にのせたということでした。

1番の歌詞はこうです。「旅とこそ聞け人の世は その旅を我雄々しくも 一人来たりてうるわしの 瀬戸を渡りし旅人ぞ」。なんとなく人生を旅にたとえているような歌のようです。「瀬戸を渡りし旅人ぞ」というのは、「わたしも瀬戸内海を渡って、京都の地まで来たなあ」と思います。

まあ、それは良いのですが、3番の歌詞は、こうです。「ああ南溟(なんめい)の曉(あかつき)に 無念の涙胸に秘め 今永劫に散りゆきし 旅人ありと我は聞く」。「ああ南溟(なんめい)の曉(あかつき)に 無念の涙胸に秘め 今永劫に散りゆきし 旅人ありと我は聞く」。「南溟」というのは、「南方の大きな海」ということです。「南方の海、明け方に、無念の涙を胸に秘めて、もう帰ることのなく散っていった、旅人がいると、わたしは聞いた」という歌詞です。

わたしの出身大学の逍遥歌というのは、学生であった学友か先輩が兵隊となり、南の海で死んでしまったことを記念して歌われているということです。もっと勉強をしたかったが、学びの途中で兵隊として駆り出され、南の海で死んだ旅人がいるということを、わたしは知っている。「ああ南溟(なんめい)の曉(あかつき)に 無念の涙胸に秘め 今永劫に散りゆきし 旅人ありと我は聞く」。

私たちの世界では、ウクライナとロシアとの戦争のために、ペンの代わりに銃をもって戦っている学生がいます。パレスチナのハマスとイスラエルとの戦争のために、本の代わりに銃をもって戦っている学生がいます。戦争は終わりそうもなく、私たちもこころを痛めつつ、このクリスマスを迎えています。

今日の聖書の箇所は「イエスの誕生」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書2章1−2節にはこうあります。【そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。】。

ローマ皇帝アウグストゥスが皇帝であったときに、全領土的な住民登録令はなかったと言われていますが、シリア州の総督であったキリニウスは、紀元7年に住民登録を行なったと言われています。税金を集めるための住民登録であったようです。為政者が住民登録を民に行なわせるのは、一般的に税金を集るためや、戦争のための兵隊の数がどのくらいあるのかということを確かめるためです。ローマ皇帝アウグストゥスは、「アウグストゥスの平和」というように言われ、ローマの人々に平和をもたらした人としてたたえられています。しかしそれはローマの人々の平和であって、支配をされた人々にとっての平和ではありません。イエスさまのお生まれになられた時代、ユダヤの人々はローマ帝国によって支配をされていました。

ルカによる福音書2章3−5節にはこうあります。【人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。】。

「住民登録をせよ」というわけですから、人々はいやおうなく、自分の出身の町へ行って、住民登録をすることになります。イエスさまのお父さんのヨセフさんも、自分の出身の町であるベツレヘムへといくことになります。マリアさんも一緒に登録をしなければなりません。マリアさんは身重であるのに、ヨセフさんと一緒に旅をすることになります。いまのように新幹線があるわけでも、電車やバスがあるわけでもありません。旅は危険を伴うものでした。旅の途中に、強盗に出会うというような危険もあります。しかし「住民登録には行くことはできません」と言うことはできないのです。為政者の決めたことに、人々は従うしかないのです。戦時下の日本でもそうでしたが、「赤紙」という召集令状が届いたら、「学生なので、行けません」ということはできないのです。

ルカによる福音書2章6−7節にはこうあります。【ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。】。

ヨセフさんとマリアさんはベツレヘムにやってきました。そしてマリアさんはイエスさまを産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。たくさんの人たちがいっぺんに住民登録のために、ベツレヘムにやっていたので、ヨセフさんとマリアさんは宿屋に泊まることができませんでした。出産という大変なことがあるわけですが、宿屋に泊まることができなかったのです。ルカによる福音書は、生まれたイエスさまを飼い葉桶に寝かせたと書いています。飼い葉桶は牛や馬に餌を食べさせるための桶であるわけです。イエスさまは生まれてふかふかのベッドで眠られたのではありませんでした。

