2024年1月29日月曜日

1月28日平安教会礼拝説教要旨(老田信牧師)「神の国を目指して」

「神の国を目指して」 老田信牧師

マタイによる福音書20章1〜16節

 イエスは天の国の一つのイメージをとして、「ぶどう園の労働者のたとえ」を語られました。しかし、私たちはこのたとえにつまずきます。というのも、私たちの多くがこの話の中で、夜明けから丸一日働いた人と5時から働いた人が同じ賃金であることに不公平さを感じるからです。結果、このイエスのたとえが腑に落ちず、歓迎できません。

 しかし、このたとえには次のようなことが書かれてあります。「午後5時ごろにも…人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは『誰も雇ってくれないのです』と言った」。明け方から働ける人というのは、誰が見ても申し分のない働き盛りの男性であり、「役に立つ」人です。午後5時になっても雇ってもらえない人は、反対にどこの雇い人も雇いたいとは思わなかった人だということです。彼らは決してサボっていたわけではありません。

 雇い人が雇いたいと思わない人とはどのような人なのか考えてみると、障がい者、高齢者等、少なくとも働き盛りの健康な男性ではありません。つまりマイノリティです。

 マジョリティとマイノリティは、「多数派」「少数派」に加え、「特権側」と「従属側」あるいは「周辺側」という意味を持ちます。

 午後5時まで職探しに明け暮れていた彼らは、明らかに周辺に置かれた者です。イエスは中央のエルサレムではなく、ガリラヤのナザレでお育ちになり、自らもそのような存在となりました。またまずガリラヤで伝道し、周辺の人たちに向けて福音を宣べ伝えたのでした。このようにして社会が後ろに置きがちな人のところへと先に来たのです。しかし全ての人が1デナリオンをもらっているように、神は誰一人として不足な状態に追いやるのではなく、満たしています。そしてそのようなところを「天の国」と言っているのです。

 私たちはこのような神の国の実現を待ち望む者として、教会に集まっています。最も良いところとして、主イエスが示してくださっています。しかしただ待ち望むだけではもったいない。せっかく最も良いところのイメージを与えてくださっているのですから、具体化して予行演習をしたいのです。教会はそのような神の国の予行演習の場として与えられています。ぜひとも平安教会の皆さんが今の平安教会ならではの神の国を表現してください。そしてそれを多くの人と分かち合い、さらに発展させていくことが出来ますように祈りましょう。


1月21日平安教会礼拝説教要旨(宮岡信行牧師)「水汲み人生に起きる最初の奇跡」

「水汲み人生に起きる最初の奇跡」 宮岡信行牧師

ヨハネによる福音書 2:1-12節

イエス様の奇跡は福音のしるしです。カナの婚礼はイエス様の最初の奇跡であり、同時に私たちに与えられた最初のしるしです。そもそもぶどう酒は神様の祝福の象徴であり、婚礼ではぶどう酒こそが最上の喜びでした。ところが、その婚礼でぶどう酒が無くなるという問題が起こります。その時、母マリアだけがイエス様と召使たちを仲介するように声をかけます。母マリアがイエス様にとりなしたことで奇跡の予兆が示されました。そして、これが世にある教会の働き、この地に建てられた教会の役割なのです。喜びを失う世界に教会があるのはなぜか。私たちが主日の礼拝をするのはなぜか。それは神の恵みとキリストの復活を信じる教会の喜びが、この世に神の救いを指し示す大切なしるしになるからです。

一方で、思いがけない良いぶどう酒の登場に大喜びする宴会の世話役は、まだ天の国の喜び、救いの恵みに気付いていない人の姿です。宴会のような華やかな人生に満足しながらも、見えないものに目を注いでより善く生きるような最上の喜びを知らないのです。私たちの周りにもぶどう酒に変わった水を飲んで大喜びしてもらいたい人がいるのではないでしょうか。

