2024年1月18日木曜日

1月7日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「この方こそ、わたしがついていく方」

「この方こそ、わたしがついていく方」


聖書箇所 ヨハネ1:29-34。3/449。

日時場所 2023年1月7日平安教会朝礼拝

 

クリスマスに救い主イエス・キリストをお迎えし、そして2023年を終え、2024年を迎えました。新しい年も皆様のうえに、神さまの恵みと平安とが豊かにありますようにとお祈りしています。

1月1日に能登半島を大きな地震が襲いました。たくさんのひとたちの命が失われ、悲しみのなかにあります。どうか神さまのお守りがありますようにとお祈りいたします。まだ余震が続き、不安な生活を強いられている人たちがたくさんおられます。どうか支援の手が必要なところに届いていきますように。日本基督教団も救援募金を始めています。私たちもまた覚えて、支え、祈ることができますように導いてください。

毎年、わたしは年賀状に、聖書の言葉を書くことにしています。ことしは、ルカによる福音書11章9節のみ言葉を選びました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。 探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」。新約聖書 ルカによる福音書11編9節。「戦争が人の心をむしばみます。無気力になりがちですが、神さまを信じて、求めつつ、歩みます。平安教会に赴任をして4年半になりました。コロナ禍後、いろいろな変化もありつつも、前に向かって進みます」。神さまの導きを信じて、求めつつ、歩んでいきたいと思います。

マーガレット・F・パワーズという人の書いた「フットプリント あしあと」という詩があります。「お好きだ」という方もたくさんおられるだろうと思います。


あしあと


ある夜、わたしは夢を見た。

わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。

暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。

どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。

ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、

わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。

そこには一つのあしあとしかなかった。

わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。

このことがいつもわたしの心を乱していたので、

わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、

 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、

 わたしと語り合ってくださると約束されました。

 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、

 ひとりのあしあとしかなかったのです。

 いちばんあなたを必要としたときに、

 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、

 わたしにはわかりません。」

主は、ささやかれた。

「わたしの大切な子よ。

 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。

 ましてや、苦しみや試みの時に。

 あしあとがひとつだったとき、

 わたしはあなたを背負って歩いていた。」

マーガレット・F・パワーズ

translation copyright(C)1996 by Pacific Broadcasting Association


私たちはときとして、神さまはおられないのではないと思えるような出来事に出会うことがあります。イエスさまは共にいてくださると信じていたのに、そのように思えないということがあります。

【「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、

 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、

 わたしと語り合ってくださると約束されました。

 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、

 ひとりのあしあとしかなかったのです。

 いちばんあなたを必要としたときに、

 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、

 わたしにはわかりません。」】。

そのように思えるわけです。しかしイエスさまは私たちと共にいてくださる。

【「わたしの大切な子よ。

 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。

 ましてや、苦しみや試みの時に。

 あしあとがひとつだったとき、

 わたしはあなたを背負って歩いていた。」】。

苦しいとき、悲しいとき、自分はひとりぼっちであると思えるときがあります。なんの希望も見いだすことができないとき、神さまからも見放されていると思えるときがあります。しかしそのときこそ、イエスさまは私たちと共にいてくださり、私たちを背負って歩んでくださっています。


今日の聖書の箇所は「神の小羊」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書1章29節にはこうあります。【その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ】。ヨハネというのは洗礼者ヨハネのことです。洗礼者ヨハネはヨルダン川で悔い改めの洗礼を人々に授けていました。洗礼者ヨハネは自分のあとに、救い主がこられ、そして世の罪をあがなってくださる。自分はその救い主が来られる前に、少しでもこの世を神さまにふさわしい世にするために、悔い改めの洗礼を授けている、それが自分に与えられた仕事なのだと思っていました。ヨハネによる福音書1章25−28節に書かれてあるとおりです。

【彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった】。

洗礼者ヨハネはイエスさまのことを「世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。神の小羊というのは、神さまのために捧げられる献げ物としての小羊ということです。ユダヤの人々は神さまに対して罪を赦してもらうための献げ物として小羊を捧げるということをしていました。洗礼者ヨハネがイエスさまのことを「世の罪を取り除く神の小羊」と言うのは、イエスさまが私たちのために十字架についてくださり、そして私たちの罪を贖ってくださる、イエスさまが私たちの罪を取り除いてくださり、神さまに対するいけにえの小羊となってくださるということです。そして洗礼者ヨハネの「世の罪を取り除く神の小羊」という言葉通りに、イエスさまは私たちの罪をあがなうために十字架についてくださりました。そして私たちはイエス・キリストの十字架によって、神さまの前に罪赦され、神さまの祝福をいただいています。

ヨハネによる福音書1章30−31節にはこうあります。【『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」】。