ヨセフさんとマリアさんは為政者によって人生を翻弄されるふつうの人です。多くの人々は為政者たちの都合によって、右往左往させれます。とくにイエスさまの時代は、民主主義というようなことではないわけです。命令は上から突然おりてきます。「住民登録せよ」「これこれの税金をおさめよ」。ヨセフさんもマリアさんも、その命令に翻弄されつつ、生きていました。

「飼い葉桶に寝かせた」「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」とありますように、イエスさまは居場所のない民として、その歩みを始められました。マタイによる福音書2章13節以下には、「エジプトに避難する」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の2頁です。マタイによる福音書2章13ー15節にはこうあります。【占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。】。イエスさまは生まれてまもなく、難民として、エジプトに逃げることになります。ちょうどパレスチナのガザ地区の人々が、エジプトの方へ逃げようとしていたように、イエスさまもエジプトに逃げていくのです。

聖書は、イエスさまがうまれたときから、為政者によって翻弄され、危険な目にあったり、逃げ惑う人々と同じことを経験された方であることを、私たちに告げています。イエスさまは小さき者の苦しみを共にされた方でした。

そのようなイエスさまの誕生の知らせは、一番最初に羊飼いたちに届けられました。今日の聖書の箇所の「イエスの誕生」のつぎは、「羊飼いと天使」という表題のついた聖書の箇所です。野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしている羊飼いたちもまた、小さな者たちでした。その羊飼いたちに天使は、イエスさまの誕生の知らせを告げ、そして神を讃美します。ルカによる福音書2章14節の御言葉です。【「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」】。天使たちは「平和の君」であるイエスさまが、私たちのところにきてくださったことを告げています。

ウクライナとロシアの戦争、パレスチナとイスラエルの戦争。私たちの世界は争いに満ち、暴力によって自分の思いどおりにすることでもって、世の中を支配しようとする力に満ちています。そうしたなかにあって、私たちは私たちの救い主イエス・キリストが、平和の君として、私たちの世にきてくださったことを、しっかりと受けとめたいと思います。クリスマス、主の平和の年が来ますようにと祈りたいと思います。新しい年が、神さまの愛に満たされた年となりますように。神さまの平和が来ますようにとお祈りいたします。


  

(2023年12月24日平安教会朝礼拝式)

12月17日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「主の道をまっすぐに」


聖書箇所 ヨハネ1:19-28。236/242。

日時場所 2023年12月17日平安教会朝礼拝・アドヴェント3


アドヴェントの第三週を迎えました。ろうそくも3本たち、いよいよクリスマスが近づいてきました。アドヴェント(アドベント)とは、一般的に、イエス・キリストのご降誕をお祝いするための備えをする期間のことです。アドヴェントは5世紀くらいに始まったと言われています。イエスさまがよみがえられた日をお祝いするイースターの前に、イエスさまの十字架への苦しみを覚えるレントがあります。それに対応して、クリスマスの前に、アドヴェントという期間がもたれるようになったようです。

【たいこうせつ 待降節 Advent 教会暦によるクリスマス直前の期節。5世紀頃、ガリア(フランス)、スペインの教会は復活節を祝う洗礼の準備のために大斎節(レント)があるのに応じて顕現日(公現日)に行う洗礼の準備の断食節を設けた。そして6世紀に至って断食節は、その前の40日間となった。ローマ教会はこれをとりいれてクリスマスへの準備の時となし、11月30日に最も近い主日から始るものとした。(これを教会暦の1年の初めの時と見ることは8世紀から始まった。アドヴェントとは来臨の意で、主の受肉来臨すなわちクリスマスを迎える心の準備をするとともに再臨の準備の時にもなった。大斎節ほど厳重な断食節とはされていないが、来臨準備の厳粛な時として、この期間には結婚式は行わず、祝祭の頌歌も用いない)】(キリスト教大事典、教文館)。