この時、召使たちが水をくんで淵までいっぱいにした6つの石の水がめはおよそ合計600㍑ほどでした。水汲みは地味で単調な作業です。その努力が形や成果にならず、どれだけ水がめに汲んでも使えば何も残りません。にもかかわらず、イエス様はぶどう酒という喜びがなくなりそうな困難な時にも、いつものように水くみをしなさいと言われるのです。誰もが何の役に立つのか分からなかったことでしょう。ところが、水を汲んだ召使いたちが宴会の世話役のところに水を運んだところ、水はぶどう酒に変わっていました。

水がぶどう酒に変わる。この奇跡を目の当たりにしたのは、水を汲んできた召使いだけでした。思いがけない神の恵みが広がるところにいた召使いたち。彼らこそ私たち自身なのです。カナの婚礼は繰り返しキリのない水汲みのような人生に、初めて起きた神さまの祝福のしるしを語ります。誰もが楽しむ婚礼の席に、神さまの恵みを持ち込むのは私たちです。喜びが失われたところに最上のぶどう酒を運ぶのは私たちの役割です。これほど喜ばしいことがあるでしょうか。水汲み人生に最初に起きる奇跡、すなわち私たちが主イエスに呼び集められ、教会で礼拝を献げて、この世に証しを立てる、神の救いのしるしになる。この喜びを抱いて歩む者でありたいと切に願っています。


2024年1月18日木曜日

1月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「イエスさまに引き寄せられて」

 「イエスさまに引き寄せられて」

 

聖書箇所 ヨハネ1:35-51。6/456。

日時場所 2024年1月14日平安教会朝礼拝式・成人祝福の祈り


わたしは愛媛県の今治市の出身で、今治市には今治教会があり、わたしはその付属のめぐみ幼稚園という幼稚園に通っていました。父がクリスチャンで、今治教会の会員でしたので、めぐみ幼稚園に通っていたのだと思います。めぐみ幼稚園を卒園して、しばらくは教会学校に通っていたのですが、すこしするとあまり熱心に通うこともなくなっていました。そののちまた何かのきっかけで教会学校に通うことになりました。たぶん小学校のクラス替えがあり、教会学校に通っている友達もたくさんいたので、なんとなくまた通うようになったのだと思います。その後も、ずっと教会学校に通い、高校生から大人の礼拝に出席をするようになり、そして大学に入学する前に、洗礼を受けて、クリスチャンになりました。わたしはちいさなときから教会に通っていますので、その信仰はどちらかというと幼稚です。「神さま、お守りくださり、ありがとうございます」「神さま、だいすきです」という信仰です。まあなんとなく、ぼんやりと教会にいて、信じるようにだんだんとなってきたという感じでしょうか。もちろん同志社大学の神学部で学問として、神学を学んでいますので、そうした学問的な知識に基づいて、聖書の話をしています。しかしそうしたこととは別に、信仰的には素朴な信仰ということです。

いま牧師をしているわたしの友人は、私たちが高校生1年生のときに、今治教会に来るようになりました。高校生の時に夏のキャンプを、高校生で計画を立てるのですが、数が少ないと面白くないので、友達を誘って、夏のキャンプに行きます。わたしの幼なじみの友人が「よし、おれの友だちが、いま高校受験に失敗して、暇にしているから、連れてくる」と言って、連れてきたのが、彼でした。大学受験に失敗をして浪人をしているという人はまあ当時たくさんいたと思いますが、高校受験に失敗をして浪人をしているという人は、そんなに多くはなかっただろうと思います。いまから考えると、高校受験に失敗して浪人をしている人を、暇にしている奴がいるから連れてくるというのは、まあなんともデリカシイのない人だなあと思います。しかしそれ以後、彼は教会に来るようになりました。わたしの友人は、そしてその後、いろいろなことがあるわけですが、わたしと同じように牧師になりました。

クリスチャンになる道というのは、まあいろいろあるのだろうと思います。わたしはなんとなく教会に居着いたというような形で、あまり感動のない形で牧師になっています。しかし当時、教会学校に来ていたこどもというのは一学年に50人とかいたわけで、だからといってみんながみんなクリスチャンになっているわけでもないのです。