洗礼者ヨハネはイエスさまを見て、「わたしが言っていたのはこの方のことである」と言いました。ついにわたしが言っていた方がこの世に来られた。わたしはこの方のために人々に水で洗礼を授けて、悔い改めの洗礼を行っていたのだと、洗礼者ヨハネは言いました。

ヨハネによる福音書1章32−34節にはこうあります。【そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」】。

洗礼者ヨハネは「わたしは悔い改めの洗礼を水で授けていたけれども、しかしわたしのあとに来られる方は聖霊によって洗礼を授ける人だ」と言いました。その方は特別な方である。「この方こそ神の子である」。わたしはそのように証しをした。わたしは人であるから水で洗礼を授けるしかできないけれども、しかしこの方は特別な方で神さまの御子として精霊によって洗礼を授ける。それは神さまからの大いなる祝福であり、この方を通して人は神さまの救いに預かることができる。この方の上に霊が降ってきて、この方に留まるのをわたしは見た。この方こそ聖霊によって洗礼を授ける神の御子なのだ。そう、洗礼者ヨハネは言いました。洗礼者ヨハネはイエスさまとの出会いを高らかに告げ、そしてイエスさまのことを証ししました。

洗礼者ヨハネは二度、「わたしはこの方を知らなかった」と言っています。それはひとつにはイエスさまについては、洗礼者ヨハネとイエスさまの出会いの段階では明らかになっていないということです。洗礼者ヨハネはイエスさまのことをよく知ることなく天に召されます。洗礼者ヨハネはヘロデ王によって捕らえられ、殺されてしまうからです。そしてもう一つは「神の御子イエス・キリストについては知り得ない」ということです。それは洗礼者ヨハネに限らず、御子イエス・キリストのことは知り得ないのです。御子のことであるわけですから、それは神さまに属することです。神さまに属することは、人は本質的には知り得ないのです。洗礼者ヨハネは「この方こそ神の子である」と証しするわけですけれども、しかし洗礼者ヨハネは「わたしはこの方を知らなかった」というように、御子のことは本質的には知り得ないというのです。

しかし洗礼者ヨハネは【わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」】と言いました。洗礼者ヨハネはわたしの人生はこの方によって定められていると言います。「この方がイスラエルに現われるために」、わたしは水で洗礼を授けていた、洗礼者ヨハネは言いました。洗礼者ヨハネはイエスさまのために生きた人でした。洗礼者ヨハネはイエスさまの前に、この世に来た人であるわけですが、しかしイエスさまによってその歩む道が定められた人でした。

洗礼者ヨハネが言いたかったことは、「この方こそ、わたしがついていく方だ」ということです。そして洗礼者ヨハネは実際にそのように生きたのです。イエスさまの前に現れていたのだけれども、しかし洗礼者ヨハネはイエスさまに従って歩んだ人でした。そして人々に悔い改めの洗礼を授けながら、「この方について行きなさい」と、イエス・キリストを証しした人でした。

私たちもまた洗礼者ヨハネのように、「この方について行きたい」と思います。「この方こそ、わたしがついていく方」と思います。私たちはイエスさまの跡に従いたいと思います。しかしそれはたんにイエスさまがりっぱな方であるからではありません。ふつうはこの方のあとについていきたいというとき、この方が歩まれたように、わたしもまた歩むということです。りっぱな方のあとについて歩むということです。しかしイエスさまはたんに私たちがあとについて歩む方ではなく、イエスさまご自身が私たちを守り導いて、支えてくださる方なのです。

マーガレット・F・パワーズの「フットプリント あしあと」にありましたように、私たちを支えてくださる方なのです。

「わたしの大切な子よ。

 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。

 ましてや、苦しみや試みの時に。

 あしあとがひとつだったとき、

 わたしはあなたを背負って歩いていた。」

だからこそ、私たちは思うのです。「この方こそ、わたしがついていく方」。イエスさまは私たちを見捨てることはありません。私たちはイエスさまからすれば、甲斐のない者であるかも知れません。そんなにりっぱな者ではないですし、力ある者でありません。イエスさまのお役に立てたらいいわけですが、しかしまあそんなにイエスさまのお役に立てる者でもないような気もします。しかしそれでも私たちは心の中で、「この方こそ」「この方こそ」、「この方こそ、わたしがついていく方」という思いをもっています。私たちは自分がこの方の役に立つとか、自分はこの方にふさわしいとかということとは関係なく、ただただ「この方こそ、わたしがついていく方」という思いをもって、イエスさまについて行きます。

イエス・キリストは私たちを見捨てることなく、私たちを支え、守り、導いてくださいます。私たちは2024年も、「この方こそ、わたしがついていく方」という思いをしっかりと思って、イエスさまにお仕えして歩んでいきましょう。



(2024年1月7日平安教会朝礼拝)

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