ユダヤの人々は救い主の誕生を、何百年も待ち続けました。ダビデ王、ソロモン王をへて、イスラエルは二つの国に分裂し、そして結局は北王国イスラエルはアッシリアによって滅ぼされ、南王国ユダは新バビロニアによって滅ぼされます。その後も、ペルシャ帝国やローマ帝国によって、イスラエルの民は支配され続けました。ユダヤの人々はずっと、「私たちを救ってくださる救い主が来て下さる」との願いを持ち続けていました。そして神さまはこの世に救い主イエス・キリストを送ってくださいました。アドヴェントの期間は、まあほぼ1ヶ月というところです。待ち続けたユダヤの人々からすれば、ほんとうに短い期間です。短い期間ですけれども、こころを込めて、イエス・キリストのご降誕をお祝いする、こころの備えをしっかりとしたいと思います。

イエスさまの誕生の道備えをした人に、バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネと表題に書かれてあります)という人がいます。洗礼のことをバプテスマと言います。マルコによる福音書は、バプテスマのヨハネの登場で始まっています。マルコによる福音書1章1−6節にはこうあります。新約聖書の61頁です。【神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた】。バプテスマのヨハネは、人々に悔い改めを迫りました。その姿もらくだの毛衣を着て、腰に革の帯を締めていたというのですから、なんとなく恐いなあと思ってしまいます。

でもまあ、イエスさまの前に、バプテスマのヨハネが、人々をイエスさまへと導くために、準備してくれていたわけです。イエスさまからすれば、なかなか心強いことだと思います。バプテスマのヨハネはなかなか強そうですし、いいかなあとも思います。

先にだれかが来てくれていて、準備をしてくれているというのは、なかなかありがたいことであるわけです。今日は礼拝後、野の花会のクリスマス祝会がありますが、やはり野の花会の役員の方が早くから来て、いろいろと用意をしてくれていました。祝会に来る人にとっては、ありがたいことであるわけです。

さて、今日の聖書の箇所は、「洗礼者ヨハネの証し」という表題がついている聖書の箇所です。エルサレムのユダヤ人たちは、バプテスマのヨハネのところに、祭司たちを遣わして、ヨハネがだれであるのかを知ろうとしました。ヨハネによる福音書1章19-21節にはこうあります。【さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた】。

バプテスマのヨハネは「あなたは、どなたですか」と聞かれたとき、「わたしはメシアではない。わたしは救い主ではない」と、はっきりと言いました。すると祭司たちが、「あなたはエリヤなのか」と問いました。旧約聖書のマラキ書3章23節にはつぎのように書かれてあります。【見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす】。ですから世の終わりの前に、エリヤが再び現れるというふうに、当時の人々は考えていました。しかし、ヨハネはエリヤでもないと答えます。そして「あの預言者」でもないと答えました。「あの預言者」というのは、申命記18章15節に出てくる預言者で、「モーセのような預言者」とされています。人々はモーセのような預言者が現れて、自分たちを救ってくれると信じていました。しかしヨハネは、徹底して、「わたしはメシアではない。救い主ではない」と言いました。

ヨハネによる福音書1章22-23節にはこうあります。【そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」】。

バプテスマのヨハネは、イザヤ書40章3節の言葉を用いて、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」と言います。救い主の前に、神さまの道を整えるのが、わたしの仕事だと言いました。救い主が来られる前に、その備えをするのが、わたしの仕事だと言いました。

ヨハネによる福音書1章24-28節にはこうあります。【遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった】。

ファリサイ派の人々は、「あんたはメシアでも、エリヤでもないのに、なんでそんなに好き勝手に、洗礼を授けて、私たちに悔い改めを迫っているんだ。ちょっと態度がでかいのではないか。私たちに刃向かうつもりのか」と、バプテスマのヨハネを問いつめたわけです。しかしバプテスマのヨハネはそうした政治的なこととは、別の答えをします。ファリサイ派の人々がこの世的な視点で、バプテスマのヨハネを問いつめているのに対して、バプテスマのヨハネはどちらかというと、夢見心地な感じです。ファリサイ派の人々の方を向いてないわけです。あんまり相手をしていないのです。バプテスマのヨハネはファリサイ派の人々を見ていたのではなく、バプテスマのヨハネは神さまの方を、そして自分の後にこられるイエスさまのことを見ていました。そして言いました。【「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」】。

