2024年2月14日水曜日

2月11日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「小さきわたしを用いられる神さま」

 「小さきわたしを用いられる神さま」

聖書箇所 ヨハネ6:1-15。351/516。

日時場所 2024年2月11日平安教会朝礼拝式


美学者の伊藤亜紗は、障害を通して、身体のあり方を研究しています。伊藤亜紗の『手の倫理』(講談社選書メチエ)には、伊藤亜紗が初めてアイマスクをして伴走者と走るという経験をしたときのはなしが出てきます。障害者がマラソンなどの競技をするときに、目が見える人が伴走者になり一緒に走ることによって、障害者が走ることができるわけです。そうした経験を、伊藤亜紗もやってみたわけです。伴走ロープを使います。(参照、日本ブラインドマラソン協会、https://jbma.or.jp/challenge/guide_movie/)

【私もアイマスクをして伴走者と走る体験をしたときには、とてつもなく恐怖と不安で、最初は足がすくんでしまいました。伴走してくれたのはベテランだったのですが、一歩踏み出そうとするたびに、足元に段差が「見え」たり、目の前に木の枝が「見え」たりするのです。もちろん、アイマスクをしているので、物理的に何かが見えているわけではないのですが、おそらく予測モードが過剰に発動していたのでしょう、段差や木の枝が「ある」ように感じていました。でもある瞬間、実際には走り始めてほんの数分のうちに、こうした不安と恐怖は私から離れていきました。そのときの感覚は、「大丈夫だ」と確信できたというよりは、「ええい、もうにでもなれ」と、あきらめて飛び込む感じに近かったように思います】(P.154)。【いったん信頼が生まれてしまえば、そのあとの「走る」の、なんと心地よかったことか。最初は宇ウォーキングでしたが、すぐにおのずとスピードがあがって走り初め、最後は階段をのぼることまでできるようになりました。すっと走っていたい! それは、人を100パーセント信頼してしまったあとの何とも言えない解放感と、味わったことのない不思議な幸福感に満ちた時間でした。と同時に痛切に感じたのは、いかにふだん自分が人や状況を信頼していなかったか、ということでした。怪我をする覚悟も含めて人に身を預ける、などということを、私はほとんでしたことがありませんでした。もちろん、子供のころは周囲の大人に身を預けていたはずです。けれども子供は、必ずしも不確実性を分かったうえで信頼しているわけではありません。信じて依存する、というのは私にとって非常に新鮮な経験でした】。

伊藤亜紗は初めてアイマスクをして伴奏者と走る経験をすることによって、人を信頼することがなんと気持ちの良いことであるのかということと、そしていままで自分がいかに人を信頼していなかったかということに気づきます。まあ人を信頼するということは、なかなかむつかしいことであるわけです。わたしはアジアの国を旅行している時に、道がわからなくなり、たどたどしい英語で、「この駅に行くには、このバスに乗ったら良いのか」と尋ねたりしますが、「このバスで大丈夫だ」と教えてもらって、バスに乗ってみると間違いだったというような経験をします。まあわたしの英語がだめなのかもしれませんが、こういうときはあんまり信用してもだめだなと思ったりします。

この伊藤亜紗の経験は、私たちが信仰ということを考える時に、「ああ、たしかにこういうことってあるよね」と思える経験です。はじめは神さまを信じているのか信じていないのかよくわからず、「どうなんだろうねえ」と自分自身も思いながら、信仰生活を送ります。ちょっとおどおどしながら信じているわけですけれども、しかし「やっぱりわたしは信じたい」という思いで信じます。するといままでになかった安心感を得ることができます。神さまを信じて生きていくことの幸いを、私たちは感じます。もちろん日常生活の中でいろいろなことが起こり、ときに信じられなくなったり、不安になったりすることもあるわけです。しかしそれでも私たちは神さまにより頼んで、神さまが私たちを守ってくださり、良き道を備えてくださることを信じて歩みます。

今日の聖書の箇所は、「五千人に食べ物を与える」という表題のついた聖書の箇所です。この話は、マタイによる福音書にも、マルコによる福音書にも、ルカによる福音書にも書かれてある物語です。マタイによる福音書とマルコによる福音書には、この「五千人に食べ物を与える」という話のほかに、「四千人に食べ物を与える」という話が出てきます。よく似た話であるので、もともとは一つの物語であったのではないかと言われたりします。ヨハネによる福音書の「五千人に食べ物を与える」という物語の一番の特徴は、少年が出てくるというところです。大麦のパン五つと魚二匹を持っているのは少年です。少年が出てくるので、よく教会学校の話などに使われます。そういたことを頭に置いて、少し読み進めていきたいと思います。

ヨハネによる福音書6章1−4節にはこうあります。【その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた】。

イエスさまは神さまの御言葉を宣べ伝え、そして病の人をいやしておられました。多くの人々がイエスさまの話を聞こうと、イエスさまのところにやってきます。イエスさまが病の人たちをいやされたのをみた人々は、「この方こそ、救い主に違いない」と思い、イエスさまのところに集ってきます。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいてきていました。イエスさまは山に上られ、そしてイエスさまは弟子たちと一緒に座りました。群衆がどんどんと、イエスさま目指して集ってきます。

