「背筋を伸ばして、胸をはって」
聖書箇所 ヨハネ18:1-40(1801-1811)。307/311。
日時場所 2024年3月24日平安教会朝礼拝式・棕櫚の主日礼拝
今日は棕櫚の主日です。今日から受難週が始まります。イエスさまの受難を覚えつつ過ごします。そして喜びをもって、イースターを迎えたいと思います。
棕櫚の主日の出来事についての聖書の箇所は、ヨハネによる福音書12章12ー19節の「エルサレムに迎えられる」という表題のついた聖書の箇所です。新約聖書の192頁です。ヨハネによる福音書12章12−19節にはこうあります。
【その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」】。
この「エルサレムに迎えられる」という聖書の箇所は、ヨハネによる福音書以外の福音書にも記されています。それぞれまた読んでいただいたら良いかと思いますが、ヨハネによる福音書には「なつめやしの枝」と書かれてあります。「なつめやし」というところから、棕櫚の主日と言われるようになっています。
イエスさまがエルサレムにやっておられるのを、人々がなつめやしの枝をもって歓迎します。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」。しかしこのあと、イエスさまはユダヤ教の指導者たちによって捕らえられ、裁判を受けられ、そして十字架つけられることになります。
今日の聖書の箇所は、その話です。「裏切られ、逮捕される」という表題のついた聖書の箇所です。この日にはこの聖書の箇所を読みますという、「聖書日課」と言われるものがありますが、今日の日本基督教団の聖書日課は、ヨハネによる福音書18章1−40節となっています。とても長いので、今日はヨハネによる福音書18章1−11節についてお話することにいたしました。
ヨハネによる福音書18章1−3節にはこうあります。【こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。】。
ヨハネによる福音書では、イエスさまがいわゆる弟子たちに対してお別れの説教をされて、そして弟子たちのために祈られます。ヨハネによる福音書17章1節以下には「イエスの祈り」という表題のついた聖書の箇所があります。そしてそのあと、今日の聖書の箇所となります。イエスさまは祈りを終えられ、そして弟子たちと一緒にギドロンの谷の向こうに行かれます。マタイによる福音書やマルコによる福音書では、ゲッセマネの園と言われます。イエスさまは弟子たちと一緒によくそこに来ておられました。イエスさまを裏切るイスカリオテのユダも、その場所を知っていました。イスカリオテのユダは、イエスさまがゲッセマネの園におられることを知り、ユダヤの指導者たちの下役や兵士たちと一緒に、イエスさまを捕らえにやってきました。
ヨハネによる福音書18章4−9節にはこうあります。【イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。】。
イエスさまは自分が下役たちに捕らえられ、大祭司たちによって裁判を受け、十字架につけられることになることを知っておられました。そして自分を捕らえにきた人たちに、「だれを探しているのか:と言われます。彼らは「ナザレのイエスだ」と答えます。それに対して、イエスさまは「わたしである」と言われます。イエスさまが「わたしである」と言われると、彼らは後ずさりして倒れます。イエスさまはまた「だれを探しているのか」と言われ、そしてまた彼らは「ナザレのイエスだ」と言い、それに対して、イエスさまは「わたしである」と言います。そしてわたしを捕らえにきたのではあれば、その他の人たちは関係ないだろう。彼らはここから去らせなさいと言われました。
ヨハネによる福音書18章10ー11節にはこうあります。【シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」】。
イエスさまの弟子の使徒ペトロはもっていた剣で、大祭司の下役に切りかかります。そして右の耳を切り落とします。他の福音書では下役の耳を切り落とした人の名前は記されていませんが、ヨハネによる福音書でははっきりと、シモン・ペトロと記されています。耳を切り落とされた相手の名前も、マルコスと記されています。どうして切りかかった人が、ペトロになっているのかというのは、よくわかりません。しかしペトロは弟子たちの代表ですから、「剣をさやに納める」ということは、いかなることであっても大切なことなのだということが記されているのではないかと、わたしには思えます。イエスさまは「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と言われます。イエスさまの十字架は、神さまが用意されたことであり、それは避けることのできないことであるということです。イエスさまは私たちの罪のために、十字架につかれます。それは神さまが用意をされたことであり、神さまが私たち人間を罪から救うための、イエスさまに託された出来事であるということです。