バプテスマのヨハネは、イエスさまが来る前に、人々の心をイエスさまに向けるための働きを行いました。そしてバプテスマのヨハネは、自分は「わたしはその履物のひもを解く資格もない」と言い、高ぶることなく、へりくだって歩んでいました。牧師就任式のときに、中国の小説家の魯迅の「一本の花を育てることができさえすれば、やがて朽ちはてる腐草(ふそう)となるもよかろう」(『近代世界短編小説集』小引)という言葉を紹介いたしました。魯迅という人も、自分がえらそうに何事かをなすのだというふうに考えたのではなくて、後に来る人のために、いま良き働きを行っていこうと考えていました。私たちもまた、「後に来る人のために」という視点をもたなければならないのだと思います。

アドヴェントは、クリスマスの前の期間というのが一般的ですが、もうひとつは、キリストの再臨という意味で使われます。イエスさまが再び来られるときということです。十字架上で天に召され、よみがえられたイエスさまは、弟子たちと共にすごされたのち、天に昇って行かれました。使徒言行録1章にありますけれど、【「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる】とあります。そういった意味で、私たちはいま二つのアドヴェントを過ごしているわけです。

ひとつはクリスマスの前のイエスさまがお生まれになられるのを待っているということ、そしてもう一つはイエスさまが再び来てくださる時を待っているということです。今日の旧約聖書の箇所は、マラキ書3章19-24節です。新共同訳聖書では、マラキ書3章19-24節ですが、口語訳聖書では4章1−6節になっています。旧約聖書の一番終わりの言葉です。マラキ書3章23-24節には【 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。 彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないよう】とあります。終わりの時を背景にして、救い主が語られています。使徒信条にも「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」とありますように、終わりの日の再臨のキリストを、私たちは待っています。

イエスさまが再び来て下さるのを待っているということでは、私たちは救い主の誕生を待っていたユダヤの人たちと同じようなものです。長い長い間、イエスさまを待ち望んでいます。そして私たちは、終末に来られるイエスさまを待ちながら、バプテスマのヨハネのように、イエスさまの道備えをする役割を、イエスさまから託されているのです。

「バプテスマのヨハネのようにならねば」と気負うこともないわけですが、しかし私たちには私たちに小さい働きかもしれないけれど、神さまがひとりひとりに託して下さっている働きがあるのです。神さまが私たちに「主の道をまっすぐに」するため歩みなさいと、私たちを召して下さっていることを覚えたいと思います。

ウクライナでの戦争、パレスチナでの戦争。いま世界は曲がりくねった道を歩んでいます。私たちは平和の主が歩まれたように、「主の道をまっすぐに」するために祈りたいと思います。

また私たちの心が曲がってしまわないように、祈りたいと思います。「どうせ、どうにもならないんだ」「世の中、そういうもんなんだ」「力の強い者が、力でこの世を治めるのが、この世の中なんだ」。そうした思いをもってしまうことが、私たちにはあります。しかし私たちの後には、イエス・キリストがおられます。イエス・キリストは、自らをむなしくし、私たちの罪のために、十字架についてくださいました。力でこの世をねじ伏せるのではなく、神さまの愛で、私たちを救ってくださったイエス・キリストがおられます。

バプテスマのヨハネは、【その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない】と言いました。バプテスマのヨハネは、すごい方が、自分のあとからこられることを知っていました。自分の小ささを、バプテスマのヨハネはよく知っていました。しかしそれでも、バプテスマのヨハネは自分のなすべきことを、精一杯行いました。私たちの力のなさや、弱さをよく知っています。大したことはできないということもよく知っています。それでも精一杯、イエスさまをお迎えするための備えをしたいと思います。「主の道をまっすぐに」と祈りたいと思います。

私たちはこの世にあって、主イエス・キリストの道ぞなえをする者として、招かれています。愛の主が、私たちに教えてくださったように、私たちは神さまの愛を信じ、求め、「主の道をまっすぐに」と祈りつつ、歩んでいきましょう。


(2023年12月17日平安教会朝礼拝・アドヴェント3)


2023年12月14日木曜日

12月10日平安教会礼拝説教要旨(石川立牧師)