わたしの友人の牧師は、なんだか引き寄せられるように、教会に来るようになりました。「高校浪人中だから、勉強をしなければならないので、教会の高校生会の夏のキャンプになんか参加できるわけがないだろう。おまえ、どういうつもりでオレを誘ってるんだ」と言っても良かったわけですが、彼は夏の高校生会の夏のキャンプに参加をするのです。そしてイエスさまに引き寄せられて、彼の信仰生活が始まるのです。

今日はイエスさまのお弟子さんたちの話です。今日の聖書の箇所は、「最初の弟子たち」「フィリポとナタナエル、弟子となる」という表題のついた聖書の箇所です。弟子選びということであれば、私たちはイエスさまがガリラヤの漁師であった、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネを弟子にされた話を思い出します。

マルコによる福音書1章16−20節には、「四人の漁師を弟子にする」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の61頁です。マルコによる福音書1章16−20節にはこうあります。【イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。】。この「四人の漁師を弟子にする」という聖書の箇所は、マタイによる福音書にも、ルカによる福音書にも書かれてある話ですので、この話のほうが一般的であるわけですが、ヨハネによる福音書では「最初の弟子たち」ということでは、また違った話が書かれてあります。ヨハネによる福音書以外には、この話が書かれてありませんので、ヨハネによる福音書独自の話であるわけです。

ヨハネによる福音書1章35−39節にはこうあります。【その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ——『先生』という意味——どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。】

洗礼者ヨハネは二人の弟子に、イエスさまが歩いておられるのを見て、「見よ、神の小羊だ」と言います。洗礼者ヨハネは自分は救い主が現れる前に、少しでも神さまの方へと人々を導くのが自分の役割だと思っていました。そしてイエスさまを見て、この方こそ救い主であり、世の罪を取り除く方だと、イエスさまのことを「神の小羊だ」と言われました。洗礼者ヨハネの弟子たちは、イエスさまについていきます。実際に洗礼者ヨハネの弟子たちが、イエスさまについていくということがあったのでしょう。

ヨハネによる福音書1章40−42節にはこうあります。【ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア——『油を注がれた者』という意味——に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ——『岩』という意味——と呼ぶことにする」と言われた。】。

ヨハネによる福音書では、ペトロの兄弟であるアンデレは、もともとは洗礼者ヨハネの弟子であったということが言われているわけです。ほかの福音書ではペトロとアンデレは、イエスさまの呼びかけに応えて、一緒にイエスさまに従ったという話であるわけです。しかしヨハネによる福音書は、まずアンデレがイエスさまについていき、そして兄弟であるペトロを誘ったという話になっています。アンデレはペトロに、救い主に出会ったと言って、ペトロをイエスさまのところに連れていきます。するとイエスさまはペトロを見つめて、「あなたはシモンという名前だけれども、ケファと呼ぶことにする」と言われます。ペトロが土台となって、教会が全世界に建てられていくということで、ペトロは「ケファ」、「岩」ということになるわけです。

ヨハネによる福音書1章43−46節にはこうあります。【その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。】。

フィリポは、イエスさまから「わたしに従いなさい」と言われて、素直に、イエスさまに従っていきます。フィリポはナタナエルに出会い、そしてイエスさまというすごい人がいるからと、ナタナエルに話します。「律法や預言書に書かれてある救い主のことなんだが、それはわたしが出会ったナザレのイエスという人なんだ」と、フィリポはナタナエルに話します。しかしナタナエルは「そんな、ナザレなんていう田舎町から、すごい人が出てくるわけないじゃないか」と言うわけですが、しかしフィリポは「とにかく、来てみたらわかるから」と言って、ナタナエルをイエスさまのところに連れてきます。

ヨハネによる福音書1章47ー48節にはこうあります。【イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた】。

