「人は去っても、われらは信ずる」
聖書箇所 ヨハネ6:60-71。298/303。
日時場所 2024年3月3日平安教会朝礼拝・受難節第3主日
レント・受難節、イエスさまの御苦しみを覚えながら過ごしています。ウクライナの戦争、パレスチナの戦争と、私たちの世界は重苦しい戦争の影を感じなら、このレント・受難節のときを過ごしています。戦争が起こりますと、自分がどちらの側につくのかということが問われるような気持ちや場面に立たされることがあります。
私たちの教会が属しています日本基督教団は、「くすしき摂理のもとに御霊のたもう一致によって」(日本基督教団教憲)、1941年6月24日に30数教派の教会の合同によってできました。ときはアジア・太平洋戦争の時代です。当時の国家政策は、戦時下において宗教団体を管理しやすいようにしようではないかということでした。ばらばらで自由であったら管理しにくいですから、国は管理しやすいように合同させようとしたわけです。ですから日本基督教団はそうした国家による宗教団体管理の流れのなかで、国家によって合同させられたという面があります。まあそうでなければ、30数教派の教会が簡単に合同することはできなかったでしょう。そして日本基督教団はほかの宗教団体と同じように、戦争に協力をしていきました。戦後、そうした戦争中の歩みが、神さまの前にふさわしくなかったと、日本基督教団は反省をしました。そして鈴木正久教団議長名で、1967年3月26日に、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」を出しました。
日本基督教団は戦時下で合同しました。ではドイツの教会はどうだったのでしょうか。やはりナチス・ドイツも教会を国家の管理下に置こうとしました。当時、ドイツ国内にあった28の領邦教会を統合し、「帝国教会」を設置することが求められました。「民族は一つ、国家は一つ、教会は一つ」というスローガンのもとに、ナチス政府は各領邦教会に向かって「ドイツ福音主義教会」(DEK)への統合を呼びかけました。そして領邦教会はナチス政府の強制的同質化政策に迎合することになります。ドイツ福音主義教会はしだいにおかしくなっていきます。教会総会でユダヤ人牧師を排除する「アリーア条項」を採択するようになってしまいます。そうしたなかでこうした国家主義的な教会の動きに反対するグループが出てきます。告白教会と言われるグループの人たちでした。告白教会のグループの人々は迫害にさらされながらも、ナチス政府を批判し、神さまの言葉に教会が固く立つことを求め続けました。そしてドイツは敗戦を迎えます。戦後のドイツの教会はこの告白教会を核として再建されることになりました。
とても残念なことですけれど、教会の中が分裂したり対立したりすることが起こるときがあります。戦争中のドイツの教会はそうでした。ナチス政府に付き従っていくグループ、ナチス政府に反対するグループ、教会の中で対立がありました。教会が一致団結してナチス政府に対決していくということであれば良かったわけですが、ドイツの教会はそれほどまでに模範的な教会であったわけではありません。日本の教会とドイツの教会を比べて、ドイツの教会には告白教会のようにナチス政府に反対していく教会があったということが言われます。しかしキリスト者が主流であったドイツの教会と、キリスト者が少数であった日本の教会をそのまま比べても、公平な比較になるとは思えません。ドイツの教会の中にも戦争に協力していく教会がありましたし、日本の教会の中にも戦争に協力していく教会がありました。
そしてそうした教会の中で、「わたしはどうしたらいいのだろうか」という思いに立たされたキリスト者がたくさんいたことと思います。「キリスト者であるわたしが戦争に協力していいんだろうか」という問いの前に立たされ、「自分はだれに付き従っていくべきなのだろうか」と考えたキリスト者たちがいただろうと思います。不幸な時代にあって、私たちはそうした問いに立たされるときがあります。
ヨハネによる福音書は、ヨハネの教会がとても大きな危機的状況の中にあるときに書かれてあります。初期のキリスト教はユダヤ教の一派と見なされていました。イエスさまもユダヤ人でしたし、十二弟子と言われる人々もユダヤ人でした。しかしだんだんと異邦人もイエスさまのことを信じるようになってきます。ローマ帝国によってエルサレム神殿が壊されたあと、ユダヤ教は【イエスをメシアであると公に言い表わす者がいれば、会堂から追放すると決め】(JN0922、ヤムニア会議)ました。ユダヤ教から異端として追放され迫害にさらされるという状況の中で、自分たちの信仰を確立するか、あるいは会堂から追放されることを恐れてユダヤ教にとどまるのかということが、ヨハネによる福音書の時代のキリスト者には問われたのでした。そして実際にヨハネの教会に残る者とヨハネの教会から去っていく者が出てきました。
今日の聖書の箇所は「永遠の命の言葉」という表題のついた聖書の箇所です。今日の聖書の箇所は、そうしたヨハネの教会の事情がよく現れている聖書の箇所です。ヨハネによる福音書6章60節にはこうあります。【ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」】。イエスさまの弟子たちの多くの者がイエスさまの話を聞いて、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言ったというのは、なかなかショッキングな話です。弟子たちが「実にひどい話だ」と言っている話というのは、ヨハネによる福音書6章22節以下の「イエスは命のパン」という聖書の箇所で、イエスさまが言われたことです。イエスさまはご自分が神さまのところから来られたこと、そして【「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない】、【わたしが天から降ってきたのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである】と言われました。
イエスさまの言われたことは、自分を神さまと等しい者とするということでありましたから、「神さまを冒涜している」と考える人々もいました。ファリサイ派や律法学者たちはそのように考えたのです。イエスさまの弟子の中にも「イエスさまは神さまを冒涜している」と思った人々が出てきました。
ヨハネによる福音書6章61-62節にはこうあります。【イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。】。【人の子がもといた所に上るのを見るならば……。】というように、まだ人々はイエスさまが十字架につけられ、そして三日目によみがえり、天に帰っていかれるというようなことは知りません。ただイエスさまがご自分のことを「わたしが命のパンである」「わたしをお遣わしになった方の御心を行っている」と言っているくらいのことです。そんなことでつまづいているのであれば、これから先のことを考えるとどうなるだろうということです。