「正しい人ヨセフ、恐れなくてよい」  石川立牧師

マタイによる福音書1章18-25節


今年10月、中東で再び戦争が始まりました。一般に戦争では各陣営は自らの<正義>によって戦いを正当化します。人間の<正義>は人を救うどころか、戦いを激化させ、シャローム(平安)を壊すものにもなります。旧約聖書では、神は<義>の神であり、<正しい>のは神のみです。<正しい>人はひとりもいません。聖書に<正しい人>という表現はありますが、それは日常的な言葉であり、せいぜい、律法をそつなく守り、周囲の評判も上々の人のことを指すにすぎません。

アドベントにふさわしい聖書箇所の一つ、マタイ福音書1章18-25節によれば、ヨセフは<正しい人>だったので、ヨセフによることなく身ごもったマリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した、とあります。このような場合、ヨセフが<正しい人>であるならば、本来、律法に従って、マリアを石打ちの刑によって罰しなければなりません。ところが彼はマリアを罰せず、事態を隠そうとしました。これは律法に背くことなので、彼は逆に自分が罰せられるのではないかと恐れました。ヨセフが眠りにつくと、夢の中に主の天使が現れ言いました。「ヨセフ、恐れなくてよい。マリアを迎え入れなさい。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」。この言葉によってヨセフは自らの<正しさ>から解かれ、癒されることになります。ヨセフは眠りからさめると、とくに無理することもなく主の天使の言葉どおりマリアを妻として迎え入れることができました。

 主の天使の言葉のあとに示されるインマヌエルの名は「神は私たちと共におられる」という意味です。イエスという名は救いを表しますが、インマヌエルの名によって、イエスが、先頭に立って人々を導く英雄というよりも、私たち一人ひとりにいつも寄り添ってくださる救い主であることが示されました。イエスは救い・愛そのものです。旧約の時代、<義>の神は裁く神、罰する神として恐れられてきました。ところが、私たちと共にいてくださる御子のご降誕により、人間の<正しさ>はむなしいものとされ、神様の<義>が実は、裁きではなく救いであり、罰ではなく愛であるということが明らかになったのです。

私たちは人間の<正義>を主張するのではなく、ヨセフのように、この世に誕生してくださった<義>なる神の御子を、あわれみの救い主として、神の愛として、シャローム(平安)の主としてお迎えしたいものです。


2023年12月6日水曜日

12月3日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

「私たちを救ってくださるイエスさま」

 

聖書箇所 ヨハネ7:25-31。231/241。

日時場所 2023年12月3日平安教会朝礼拝式、アドヴェント第一週

  

アドヴェントに入りました。教会にもクリスマスツリーが飾られ、クリスマスの準備がなされました。

クリスマスによく読まれる本に、トルーマン・カポーティの『あるクリスマス』(文藝春秋)という本があります。トルーマン・カポーティがお父さんと過ごした最初で最後のクリスマスについて書かれてある本です。わたしはこの本が好きで、クリスマスになると引っ張り出してきて、よく読みます。

トルーマン・カポーティのお父さんとお母さんは、トルーマン・カポーティが小さい頃、離婚をします。そしてトルーマン・カポーティはお母さんの実家に預けられ、大家族のなかで育てられます。トルーマン・カポーティは、一人のいとこと仲が良かったのです。その人の名前はスックと言いました。物語はトルーマン・カポーティとお父さんの話ですから、このスックという人がそんなに登場するわけでもないのですが、わたしにとってはとても気になる人です。

【とりわけ一人のいとこと僕は親しかった。いとこといっても、彼女は僕よりもずっと年上で、髪は白く、軽いびっこを引いていた。名前はスックと言った。ミス・スック・フォーク。他に友達もいたけれど、何といってもこのスックが僕の親友だった。サンタクロースのことを僕に教えてくれたのはスックだった。たっぷりとした顎髭(あごひげ)、赤い衣装、プレゼントを満載したじゃらじゃらと音のする橇(そり)。僕は彼女のその言葉を信じた。すべての物事は神の意志、あるいはスックの言い方によれば「主」の御こころ、であると信じていたように。僕が爪先をどこかにぶっつけたり、馬から落ちたり、クリークで大きな魚を釣りあげたりすれば、それは良いことであれ、悪いことであれ、すべて主の御こころだった】(P.11-13)。