イエスさまはナタナエルのことをえらくほめるわけです。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」。ナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」というようないじわるなことを言う人であるわけですが、でも良い人であったようです。イエスさまから「この人には偽りがない」と誉められて、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と応えるというのも、なんとなくわたしとしては気になるところですが、それはまああまり細かいところは気にせずに読んだほうがよいわけです。「この人には偽りがない」と誉められたことに反応して、「どうしてわたしが偽りのないすばらしい人であることを知っているのですか」といったのではなく、たんに自分はイエスさまのことを知らないのに、どうしてイエスさまはわたしのことを知っているのですかと尋ねたということです。

イエスさまはナタナエルがいちじくの木の下にいるのを見たと言われます。この聖書の箇所ではなにか「いちじくの木の下」というのが、とても特別なことのように語られています。ナタナエルがいちじくの木の下にいたから、まことのイスラエル人であり、偽りのない人であるかのように言われています。柿の木じゃダメなのとか、なつめやしじゃあダメなのと思いますが、まああまり深く考えず、当時、いちじくの大きな木の下でユダヤ教の教師が弟子たちに教えていたというようなことから、いちじくの木の下というのは、まじめに国をよくしようと勉強している人たちがいるというような印象があったのではないかと言われています。日本であれば、「大きな栗の木の下」には「仲良く遊ぶ人がいる」という印象があったり、「桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている」という印象があるわけですが、イエスさまの時代のユダヤでは、「いちじくの木の下」には良く勉強するりっぱな良い人たちが集っているという印象であったようです。

ヨハネによる福音書1章49−51節にはこうあります。【ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」】

ナタナエルはイエスさまに対して、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と応えます。イエスさまから「いちじくの木の下にあなたがいるのを見た」「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と誉められたから、イエスさまのことを「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と言ったのかと考えると、なんかへんな話であるわけですが、たぶん話の大切なところが省かれていて、なんだかよくわからない話になっているのでしょう。イエスさまが言わんとしておられることは、ナタナエルに対して、あなたはいま小さなことに驚いたりして、「あなたのことを信じます」「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」というようなことを言っている。でもこれから天が開け、神の天使たちが上ったり降ったりするような、もっとすごいことが起こるのを、あなたは体験することになる。「さあ、わくわく、冒険の始まりだ。一緒に神さまのことを信じて歩んでいこう」。まあそんな感じで、イエスさまがナタナエルを弟子にされたということです。

マルコによる福音書などの、イエスさまの弟子選びの話では、「二人はすぐに網を捨てて従った」というように、弟子たちの側の信仰の勢いのようなことが語られています。信仰とは一面ではそうした、「わたしが信じる」「わたしがついて行く」という面があるわけです。私たちは礼拝の中で使徒信条を告白します。「われは天地の創り主、全能の父なる神を信ず」というように、「われは信じる」のです。

ヨハネによる福音書では、どちらかというと、弟子たちはイエスさまに引き寄せられるように、イエスさまについて行きます。アンデレは洗礼者ヨハネの弟子であったわけですが、「見よ、神の小羊だ」というヨハネの言葉を聞いて、イエスさまに呼ばれているわけでもないのに、イエスさまに従います。ナタナエルなどは、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」というようなことを言っていたわけですが、イエスさまと話をして、イエスさまに引き寄せられるように、イエスさまを信じて歩み始めます。

なんらかの出来事で、教会に来ることになり、いわゆる求道者生活を送るようになりますと、ときに「どうなんだろうか。わたしの信仰」というような思いにかられることがあります。わたしは本当に、神さまを、イエスさまを信じているということになるのだろうか、というような思いにかられることがあります。「わたしが信じている」ということの問題を考えるのです。それはとても大切なことです。信仰とは、「わたしが信じている」ということの大切さがあるからです。

しかしもう一方で、やはりイエスさまに引き寄せられているということがあるのです。言葉では説明がつかないけれども、イエスさまに引き寄せられて、教会に集い、礼拝を守ります。いつのまにか、「わたしはイエスさまのことが大好きなんだ」という思いで生きるようになります。イエスさまに引き寄せられるのです。

イエスさまは私たちを招いてくださり、「あなたはわたしの大切な人だ。わたしを信じて、わたしについてきなさい」と、私たちに語りかけてくださっています。イエスさまを信じて、イエスさまにより頼んで歩んでいきましょう。



