2024年2月28日水曜日

2月25日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「わたしに注がれる神さまの愛がある」

 「わたしに注がれる神さまの愛がある」

 

聖書箇所 ヨハネ9:1-12。294/300。

日時場所 2024年2月25日平安教会朝礼拝式

  

2022年6月に、京都教会の伝道師の大林叡貴(おおばやし・えいき)先生が、平安教会にこられて説教をしてくださったことがありました。大林叡貴先生は生まれつき目が見えない方です。大林叡貴先生も、今日の聖書箇所に出会われて、牧師になることを志したというお話でした。大林叡貴先生よりもずっと昔の方ですけれども、青木優先生も同じように今日の聖書の箇所に出会われて、牧師になられた方です。

青木優『行く先を知らないで』(日本基督教団出版局)という本の中にかかれてあります。青木優先生の生活記録の本です。青木先生は若い日に失明し、そしてキリストと出会い、牧師となありました。失明をされた青木優さんのところに、呉平安教会の牧師の山田忠蔵牧師が訪ねてこられます。青木優さんの弟さんが教会に通っておられ、洗礼を受けておられました。

山田牧師は岩橋武夫『光は闇より』という本を、青木優さんに紹介されました。岩橋武夫は早稲田大学理工学部在学中に失明をされた方でした。この本を山田牧師は「これはあなたとよく似た境遇の人が書いた本です」と言って紹介をされました。山田牧師はこの本を朗読され、そして途中でやめて、お母さんに「どうか続きを読んであげてください」と言い残して、お祈りをして帰られます。お母さんがこの本を読み進めます。そしてある日、その本の中に、次のような聖書の言葉が書いてあるのを、青木優さんは聞かれます。

【「イエスは道をとおっておられるとき、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った。『先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか、本人ですか、それとも、その両親ですか』イエスは答えられた『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが彼の上に現れるためである』。

この最後のイエスの言葉をきいた時、私は非常な衝撃を受けた。先を読み進もうとする母をとめて、もう一度、そのイエスの言葉を繰り返してもらった。「ただ神のみわざが彼の上に現れるためである」。たしかにそのように書いてある。しばらくは更によみ進んでいる母の言葉も耳に入らなかった。「なぜ見えなくなったのだ!」この私の問いに今まで誰ひとり答えてくれはしなかった。肉親も友人も、さまざまな慰めの言葉を語ってはくれたが、私のこの質問には皆黙ってしまう。そしてオロオロしたりため息をつくばかりであった。宗教家たちの因果応報説も、私の暗い心に更に暗さを増すばかりであった。しかし、今、私がきいたこの言葉は、それまできいたどの言葉とも全く異なっていた。「思いがけない」と言うのはこういうことを言うのであろうか。・・・。私は、イエスが「お前の失明を通して、お前でなければなしえない神の仕事をするのだ」と語りかけておられるのを感じた】(P.32-34)。青木優さんは、このイエスさまの言葉に導かれて、いままでとは別の人生を歩み始められます。

今日の聖書の箇所は「生まれつきの盲人をいやす」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書9章1−5節にはこうあります。【さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」】。

イエスさまがお弟子さんと一緒に歩いているときに、一人の目の見えない人を見かけられます。弟子たちはイエスさまに「この人が生まれつき目が見えないのは、本人が罪を犯したからですか。両親が罪を犯したからですか」と尋ねます。「ラビ」というのは「先生」という意味です。イエスさまの時代、病気であるとか障害をもっているということは、神さまから罰を与えられているのだというふうに考えられていました。そうした考え方は、イエスさまの時代やユダヤの人々だけがそのように考えているということではなく、世界中にそうした考え方がありました。現代ではそういた考え方は、間違った考えであるわけです。しかし現代でもなお、病気を抱えている人や障害を抱えている人に対する偏見というのが、まったくなくなったわけでもありません。病気の人のところに、「先祖の供養が足りないので、いまあなたは病気になっている。この壺を買いなさい」というような人が尋ねてくるというようなことがあるわけです。

しかしイエスさまは弟子たちの偏見にみちた考え方を、きっぱりと正されます。「盲人であるということが、神さまからの罰であるというようなことはありえない。この人が罪を犯したのでもない。両親が罪を犯したのでもない」と、イエスさまは言われました。そして「神の業がこの人に現れるためである」と言われて、この盲人をいやされ、この人を神さまの証人とされました。

イエスさまは弟子たちに言われました。神さまが私たちを貧しい人々困っている人々、病気の人々のところに遣わしておられる。神さまが私たちをお遣わしになっておられるのだ。だからいやしのわざを行ない、できるかぎりのことをしていかなければならない。いまはこうしたわざを行なうことができる。しかしわたしはのちに十字架への道を歩むことになり、いまのようにいやしのわざを行なうことができなくなるのだから。そのようにイエスさまは弟子たちに言われました。

ヨハネによる福音書9章6−7節にはこうあります。【こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム——『遣わされた者』という意味——の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。】。