トルーマン・カポーティの大親友のミス・スック・フォークは、なんでも「主の御こころ」と考えているような人でした。爪先をどこかにぶっつけて痛い思いをするのも、主の御こころ。馬から落ちるのも、主の御こころ。大きな魚を釣り上げるのも、主のみこころ。なんでも「主の御こころ」というのは、まあばかげているような気もいたします。しかし『あるクリスマス』に出てくるミス・スック・フォークの信仰がとても好きで、「主の御こころ」がなされていくのだというような信仰を、わたし自身ももっています。

世界はわたしが思うようには、なかなか変わっていきません。わたしが「ウクライナに平和が来ますように」とずっと祈ってきたのに、なかなかウクライナに平和がやってきません。ウクライナに平和がやってこないどころか、今度、イスラエルとパレスチナの対立が深まり、たくさんの人々が殺され、わたしは「パレスチナに平和が来ますように」と祈っています。世界はわたしが思うようには、なかなか変わっていきません。しかしわたしは必ず「主の御こころが」がなされていくのだと信じています。「主の平和が必ずくる」「神さまの国が来る」と信じています。私たちを救ってくださる神さまがおられるということを、わたしは信じています。

今日の聖書の箇所は「この人はメシアか」という表題のついた聖書の箇所です。この「この人はメシアか」という表題がついた聖書の箇所の次が、「下役たち、イエスの逮捕に向かう」という表題のついた聖書の箇所になります。ですから、イエスさまの周りがだんだんと危険になってきているということがわかります。

ヨハネによる福音書7章25−27節にはこうあります。【さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」】。

イエスさまの時代のユダヤの人々は、救い主メシアが現れて、自分たちを救ってくださるということを信じていました。それでとてもすごい人だという人が出てくると、「その人がメシアではないか」というように思ったわけです。バプテスマのヨハネなども、まあそのように思われたのでした。イエスさまの時代、ユダヤはローマ帝国によって支配をされていました。ですから多くの人々は国が強くなって独立国になることを願っていました。ですから救い主メシアというのは、政治的な指導者というような意味もふくんでいたわけです。「いつか救い主メシアが現れ、私たちの国を以前のダビデ王やソロモン王が納めていたような立派な国にしてくださる」というような思いをもっていたわけです。しかしもう一方で、救い主メシアは世の終わり・終末に現れて、私たちの世界を根底から変えてくださり、神さまの国としてくださるのだというような思いももっていました。

ヨハネによる福音書は、イエスさまは神さまの御子として、私たちの世に来てくださり、私たちに永遠の命へと導いてくださる方であることを、私たちに告げています。そして神さまから離れて生きていこうとする罪深い、神さまの前にふさわしくない私たちがいること。そうした罪深い私たちのために、イエスさまが十字架によって私たちをあがなってくださる。そうした意味での救い主メシアが、イエスさまであることを告げています。そしてそれは神さまのご計画であり、神さまの御こころであることを告げています。

エルサレムの人々の中には、イエスさまのことを信じる人もいれば、イエスさまのことを信じない人々もいました。イエスさまは信じない人々は、イエスさまを殺そうとねらっていました。しかしイエスさまはそうしたことにひるむこともなく、神さまのことを宣べ伝えておられました。イエスさまのことを信じない人々はこう言いました。救い主メシアはどこから来るかだれも知れないはずだ。しかし私たちはイエスのことを知っている。イエスはナザレの出身で、ヨセフとマリアの子どもだ。そんなイエスが救い主であるはずがない。

ヨハネによる福音書7章28−29節にはこうあります。【すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」】。

イエスさまはエルサレムの人々が、自分のことをあざけっているのを聞いて、大声で言われました。あなたたちはわたしがどこ出身であるかを確かに知っているかも知れない。しかしそうしたことは関係ない。わたしは神さまがお遣わしになったのだ。わたしを遣わされた神さまは真実な方である。わたしは神さまを知っている。わたしは神さまの御子として、神さまのところからやってきたのだ。神さまがわたしをお遣わしになられたのだ。そのようにイエスさまは言われました。

