「イエスさまに引き寄せられて」
聖書箇所 ヨハネ1:35-51。6/456。
日時場所 2024年1月14日平安教会朝礼拝式・成人祝福の祈り
わたしは愛媛県の今治市の出身で、今治市には今治教会があり、わたしはその付属のめぐみ幼稚園という幼稚園に通っていました。父がクリスチャンで、今治教会の会員でしたので、めぐみ幼稚園に通っていたのだと思います。めぐみ幼稚園を卒園して、しばらくは教会学校に通っていたのですが、すこしするとあまり熱心に通うこともなくなっていました。そののちまた何かのきっかけで教会学校に通うことになりました。たぶん小学校のクラス替えがあり、教会学校に通っている友達もたくさんいたので、なんとなくまた通うようになったのだと思います。その後も、ずっと教会学校に通い、高校生から大人の礼拝に出席をするようになり、そして大学に入学する前に、洗礼を受けて、クリスチャンになりました。わたしはちいさなときから教会に通っていますので、その信仰はどちらかというと幼稚です。「神さま、お守りくださり、ありがとうございます」「神さま、だいすきです」という信仰です。まあなんとなく、ぼんやりと教会にいて、信じるようにだんだんとなってきたという感じでしょうか。もちろん同志社大学の神学部で学問として、神学を学んでいますので、そうした学問的な知識に基づいて、聖書の話をしています。しかしそうしたこととは別に、信仰的には素朴な信仰ということです。
いま牧師をしているわたしの友人は、私たちが高校生1年生のときに、今治教会に来るようになりました。高校生の時に夏のキャンプを、高校生で計画を立てるのですが、数が少ないと面白くないので、友達を誘って、夏のキャンプに行きます。わたしの幼なじみの友人が「よし、おれの友だちが、いま高校受験に失敗して、暇にしているから、連れてくる」と言って、連れてきたのが、彼でした。大学受験に失敗をして浪人をしているという人はまあ当時たくさんいたと思いますが、高校受験に失敗をして浪人をしているという人は、そんなに多くはなかっただろうと思います。いまから考えると、高校受験に失敗して浪人をしている人を、暇にしている奴がいるから連れてくるというのは、まあなんともデリカシイのない人だなあと思います。しかしそれ以後、彼は教会に来るようになりました。わたしの友人は、そしてその後、いろいろなことがあるわけですが、わたしと同じように牧師になりました。
クリスチャンになる道というのは、まあいろいろあるのだろうと思います。わたしはなんとなく教会に居着いたというような形で、あまり感動のない形で牧師になっています。しかし当時、教会学校に来ていたこどもというのは一学年に50人とかいたわけで、だからといってみんながみんなクリスチャンになっているわけでもないのです。
わたしの友人の牧師は、なんだか引き寄せられるように、教会に来るようになりました。「高校浪人中だから、勉強をしなければならないので、教会の高校生会の夏のキャンプになんか参加できるわけがないだろう。おまえ、どういうつもりでオレを誘ってるんだ」と言っても良かったわけですが、彼は夏の高校生会の夏のキャンプに参加をするのです。そしてイエスさまに引き寄せられて、彼の信仰生活が始まるのです。
今日はイエスさまのお弟子さんたちの話です。今日の聖書の箇所は、「最初の弟子たち」「フィリポとナタナエル、弟子となる」という表題のついた聖書の箇所です。弟子選びということであれば、私たちはイエスさまがガリラヤの漁師であった、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネを弟子にされた話を思い出します。
マルコによる福音書1章16−20節には、「四人の漁師を弟子にする」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の61頁です。マルコによる福音書1章16−20節にはこうあります。【イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。】。この「四人の漁師を弟子にする」という聖書の箇所は、マタイによる福音書にも、ルカによる福音書にも書かれてある話ですので、この話のほうが一般的であるわけですが、ヨハネによる福音書では「最初の弟子たち」ということでは、また違った話が書かれてあります。ヨハネによる福音書以外には、この話が書かれてありませんので、ヨハネによる福音書独自の話であるわけです。
ヨハネによる福音書1章35−39節にはこうあります。【その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ——『先生』という意味——どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。】
洗礼者ヨハネは二人の弟子に、イエスさまが歩いておられるのを見て、「見よ、神の小羊だ」と言います。洗礼者ヨハネは自分は救い主が現れる前に、少しでも神さまの方へと人々を導くのが自分の役割だと思っていました。そしてイエスさまを見て、この方こそ救い主であり、世の罪を取り除く方だと、イエスさまのことを「神の小羊だ」と言われました。洗礼者ヨハネの弟子たちは、イエスさまについていきます。実際に洗礼者ヨハネの弟子たちが、イエスさまについていくということがあったのでしょう。
ヨハネによる福音書1章40−42節にはこうあります。【ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア——『油を注がれた者』という意味——に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ——『岩』という意味——と呼ぶことにする」と言われた。】。
ヨハネによる福音書では、ペトロの兄弟であるアンデレは、もともとは洗礼者ヨハネの弟子であったということが言われているわけです。ほかの福音書ではペトロとアンデレは、イエスさまの呼びかけに応えて、一緒にイエスさまに従ったという話であるわけです。しかしヨハネによる福音書は、まずアンデレがイエスさまについていき、そして兄弟であるペトロを誘ったという話になっています。アンデレはペトロに、救い主に出会ったと言って、ペトロをイエスさまのところに連れていきます。するとイエスさまはペトロを見つめて、「あなたはシモンという名前だけれども、ケファと呼ぶことにする」と言われます。ペトロが土台となって、教会が全世界に建てられていくということで、ペトロは「ケファ」、「岩」ということになるわけです。
ヨハネによる福音書1章43−46節にはこうあります。【その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。】。