ヨハネによる福音書6章5−9節にはこうあります。【イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」】。

イエスさまは大勢の群衆を前にして、この人たちの食事の心配をされました。多くの人々はいつもお腹を空かせたいたのだと思います。イエスさまは弟子のフィリポに、「この人たちに食事を用意するためには、どこでパンを買えばいいだろうか」と言われました。山の上ですから、お店屋さんがあるということでもないのでしょう。ですからフィリポは、「山の上にパン屋さんがあったとしても、こんなに大勢の人数ではパンがいくらあっても足りないでしょう。二百デナリオン分のパンがあっても足りないと思いますよ。イエスさま」と応えました。1デナリオンは一日の労働者の賃金くらいだと言われますから、1万円とすると、二百デナリオンは200万円になります。

使徒ペトロの兄弟のアンデレは、少年を連れてきます。少年は大麦のパンが5つと魚2匹をもっていました。まあ一人で食べるにはちょっと多いかなあというような感じの量だと思います。しかしまあ数人で食べれば、もう食べてしまうというような感じの量です。イエスさまのためにと、弟子たちのところにもってきてくれたのかも知れません。しかしアンデレはこんな大勢の人がいるのであれば、パン5つと魚2匹では、どうなるものでもないでしょうと、イエスさまに話します。

ヨハネによる福音書6章10−13節にはこうあります。【イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。】。

イエスさまは奇跡を行われます。五千人の人たちを座らせます。そしてイエスさまはパンを取り、神さまに感謝の祈りを唱えて、そして人々に分け与えられます。また魚も同じように、人々に分け与えられます。人々はパンも魚も「欲しいだけ」分け与えられました。そして人々は満腹します。そしてイエスさまは弟子たちに残ったパン屑を集めさせます。すると五つのパンをみんなが食べて満腹し、そして残ったパンの屑は十二の籠一杯になりました。

ヨハネによる福音書6章14−15節にはこうあります。【そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。】。

人々はイエスさまのすばらしさをほめたたえます。この方は神さまから使わされ、神さまの言葉を人々に伝える預言者だ。人々はイエスさまを王様としてあがめようとします。しかしイエスさまは王様としてあがめられるために、この世に来られたわけではありません。神さまの御子として、私たちの罪のために、十字架につけられるために、この世に来られました。そしてイエスさまの十字架によって、世の人々は罪許され、神さまによって永遠の命を受け継ぐ者となります。そのため、イエスさまは一人で山に退かれました。

この「五千人に食べ物を与える」という物語は、とても具体的な話です。お腹を空かしている人たちを満腹にするという話です。イエスさまのお話を聞きに来ている貧しい人々は、いつもお腹を空かせていただろうと思います。「人々が満腹した」という聖書の言葉を読むとき、「ほんとによかったなあ」と思えます。悩みは具体的なものであり、そしてとても切実なものです。そして切実なるがゆえに、また「ほんとうにその望みは叶うのだろうか」という疑うこころも私たちの中に起こります。

イエスさまのお弟子さんのアンデレは、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」と言います。小さな私たちは、そんな私たちで何かをするなんてことはできないことなんだという気持ちになってしまいます。

弟子たちはイエスさまの奇跡をいままで経験しているわけです。それでも弟子たちの中には、信じきれない気持ちがあります。弟子たちもまたイエスさまに従って歩んでいたわけですが、それでもイエスさまのことを信じきることができず、疑う気持ちがこころのなかにありました。

美学者の伊藤亜紗が、アイマスクをして走った時に、自分はいかに人を信頼していなかったのかということに気がつきました。なかなか信頼するとか信仰するということはむつかしいものです。神さまを信じている。神さまを信頼していると思っていても、信仰生活を送っていますと、信じきれていない自分に出会うことがあります。「ああ、じぶんは一生懸命に信仰しているように思えても、実はそうではなかたのだ」と、自分の信仰のなさを反省させられたりします。私たちは神さまではないので、自分のだめなことに気づかされることもやはりあります。ああなんて自分は小さな者なのだと思わされることもあります。

しかしイエスさまは、少年の持っていた大麦のパン五つと魚二匹を用いてくださり、五千人に食べ物を与えるという奇跡を行われます。弟子たちからすれば、「何の役にも立たないでしょう」と思えるものを用いて、イエスさまは五千人の人々を満腹にされました。私たちは小さな者ですし、頼りない信仰ももつ者であります。しかしそうした小さな者である私たちを用いてくださる神さまがおられます。神さまが私たちを用いてくださるとき、たとえ私たちが小さな者であったとしても、神さまが豊かな出来事に変えてくださいます。

小さな者である私たちを愛し、そして私たちを用いてくださる神さまがおられます。私たちは神さまの祝福のなかを歩んでいきたいと思います。そしてまた神さまに用いていただきたいと思います。私たちのわざは小さな業かもしれません。しかし神さまは私たちのその小さなわざを喜んでくださり、私たちを豊かに用いてくださいます。神さまにお委ねして歩んでいきましょう。

  

(2024年2月11日平安教会朝礼拝式)

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