ヨハネによる福音書6章63ー65節にはこうあります。【命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」】。
イエスさまのもとにとどまる者と、イエスさまのもとから去っていく者があります。イエスさまが最初から信じない者がだれであるか知っておられたというと、「救われる者は最初から決まっているのか」というようなことを思ってしまいます。しかしそういうことではなく、イエスさまには神さまのようにすべてを見通す力があられたということです。だれが裏切るのかわかっていたら、イエスさまも十字架も避けられたのではないかとを思う人もいるかも知れません。最初から知っておられたけれども、しかしそれはイエスさまが十字架への道を歩まれるという神さまのみ旨であったということです。
ヨハネによる福音書6章66ー69節にはこうあります。【このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」】。
イエスさまから多くの弟子たちが離れ去っていきました。その様子をみられて、イエスさまは十二人の弟子たちに問われました。「あなたがたも離れていきたいか」。これに対してシモン・ペトロは答えました。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」。使徒ペトロは「私たちは永遠の命の言葉をもっておられるイエスさまから離れない」と言いました。イエスさまが「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」と言われました。「だれが永遠の命の言葉をもっておられるのか」。そのことが問われていて、そして「わたしはイエスさまこそが永遠の命の言葉をもっておられる」と、使徒ペトロは答えたのでした。
イエスさまは十二人の弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」と問われました。そして使徒ペトロは「私たちはみんな離れない。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と答えました。さすが十二弟子。さすがイエスさまから選ばれた十二弟子。「よっ!、成田屋!」というところであるのですが、しかしそうはならないわけです。イエスさまと十二弟子は手に手をとって固く握りしめました、とはならないのです。
ヨハネによる福音書6章70ー71節にはこうあります。【すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた】。
十二弟子の一人であるユダが裏切るということは、イエスさまに付き従うということが、とても困難なことであるということです。イエスさまを慕い、信じて付き従ってきた十二弟子が、イエスさまを裏切ります。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」というふうに思いますけれども、話はそのあとも続き、イエスさまが十字架につけられた時には、イスカリオテのユダだけでなく、みんなイエスさまから離れ去っていきました。
そのときそこにいなかった者が、あとから「あのときのことは誤りであった」ということについては、いろいろな反発もあります。「戦争中は仕方がなかったんだ」と言われればそうかも知れません。しかしだからといって、「それでよかった」ということにもならないことを、一番知っているのはそこにいた者であると思います。「どうしてあのとき」「どうすればあのとき」という問いが残ります。そして「また同じようなことが起こったとき、こんどわたしはどうだろう」という問いが残ります。
ヨハネによる福音書は、いま現実にイエスさまから離れようとしているという教会の状況の中で、十二弟子たちがイエスさまから離れていく様子を描いています。イエスさまが十字架につけられるとき、十二弟子たちはイエスさまから去っていった。それではいま私たちはどうなのかという問いを抱えつつ、ヨハネによる福音書は書かれているということです。そして十二弟子がそうであったように、人は弱さを抱えて生きていて、人を裏切ったり自分を裏切ったりしながら生きているということを知りつつ、ヨハネによる福音書は書かれているということです。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」という告白がなされる中に、イエスさまを裏切るイスカリオテのユダがいるということを知りつつ、ヨハネによる福音書は書かれています。そしてそのうえで、イエスさまは「あなたがたも離れて行きたいか」と問われるのです。
信仰というものは、とても不安定なものです。イエスさまから離れていかないような強い人には、信仰は必要はないのです。イエスさまから離れていく弱い者に、信仰は必要なのです。でも弱い者が持っている信仰ですから、その信仰は強いものではないでしょう。私たちは使徒ペトロのように信仰を告白しながらも、一方で自分の中にイスカリオテのユダを抱えて生きているわけです。私たちは「あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と告白しながら、心の中にイスカリオテのユダを抱えているのです。そういう意味で、今日の聖書の箇所は「信仰」というものをよく表わしている聖書の箇所だと思います。
しかしもう一方で、私たちには「イエスさまから離れたくはない」という思いを持っています。この弱い信仰しかもっていない、弱く惨めなわたしを救ってくださる方は、イエスさましかおられないという思いを持っています。「この方にすがるしか、わたしにはない」という思いをもっています。
【弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった】と記しているヨハネによる福音書は、ヨハネの教会から人々が去っていくという出来事のなかで書かれています。ですからヨハネによる福音書は「人は去っても、われらは信ずる」という信仰に立って書かれています。しかしそれは自分たちがりっぱな信仰をもっているということではありません。「わたしはりっぱな人間だから、たとえ人は去っていっても、わたしはイエスさまを信じます」ということではありません。「自分は弱く惨めな者で、自分の中には確かなものなどない。だからこそ、永遠の命の言葉をもっておられるイエスさまにすがるしかないのだ」ということなのです。
信仰生活の中で私たちは自分たちの信仰の弱さに出会います。ちっぽけな信仰しか持ち合せていない自分に出会います。しかし弱く惨めな私たちだからこそ、イエス・キリストは私たちを憐れみ、御手でもってしっかりと支えてくださっています。イエス・キリストを信じて、この方により頼んで歩んでいきましょう。
(2024年3月3日平安教会朝礼拝・受難節第3主日)
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