「主の平和の年がやってくる」
聖書箇所 ルカ2:1-7。261/264。
日時場所 2023年12月24日平安教会朝礼拝式
クリスマス、おめでとうございます。
主イエス・キリストのご降誕をこころからお祝いいたします。
11月11日にわたしの出身大学の恩師の記念会で、高松に行きました。そのとき、わたしの出身大学は香川大学という大学なのですが、ことし大学創立100周年であることを知りました。わたしの恩師は、山崎怜(やまさき・さとし)という経済学者です。創立100周年記念行事に合わせて、山崎怜先生の記念会を計画されたようでした。記念会の最後に、香川大学の逍遥歌を歌いました。香川大学の前身の旧制高松工商時代から歌われている学生歌のようなものです。わたしは在学中、歌った記憶はないのですが、寮生などの中ではよく歌われていたようです。長らく埋もれていたものを、わたしの恩師の山崎怜先生が掘り起こして、「この歌はこういう歌なのだ」ということを香川大学経済学部の後援会の季報にのせたということでした。
1番の歌詞はこうです。「旅とこそ聞け人の世は その旅を我雄々しくも 一人来たりてうるわしの 瀬戸を渡りし旅人ぞ」。なんとなく人生を旅にたとえているような歌のようです。「瀬戸を渡りし旅人ぞ」というのは、「わたしも瀬戸内海を渡って、京都の地まで来たなあ」と思います。
まあ、それは良いのですが、3番の歌詞は、こうです。「ああ南溟(なんめい)の曉(あかつき)に 無念の涙胸に秘め 今永劫に散りゆきし 旅人ありと我は聞く」。「ああ南溟(なんめい)の曉(あかつき)に 無念の涙胸に秘め 今永劫に散りゆきし 旅人ありと我は聞く」。「南溟」というのは、「南方の大きな海」ということです。「南方の海、明け方に、無念の涙を胸に秘めて、もう帰ることのなく散っていった、旅人がいると、わたしは聞いた」という歌詞です。
わたしの出身大学の逍遥歌というのは、学生であった学友か先輩が兵隊となり、南の海で死んでしまったことを記念して歌われているということです。もっと勉強をしたかったが、学びの途中で兵隊として駆り出され、南の海で死んだ旅人がいるということを、わたしは知っている。「ああ南溟(なんめい)の曉(あかつき)に 無念の涙胸に秘め 今永劫に散りゆきし 旅人ありと我は聞く」。
私たちの世界では、ウクライナとロシアとの戦争のために、ペンの代わりに銃をもって戦っている学生がいます。パレスチナのハマスとイスラエルとの戦争のために、本の代わりに銃をもって戦っている学生がいます。戦争は終わりそうもなく、私たちもこころを痛めつつ、このクリスマスを迎えています。
今日の聖書の箇所は「イエスの誕生」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書2章1−2節にはこうあります。【そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。】。
ローマ皇帝アウグストゥスが皇帝であったときに、全領土的な住民登録令はなかったと言われていますが、シリア州の総督であったキリニウスは、紀元7年に住民登録を行なったと言われています。税金を集めるための住民登録であったようです。為政者が住民登録を民に行なわせるのは、一般的に税金を集るためや、戦争のための兵隊の数がどのくらいあるのかということを確かめるためです。ローマ皇帝アウグストゥスは、「アウグストゥスの平和」というように言われ、ローマの人々に平和をもたらした人としてたたえられています。しかしそれはローマの人々の平和であって、支配をされた人々にとっての平和ではありません。イエスさまのお生まれになられた時代、ユダヤの人々はローマ帝国によって支配をされていました。
ルカによる福音書2章3−5節にはこうあります。【人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。】。
「住民登録をせよ」というわけですから、人々はいやおうなく、自分の出身の町へ行って、住民登録をすることになります。イエスさまのお父さんのヨセフさんも、自分の出身の町であるベツレヘムへといくことになります。マリアさんも一緒に登録をしなければなりません。マリアさんは身重であるのに、ヨセフさんと一緒に旅をすることになります。いまのように新幹線があるわけでも、電車やバスがあるわけでもありません。旅は危険を伴うものでした。旅の途中に、強盗に出会うというような危険もあります。しかし「住民登録には行くことはできません」と言うことはできないのです。為政者の決めたことに、人々は従うしかないのです。戦時下の日本でもそうでしたが、「赤紙」という召集令状が届いたら、「学生なので、行けません」ということはできないのです。
ルカによる福音書2章6−7節にはこうあります。【ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。】。
ヨセフさんとマリアさんはベツレヘムにやってきました。そしてマリアさんはイエスさまを産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。たくさんの人たちがいっぺんに住民登録のために、ベツレヘムにやっていたので、ヨセフさんとマリアさんは宿屋に泊まることができませんでした。出産という大変なことがあるわけですが、宿屋に泊まることができなかったのです。ルカによる福音書は、生まれたイエスさまを飼い葉桶に寝かせたと書いています。飼い葉桶は牛や馬に餌を食べさせるための桶であるわけです。イエスさまは生まれてふかふかのベッドで眠られたのではありませんでした。
ヨセフさんとマリアさんは為政者によって人生を翻弄されるふつうの人です。多くの人々は為政者たちの都合によって、右往左往させれます。とくにイエスさまの時代は、民主主義というようなことではないわけです。命令は上から突然おりてきます。「住民登録せよ」「これこれの税金をおさめよ」。ヨセフさんもマリアさんも、その命令に翻弄されつつ、生きていました。
「飼い葉桶に寝かせた」「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」とありますように、イエスさまは居場所のない民として、その歩みを始められました。マタイによる福音書2章13節以下には、「エジプトに避難する」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の2頁です。マタイによる福音書2章13ー15節にはこうあります。【占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。】。イエスさまは生まれてまもなく、難民として、エジプトに逃げることになります。ちょうどパレスチナのガザ地区の人々が、エジプトの方へ逃げようとしていたように、イエスさまもエジプトに逃げていくのです。
聖書は、イエスさまがうまれたときから、為政者によって翻弄され、危険な目にあったり、逃げ惑う人々と同じことを経験された方であることを、私たちに告げています。イエスさまは小さき者の苦しみを共にされた方でした。
そのようなイエスさまの誕生の知らせは、一番最初に羊飼いたちに届けられました。今日の聖書の箇所の「イエスの誕生」のつぎは、「羊飼いと天使」という表題のついた聖書の箇所です。野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしている羊飼いたちもまた、小さな者たちでした。その羊飼いたちに天使は、イエスさまの誕生の知らせを告げ、そして神を讃美します。ルカによる福音書2章14節の御言葉です。【「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」】。天使たちは「平和の君」であるイエスさまが、私たちのところにきてくださったことを告げています。
ウクライナとロシアの戦争、パレスチナとイスラエルの戦争。私たちの世界は争いに満ち、暴力によって自分の思いどおりにすることでもって、世の中を支配しようとする力に満ちています。そうしたなかにあって、私たちは私たちの救い主イエス・キリストが、平和の君として、私たちの世にきてくださったことを、しっかりと受けとめたいと思います。クリスマス、主の平和の年が来ますようにと祈りたいと思います。新しい年が、神さまの愛に満たされた年となりますように。神さまの平和が来ますようにとお祈りいたします。
(2023年12月24日平安教会朝礼拝式)