イエスさまはこの聖書の箇所で、「わたしである」と二度言われます。「わたしである」という言葉は特別な言葉です。ギリシャ語の「エゴー・エイミー」と言われる言葉です。その言葉自体は、「わたしは存在する」という言葉であるので、まあだれでも使う言葉であるわけです。しかしこの言葉は、聖書の中では特別な言葉とされ、神さまが自分のことを人間に表わすときの言葉とされています。「神顕現」の言葉とされていますです。そうした特別な言葉であるので、イエスさまを捕らえにきた手下たちは、後ずさりして倒れるわけです。イエスさまは自分を捕らえにきた人々に、「わたしである」と言われ、自分が逃げも隠れもしないことを宣言されます。
だれの前にもしっかりと立って、自分が自分であることを宣言するということは、とても大切なことです。だれの前でも「わたしである」と言えると良いと思います。しかし私たちは人間ですから、何か都合の悪いことができると、そこから逃げてしまいたいというような思いにかられるときがあります。人をごまかし、自分をごまかして、逃げてしまおうとするときというのがあります。
最近、わたしの見たテレビドラマに「セクシー田中さん」というドラマがあります。主人公の田中京子さんは昼は地味な経理部の女性で、夜はベリーダンサーであるという設定です。田中さんは周りの人とコミュニケーションをとるのが苦手で、いつのまにか人を避けるようになり、勉強や仕事にだけ打ち込んで生活をしていたわけですが、あるとき自分が年寄りのように猫背になってしまっていることに気がつきます。そしてこんなことではいけないと思い、ベリーダンスを始めます。田中さんはベリーダンスを始めることによって、自分の居場所を見つけ、そして曲がった背筋が伸びてきます。そして周りの人たちに対しても、よい影響を及ぼす人になっていきます。「このドラマの「背筋を伸ばして生きていく」という設定は、とてもすがすがしい気持ちを、わたしに与えてくれました。田中さんだけでなく、周りの人も「背筋を伸ばして生きていく」、そんな生き方をしたいと思うというところが良いなあと思えます。だれもやはり背筋を伸ばして生きていきたいのです。
年をとってきたということもありますが、何となくわたしも猫背になってきて背筋が曲がってきたような気がします。まあ身体のほうがそれはそれで仕方がない気もしますが、こころも曲がってくるというのではいけないなあと思います。しっかりと「背筋を伸ばして、前を向いて」生きていくという気持ちを忘れないようにしたいと思いました。
今日の聖書の箇所で、イエスさまは自分を捕まえにやってきた人々に対して、逃げも隠れもせず、「わたしである」と言われます。そして引け目のあるユダヤの指導者たちの下役たちは、それに対して後ずさりして、地に倒れるのです。イエスさまは「わたしである」と言いつつ、背筋を伸ばして生きています。誰の前にも恐れることなく、神さまの御心に従って歩まれます。
わたしはクリスチャンに大切なことは、「胸をはって生きていく」ということだと思っています。もちろん私たちは人間であり、罪人ですから、こころのなかに邪な思いをもちますし、またじっさいに悪いことをしてしまうということがあります。神さまの前にふさわしくないものであることは、重々承知であるわけです。しかしそんな私たちを愛し、私たちの罪を赦し、私たちを祝福してくださる神さまがおられるのです。「安心していきなさい」と、私たちを励まし導いてくださる方がおられるのです。
ですから、私たちは背筋を伸ばして、胸をはって生きていきたいと思います。自分により頼んで生きるのではなく、神さまに、イエスさまにより頼んで生きていきたいと思います。
棕櫚の主日を迎え、受難週に入りました。イエスさまが私たちの罪のために十字架についてくださいます。私たちの罪を担い、私たちを新しい命へと導いてくださるために、イエスさまは十字架についてくださいます。神さまの、イエスさまの深い愛を信じて、背筋を伸ばして、胸をはって歩みたいと思います。
(2024年3月24日平安教会朝礼拝式・棕櫚の主日礼拝)