  

(2024年1月14日平安教会朝礼拝式・成人祝福の祈り)


1月7日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「この方こそ、わたしがついていく方」

「この方こそ、わたしがついていく方」


聖書箇所 ヨハネ1:29-34。3/449。

日時場所 2023年1月7日平安教会朝礼拝

 

クリスマスに救い主イエス・キリストをお迎えし、そして2023年を終え、2024年を迎えました。新しい年も皆様のうえに、神さまの恵みと平安とが豊かにありますようにとお祈りしています。

1月1日に能登半島を大きな地震が襲いました。たくさんのひとたちの命が失われ、悲しみのなかにあります。どうか神さまのお守りがありますようにとお祈りいたします。まだ余震が続き、不安な生活を強いられている人たちがたくさんおられます。どうか支援の手が必要なところに届いていきますように。日本基督教団も救援募金を始めています。私たちもまた覚えて、支え、祈ることができますように導いてください。

毎年、わたしは年賀状に、聖書の言葉を書くことにしています。ことしは、ルカによる福音書11章9節のみ言葉を選びました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。 探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」。新約聖書 ルカによる福音書11編9節。「戦争が人の心をむしばみます。無気力になりがちですが、神さまを信じて、求めつつ、歩みます。平安教会に赴任をして4年半になりました。コロナ禍後、いろいろな変化もありつつも、前に向かって進みます」。神さまの導きを信じて、求めつつ、歩んでいきたいと思います。

マーガレット・F・パワーズという人の書いた「フットプリント あしあと」という詩があります。「お好きだ」という方もたくさんおられるだろうと思います。


あしあと


ある夜、わたしは夢を見た。

わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。

暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。

どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。

ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、

わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。

そこには一つのあしあとしかなかった。

わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。

このことがいつもわたしの心を乱していたので、

わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、

 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、

 わたしと語り合ってくださると約束されました。

 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、

 ひとりのあしあとしかなかったのです。

 いちばんあなたを必要としたときに、

 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、

 わたしにはわかりません。」

主は、ささやかれた。

「わたしの大切な子よ。

 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。

 ましてや、苦しみや試みの時に。

 あしあとがひとつだったとき、

 わたしはあなたを背負って歩いていた。」

マーガレット・F・パワーズ

translation copyright(C)1996 by Pacific Broadcasting Association


私たちはときとして、神さまはおられないのではないと思えるような出来事に出会うことがあります。イエスさまは共にいてくださると信じていたのに、そのように思えないということがあります。

【「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、

 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、

 わたしと語り合ってくださると約束されました。

 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、

 ひとりのあしあとしかなかったのです。

 いちばんあなたを必要としたときに、

 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、

 わたしにはわかりません。」】。

そのように思えるわけです。しかしイエスさまは私たちと共にいてくださる。

【「わたしの大切な子よ。

 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。

 ましてや、苦しみや試みの時に。

 あしあとがひとつだったとき、

 わたしはあなたを背負って歩いていた。」】。

苦しいとき、悲しいとき、自分はひとりぼっちであると思えるときがあります。なんの希望も見いだすことができないとき、神さまからも見放されていると思えるときがあります。しかしそのときこそ、イエスさまは私たちと共にいてくださり、私たちを背負って歩んでくださっています。


今日の聖書の箇所は「神の小羊」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書1章29節にはこうあります。【その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ】。ヨハネというのは洗礼者ヨハネのことです。洗礼者ヨハネはヨルダン川で悔い改めの洗礼を人々に授けていました。洗礼者ヨハネは自分のあとに、救い主がこられ、そして世の罪をあがなってくださる。自分はその救い主が来られる前に、少しでもこの世を神さまにふさわしい世にするために、悔い改めの洗礼を授けている、それが自分に与えられた仕事なのだと思っていました。ヨハネによる福音書1章25−28節に書かれてあるとおりです。

【彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった】。

洗礼者ヨハネはイエスさまのことを「世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。神の小羊というのは、神さまのために捧げられる献げ物としての小羊ということです。ユダヤの人々は神さまに対して罪を赦してもらうための献げ物として小羊を捧げるということをしていました。洗礼者ヨハネがイエスさまのことを「世の罪を取り除く神の小羊」と言うのは、イエスさまが私たちのために十字架についてくださり、そして私たちの罪を贖ってくださる、イエスさまが私たちの罪を取り除いてくださり、神さまに対するいけにえの小羊となってくださるということです。そして洗礼者ヨハネの「世の罪を取り除く神の小羊」という言葉通りに、イエスさまは私たちの罪をあがなうために十字架についてくださりました。そして私たちはイエス・キリストの十字架によって、神さまの前に罪赦され、神さまの祝福をいただいています。

ヨハネによる福音書1章30−31節にはこうあります。【『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」】。

洗礼者ヨハネはイエスさまを見て、「わたしが言っていたのはこの方のことである」と言いました。ついにわたしが言っていた方がこの世に来られた。わたしはこの方のために人々に水で洗礼を授けて、悔い改めの洗礼を行っていたのだと、洗礼者ヨハネは言いました。

ヨハネによる福音書1章32−34節にはこうあります。【そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」】。

洗礼者ヨハネは「わたしは悔い改めの洗礼を水で授けていたけれども、しかしわたしのあとに来られる方は聖霊によって洗礼を授ける人だ」と言いました。その方は特別な方である。「この方こそ神の子である」。わたしはそのように証しをした。わたしは人であるから水で洗礼を授けるしかできないけれども、しかしこの方は特別な方で神さまの御子として精霊によって洗礼を授ける。それは神さまからの大いなる祝福であり、この方を通して人は神さまの救いに預かることができる。この方の上に霊が降ってきて、この方に留まるのをわたしは見た。この方こそ聖霊によって洗礼を授ける神の御子なのだ。そう、洗礼者ヨハネは言いました。洗礼者ヨハネはイエスさまとの出会いを高らかに告げ、そしてイエスさまのことを証ししました。

洗礼者ヨハネは二度、「わたしはこの方を知らなかった」と言っています。それはひとつにはイエスさまについては、洗礼者ヨハネとイエスさまの出会いの段階では明らかになっていないということです。洗礼者ヨハネはイエスさまのことをよく知ることなく天に召されます。洗礼者ヨハネはヘロデ王によって捕らえられ、殺されてしまうからです。そしてもう一つは「神の御子イエス・キリストについては知り得ない」ということです。それは洗礼者ヨハネに限らず、御子イエス・キリストのことは知り得ないのです。御子のことであるわけですから、それは神さまに属することです。神さまに属することは、人は本質的には知り得ないのです。洗礼者ヨハネは「この方こそ神の子である」と証しするわけですけれども、しかし洗礼者ヨハネは「わたしはこの方を知らなかった」というように、御子のことは本質的には知り得ないというのです。

しかし洗礼者ヨハネは【わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」】と言いました。洗礼者ヨハネはわたしの人生はこの方によって定められていると言います。「この方がイスラエルに現われるために」、わたしは水で洗礼を授けていた、洗礼者ヨハネは言いました。洗礼者ヨハネはイエスさまのために生きた人でした。洗礼者ヨハネはイエスさまの前に、この世に来た人であるわけですが、しかしイエスさまによってその歩む道が定められた人でした。

洗礼者ヨハネが言いたかったことは、「この方こそ、わたしがついていく方だ」ということです。そして洗礼者ヨハネは実際にそのように生きたのです。イエスさまの前に現れていたのだけれども、しかし洗礼者ヨハネはイエスさまに従って歩んだ人でした。そして人々に悔い改めの洗礼を授けながら、「この方について行きなさい」と、イエス・キリストを証しした人でした。

私たちもまた洗礼者ヨハネのように、「この方について行きたい」と思います。「この方こそ、わたしがついていく方」と思います。私たちはイエスさまの跡に従いたいと思います。しかしそれはたんにイエスさまがりっぱな方であるからではありません。ふつうはこの方のあとについていきたいというとき、この方が歩まれたように、わたしもまた歩むということです。りっぱな方のあとについて歩むということです。しかしイエスさまはたんに私たちがあとについて歩む方ではなく、イエスさまご自身が私たちを守り導いて、支えてくださる方なのです。