イエスさま地面に唾を出して、唾で土でこねて、目の見えない人の目に塗られました。イエスさまは目の見えない人に、シロアムの池に行って土を洗い落としなさいと言われます。目の見えない人は、イエスさまが言われたとおりにシロアムの池に行きました。そして目を洗うと、目が見えるようになりました。そして彼はイエスさまと出会った場所に戻ってきました。

ヨハネによる福音書9章8−12節にはこうあります。【近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。】。

生まれつき目の見えない人が、イエスさまによっていやされて、もとの場所に帰ってきました。しかし近所の人たちは、その人が生まれつき目の見えない人であるのかどうか、なかなかわかりません。物ごいをしていたりしたので、日頃から会っていたわけですがわかりません。「この人は生まれつき目の見えない人じゃないのか。いまは目が見えているけど」というふうに思う人もいれば、「いや似てるけど、違うわ。だってこの人は目がみえているんだもの」と思う人もいました。みんなが「どうなんだろう」と思っているので、本人が「わたしがその人だ」と名乗り出ます。すると「では、お前の目を治したのはいったいだれなのか。どうやって治したのか」と人々から、その人は問われました。そこで彼は、「イエスという人が、土をこねて、それをわたしの目に塗り、シロアムの池に行って、それを洗い落とせと言いました。そしてそのとおりにすると、見えるようになりました」と応えました。人々は彼に「そのイエスという人はどこにいるのか」と問いましたが、もうすでにイエスさまはその場から離れておられたので、彼は「知りません」と応えました。

ここ数日間の私たちの国のニュースは、日経平均株価が34年ぶりに史上最高値を更新するかどうかということでした。無事、日経平均株価が34年ぶりに史上最高値を更新をして、なにかすごいことが行われたようなニュースが流れていました。よくわからないですが、34年間、ずっと更新できなかったことが異常なことであり、ちゃんと世の中がうまく回っていなかったということであるわけですから、政治界のリーダーとか経済界のリーダーとかは、猛反省をしても良さそうなわけですが、そういたニュースは流れてきませんでした。

私たちの生きている日本社会は、ここ数十年、ゆとりがなくなり、自分のことだけを考える人たちが増えてきました。自己責任ということが過剰に言われるようになり、弱い立場の人たちを攻撃して、悪者探しをするようなことがよく行われました。悪者を探し続けましたが、あまり良い社会になりませんでした。あまりに自己責任社会になったので、もう結婚するのもリスクがあり過ぎるし、子育てをするものリスクが過ぎるというようなことが言われます。そんな感じなると、ますます少子化社会になり、私たちの社会が衰退していくような気がしてきて、すこし不安になります。

イエスさまのお弟子さんたちは、生まれつき目の見えない人を見て、イエスさまに「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と言いました。弱い立場の人を見えて、その人や家族の人たちに罪を見いだそうとして、自己責任の世界にありがちな、犯人探しをしたわけです。

しかしイエスさまは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言われました。私たちの神さまは、困っている人や立場の弱い人たちをおとしめたりするような社会を望んでおられるはずがない。神さまは愛に満ちた方であるから、困っている人や立場の弱い人が健やかに生きていくことができるために、私たちをお遣わしになっているのだ。「神の業がこの人に現れるために」、だれしも神さまの愛の内を歩んでいて、神さまの業がその人のうえに働くのだ。私たちはだれも神さまの愛の中に生きている。すべての人に神さまの愛が注がれているのだ。そのようにイエスさまは言われました。

今日の聖書の箇所は、目の見えない人がいやされた話です。そして目の見えない人に対して、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言われた話です。ですから目の見えない人が、この聖書の箇所を読んで、特別な召命を神さまから受けるということはあると思います。京都教会の大林叡貴先生や、また『行く先を知らないで』という本を書いておられる青木優先生などは、まさにそうした召命を受けて、牧師となり、りっぱな働きをなしておられます。

しかしそうしたりっぱな働きをなしていく方々への特別な召命ということだけでなく、今日の聖書の箇所は、すべての人に対して語られる神さまの深い愛の物語です。神さまの愛はすべての人に注がれているのです。すべての人に、神さまの業が現れているのです。私たちはみな、「神の業がこの人に現れるためである」という神さまの祝福の中に生きています。

わたしに注がれる神さまの愛があるのです。いろいろな出来事の中で、不安になったり、行き詰まったりすることが、私たちにはあります。「どうしてわたしがこんな目にあわなければならないのか」。そうした出来事に、私たちは出会うことがあります。神さまの祝福から、わたしは外れているような気がする。そうした気持ちにさえなることが、私たちにはあります。

しかし生まれつき目の見えない人が、イエスさまによっていやされたように。イエスさまから「神の業がこの人に現れるためである」と声をかけられたように、私たちにもまた神さまの愛が注がれているのです。

わたしに注がれる神さまの愛があるのです。恐れることなく、神さまを信じ、神さまを信頼して歩みたいと思います。神さまを見上げつつ、こころ平安に歩んでいきましょう。

 


  

(2024年2月25日平安教会朝礼拝式)


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