ヨハネによる福音書7章30−31節にはこうあります。【人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。】。

イエスさまのことをよく思っていない人々は、イエスさまを捕まえようとします。しかしイエスさまを捕まえることはできませんでした。イエスさまのことを信じることができない人々がいる一方で、イエスさまのことを信じる人々もたくさんいました。「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」。イエスさまはいろいろな奇跡もなさっておられました。ですからイエスさまのことを、救い主メシア以上にすばらしい人ではないのかというようにさえ言う人々もいたわけです。

「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」という群衆の言葉は、イエスさまに対しての誉め言葉であると同時に、イエスさまに対する誤解も含んでいる言葉であるような気がします。人々はやはりこの世的な意味でのすばらしさを、イエスさまに対して求めているということです。それは預言者的な格好の良さというようなものであるような気がいたします。

預言者モーセや預言者エリヤのような格好の良い預言者です。預言者モーセはエジプトで苦しんでいた人々を、乳と蜜の流れる国へと導いてくれました。エジプトの悪いファラオをやっつけ、周りの悪い王様たちを滅ぼし、人々を導いてくれました。預言者エリヤは神さまの言葉によって、自分たちの国の王様を批判し、この世に神さまの正義と平和を表してくれました。預言者モーセも預言者エリヤも、いろいろな奇跡を行ない、民の苦しみを取り除いてくれました。とても頼もしく、そして格好の良い預言者でした。群衆はそうしたことをイエスさまにも期待をし、イエスさまが行われたいろいろな奇跡に、預言者モーセや預言者エリヤの再来としてのイエスさまを見たのでした。

イエスさまはもちろん奇跡を行われましたし、また力強くユダヤの指導者たちを批判することもありました。しかしイエスさまはそのことのために、私たちの世に来られたのではありませんでした。いえすさまは神さまの御子として、私たちを救ってくださるために、神さまによって遣わされました。そしてイエスさまは神さまの御こころを行ない、神さまがご計画された十字架への道を歩まれました。イエスさまは悪を裁く預言者として、私たちの世に来られたのではありません。私たちを罪からあがなう救い主メシアとして、私たちの世に来てくださったのです。私たちのことをすべて知ってくださり、私たちの中の邪な思いを知りつつ、私たちを赦し、私たちに神さまの御子として永遠の命を受け継ぐ者としてくださるために、救い主イエス・キリストは私たちの世に来てくださったのです。

イエスさまは困難な私たちの世にあって、「神さまの御こころがなされていく」ことを、私たちに教えてくださっています。【わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」】。わたしをお遣わしになられた神さまの御こころがなされていく。

ヨハネによる福音書6章22節以下には、「イエスは命のパン」という表題のついた聖書の箇所があります。そこでイエスさまはつぎのように言われます。ヨハネによる福音書6章38−40節の御言葉です。新約聖書の176頁です。ヨハネによる福音書6章38−40節にはこうあります。【わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」】。

神さまは私たちを愛してくださり、私たちに大切な独り子である御子イエス・キリストを、私たちの世に送ってくださいました。イエスさまは十字架につくことによって、私たちの罪をあがなってくださり、私たちを救ってくださいました。私たちにはとうてい考えられない神さまの御こころによって、私たちは神さまの御前に正しいものとされ、永遠の命を受け継ぐものとされました。

アドヴェントに入りました。救い主イエス・キリストが、私たちの世にきてくださいます。私たちのすべてを知った上で、私たちを赦してくださり、私たちを救ってくださる救い主イエス・キリストが私たちにところにきてくださいます。アドヴェント、イエスさまを迎える準備をしながら、私たちのこころも整えていきたいと思います。私たちを救ってくださったイエスさまに感謝しつつ、この喜びを隣人に届けていきたいと思います。

どんなとき、共にいてくださり、私たちを支え導いてくださる救い主イエスさまがおられます。大きな希望をもって歩んでいきましょう。




  

(2023年12月3日平安教会朝礼拝式、アドヴェント第一週)

    

12月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 

               ティツィアーノ・ヴェチェッリオ               《聖母子(アルベルティーニの聖母)》