マーガレット・F・パワーズの「フットプリント あしあと」にありましたように、私たちを支えてくださる方なのです。

「わたしの大切な子よ。

 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。

 ましてや、苦しみや試みの時に。

 あしあとがひとつだったとき、

 わたしはあなたを背負って歩いていた。」

だからこそ、私たちは思うのです。「この方こそ、わたしがついていく方」。イエスさまは私たちを見捨てることはありません。私たちはイエスさまからすれば、甲斐のない者であるかも知れません。そんなにりっぱな者ではないですし、力ある者でありません。イエスさまのお役に立てたらいいわけですが、しかしまあそんなにイエスさまのお役に立てる者でもないような気もします。しかしそれでも私たちは心の中で、「この方こそ」「この方こそ」、「この方こそ、わたしがついていく方」という思いをもっています。私たちは自分がこの方の役に立つとか、自分はこの方にふさわしいとかということとは関係なく、ただただ「この方こそ、わたしがついていく方」という思いをもって、イエスさまについて行きます。

イエス・キリストは私たちを見捨てることなく、私たちを支え、守り、導いてくださいます。私たちは2024年も、「この方こそ、わたしがついていく方」という思いをしっかりと思って、イエスさまにお仕えして歩んでいきましょう。



(2024年1月7日平安教会朝礼拝)

12月31日平安教会礼拝説教要旨(山下毅牧師)「すべての人の救いを見る」

「すべての人の救いを見る」  山下 毅牧師

ルカによる福音書2:21-38


 クリスマスから数えて8日後の大晦日の日を迎えています。本日の聖書の箇所は、神殿で幼な子であられるイエス・キリストと主を待ち望む熱心な信徒であるシメオンが出会う場面です。この歌は<シメオンの賛歌>と呼ばれます。

 「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしの目が今あなたの救いを見たからです。これは万民のまえに整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

神学者ヘンリ・ナウエンは、<シメオンの賛歌>、イエス・キリストとの出会いは大きな救いの出来事である。老人にありがちな悲観的な見方、気の滅入るような物の見方を打ち砕いてくれます。老いの訪れは、目も耳も開かれ、光に向かう道になる、と述べています。

何故シメオンはこのような救いの確信を得たのでしょうか。それは、「聖霊」によって、神の霊に捕らえられ、神の霊によって導かれ、神の霊に支えられ、自らの救いのために、イスラエルの救いのために、全世界の救いのために、熱心に祈っていたのです。救いを見るまでは、自分は死ぬわけにはいかないと言う祈りをささげていたのです。 

祈りは厳しい仕事です。祈りは暇人のやることではないのです。教会に生きる者皆がやることです。いやここにこそ教会の姿があります。神から救われなければ、人間は自分を救うことは出来ません。どんなに知恵があっても、だんなに科学が発達しても、救われる道はないのです。

シメオンは幼な子を見ました。幼な子イエスという、目に見える事実となったのです。神の聖霊に導かれて、心を開かれたわれわれは、他の人々の見ない神の救いを幼な子イエスの中に見るのであります。――信じてこれを見るものにとっては、ここにシメオンが主ご自身を抱いて与えられたのと同じ、幼な子イエスの恵みにあずかるのであります。私達は、聖霊のみちびくままに、深い祈りに生きたいと思います。その祈りとひとつとなった愛に生きたいと思います。そしてその祈りに答えて、幼な子イエスがわれわれの手に与えられた事実を、年老いていようが、病んでいようが、どんな苦労の中にあろうが、信仰をもって堅く受けとめたいと思います。そして日本の救いのために、世界の救いのために、熱い祈りにひたすら走り続けたいと思います。




12月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 

               ティツィアーノ・ヴェチェッリオ               《聖母子(アルベルティーニの聖母)》