フィリポは、イエスさまから「わたしに従いなさい」と言われて、素直に、イエスさまに従っていきます。フィリポはナタナエルに出会い、そしてイエスさまというすごい人がいるからと、ナタナエルに話します。「律法や預言書に書かれてある救い主のことなんだが、それはわたしが出会ったナザレのイエスという人なんだ」と、フィリポはナタナエルに話します。しかしナタナエルは「そんな、ナザレなんていう田舎町から、すごい人が出てくるわけないじゃないか」と言うわけですが、しかしフィリポは「とにかく、来てみたらわかるから」と言って、ナタナエルをイエスさまのところに連れてきます。
ヨハネによる福音書1章47ー48節にはこうあります。【イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた】。
イエスさまはナタナエルのことをえらくほめるわけです。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」。ナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」というようないじわるなことを言う人であるわけですが、でも良い人であったようです。イエスさまから「この人には偽りがない」と誉められて、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と応えるというのも、なんとなくわたしとしては気になるところですが、それはまああまり細かいところは気にせずに読んだほうがよいわけです。「この人には偽りがない」と誉められたことに反応して、「どうしてわたしが偽りのないすばらしい人であることを知っているのですか」といったのではなく、たんに自分はイエスさまのことを知らないのに、どうしてイエスさまはわたしのことを知っているのですかと尋ねたということです。
イエスさまはナタナエルがいちじくの木の下にいるのを見たと言われます。この聖書の箇所ではなにか「いちじくの木の下」というのが、とても特別なことのように語られています。ナタナエルがいちじくの木の下にいたから、まことのイスラエル人であり、偽りのない人であるかのように言われています。柿の木じゃダメなのとか、なつめやしじゃあダメなのと思いますが、まああまり深く考えず、当時、いちじくの大きな木の下でユダヤ教の教師が弟子たちに教えていたというようなことから、いちじくの木の下というのは、まじめに国をよくしようと勉強している人たちがいるというような印象があったのではないかと言われています。日本であれば、「大きな栗の木の下」には「仲良く遊ぶ人がいる」という印象があったり、「桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている」という印象があるわけですが、イエスさまの時代のユダヤでは、「いちじくの木の下」には良く勉強するりっぱな良い人たちが集っているという印象であったようです。
ヨハネによる福音書1章49−51節にはこうあります。【ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」】
ナタナエルはイエスさまに対して、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と応えます。イエスさまから「いちじくの木の下にあなたがいるのを見た」「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と誉められたから、イエスさまのことを「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と言ったのかと考えると、なんかへんな話であるわけですが、たぶん話の大切なところが省かれていて、なんだかよくわからない話になっているのでしょう。イエスさまが言わんとしておられることは、ナタナエルに対して、あなたはいま小さなことに驚いたりして、「あなたのことを信じます」「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」というようなことを言っている。でもこれから天が開け、神の天使たちが上ったり降ったりするような、もっとすごいことが起こるのを、あなたは体験することになる。「さあ、わくわく、冒険の始まりだ。一緒に神さまのことを信じて歩んでいこう」。まあそんな感じで、イエスさまがナタナエルを弟子にされたということです。
マルコによる福音書などの、イエスさまの弟子選びの話では、「二人はすぐに網を捨てて従った」というように、弟子たちの側の信仰の勢いのようなことが語られています。信仰とは一面ではそうした、「わたしが信じる」「わたしがついて行く」という面があるわけです。私たちは礼拝の中で使徒信条を告白します。「われは天地の創り主、全能の父なる神を信ず」というように、「われは信じる」のです。
ヨハネによる福音書では、どちらかというと、弟子たちはイエスさまに引き寄せられるように、イエスさまについて行きます。アンデレは洗礼者ヨハネの弟子であったわけですが、「見よ、神の小羊だ」というヨハネの言葉を聞いて、イエスさまに呼ばれているわけでもないのに、イエスさまに従います。ナタナエルなどは、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」というようなことを言っていたわけですが、イエスさまと話をして、イエスさまに引き寄せられるように、イエスさまを信じて歩み始めます。
なんらかの出来事で、教会に来ることになり、いわゆる求道者生活を送るようになりますと、ときに「どうなんだろうか。わたしの信仰」というような思いにかられることがあります。わたしは本当に、神さまを、イエスさまを信じているということになるのだろうか、というような思いにかられることがあります。「わたしが信じている」ということの問題を考えるのです。それはとても大切なことです。信仰とは、「わたしが信じている」ということの大切さがあるからです。
しかしもう一方で、やはりイエスさまに引き寄せられているということがあるのです。言葉では説明がつかないけれども、イエスさまに引き寄せられて、教会に集い、礼拝を守ります。いつのまにか、「わたしはイエスさまのことが大好きなんだ」という思いで生きるようになります。イエスさまに引き寄せられるのです。
イエスさまは私たちを招いてくださり、「あなたはわたしの大切な人だ。わたしを信じて、わたしについてきなさい」と、私たちに語りかけてくださっています。イエスさまを信じて、イエスさまにより頼んで歩んでいきましょう。
(2024年1月14日平安教会朝礼拝式・成人祝福の祈り)
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