「わたしもイエスさまに香油を塗りたかった」
聖書箇所 ヨハネ12:1-8。306/313。
日時場所 2024年3月10日平安教会朝礼拝式・受難節4
心の中にある真実な思いが行動に現れるということがあります。いろいろな自然災害が私たちの周りにおこったとき、「なにかしたい」という思いにかられます。そして募金を行なったりします。そうしたときは自分のなかでお金の勘定をしているということではなく、ぱっと募金をしたりするわけです。私たちは普段の生活の中で、お金の使い方について一生懸命に考えるわけですが、しかし金勘定だけで生きているわけではありません。教会建築などについてもやはり同じようなお話をお聞きすることがあります。「よく教会建築できましたね」とお尋ねすると、「はじめはとてもできるとは思えなかったけれど。やっぱり神さまが私たちの祈りを聞いてくださったんだね」というようなお返事をお聞きすることがよくありまます。みんなで祈りつつ、献金をして、教会建築を行なったわけです。
歴史学者である中島岳志(なかじま・たけし)は、『「利他」とは何か』という本のなかでつぎのようなことを言っています。【ヒンディー語では、「私はうれしい」というのは、「私にうれしさがやってきてとどまっている」という言い方をします。「私は」ではなくて、「私に」で始まる構文のことを、ヒンディー語では「与格」といいます。この「与格」が現代語のなかにかなり残っていて、ヒンディー語を勉強する時にこれがものすごく難しい。「私は」で始めるのか、「私に」で始めるのかというので、初学者はすごく戸惑うポイントです。「私は」というのは私が行為を意志によって所有しているという観念だと思いますが、「私に」何々がやってくるというのは、不可抗力によって私に何かが生じているという現象のときに使います。たとえば、「風邪をひいた」「熱が出ている」というのは与格で表現します。つまり、私が風邪をひきたい、熱を出したいと思ってそうなっていうのではなく、私に風邪や高熱がやってきてとどまっている、という言い方をします。「私はあなたを愛している」というのも、「私にあなたへの愛がやってきてとどまっている」。私が合理的にあなたを解析して好きになったのではなく、どうしようもない「愛」というものが私にやってきた】(P.101)。
中島岳志は、近代・現代社会は人間の意志ということに囚われすぎている。人間の意志によってすべての行為が行われているということが強調されすぎていると言います。たしかに私の意志とは思えないような思いに駆られて、このことをしたいと思うということがあるわけです。【「私はあなたを愛している」というのも、「私にあなたへの愛がやってきてとどまっている」。私が合理的にあなたを解析して好きになったのではなく、どうしようもない「愛」というものが私にやってきた】。たしかに好きになることの説明はむつかしいですから、人は「恋に落ちる」というわけです。初めは「いやなやつ」と思っていた人のことが好きになったりするわけです。なにかに突き動かされるような思いによって、そのことを行なうということが、私たちにはあるのです。
今日の聖書の箇所は「ベタニアで香油を注がれる」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書12章1−3節にはこうあります。【過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。】。
ヨハネによる福音書では、イエスさまに香油を注ぐ女性は、ラザロの妹のマリアです。その出来事が行われた場所は、ラザロの家となっています。ヨハネによる福音書では、このラザロという人は特別な人であるわけです。ヨハネによる福音書11章1節以下に「ラザロの死」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の188頁です。ラザロは死んだわけですが、イエスさまによってよみがえります。
イエスさまは過越祭のときに、十字架につけられます。ですから「過越祭の六日前」ということは、もう少しするとイエスさまが十字架につけられるということです。イエスさまはベタニアのラザロのところにいきました。イエスさまのために夕食が用意されています。ラザロの妹のマルタが給仕をしています。「マルタ、そんなにがんばらなくてもいいよ」と、私たちは思うわけですが、マルタは給仕をしているわけです。ラザロとイエスさまが食事の席に着いていました。そのときにラザロの妹のマリアが、とても良い高価なナルドの香油をもってやってきます。聖書の後ろのほうに「度量衡および通貨」という便利な表がついていますが、その表によりますと、1リトラというは約326グラムということです。マリアはその高価なナルドの香油を、イエスさまの足に塗りました。そして自分の髪でその足をぬぐいました。髪の毛で足をぬぐうより、今治タオルで拭いてあげたほうが良いような気がするわけです。しかしイエスさまの時代、女性の髪というのは象徴的な意味において価値があったということだと思います。それはまあ尊い行ないであったのです。ラザロの家は高価なナルドの香油の香りで一杯になりました。みんな気持ちの良い香りに包まれました。
ヨハネによる福音書12章4−6節にはこうあります。【弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである】。
マリアが香油をイエスさまの足にぬったをみて、イスカリオテのユダがマリアを叱ります。300デナリオンというのは、1デナリオンが一日の労働者の賃金と言いますから、まあ1デナリオンが1万円とすると、300デナリオンは300万円ということになります。まあたしかに高価なものであるわけです。300万円のナルドの香油を、マリアの一存でなにかできたのかどうかということはよくわかりません。まあ一般的に考えると、兄のラザロも知っていたということではないかと思います。まあ人の家のお金に使い方について、どうこういうというのは、まあ現代であれば控えるべきことであるような気もします。しかしまあイスカリオテのユダの言った「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」という言葉も、まあそんなにおかしなことでもないような気がします。
ヨハネによる福音書は、イスカリオテのユダがイエスさまを裏切ったという出来事があったあとに書かれていますから、イスカリオテのユダはとんでもない悪人ということで書かれています。ですから【彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである】というようなことも書かれてあります。しかしまあ実際にイスカリオテのユダが、不正をしていたのかどうかということはわからないわけです。イエスさまのグループの会計をしていたわけですから、まあイスカリオテのユダはある意味、みんなから信頼されていたと思います。ですからまあ私たちの判断からすると、ヨハネによる福音書の著者がこのように、イスカリオテのユダのことをあしざまに後から書くということも、「まあ、どうなんだろうねえ」というような気持ちになるわけです。
ヨハネによる福音書12章7−8節にはこうあります。【イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」】。
イエスさまはイスカリオテのユダがマリアを叱ったことに対して、「この人のするままにさせておきなさい」と言われました。イスカリオテのユダの言ったことが正しいとは言われませんでした。イエスさまは「わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」と言われました。マリアがわたしの足に香油を塗ってくれたことには、大切な意味があるのだと言われました。それはわたしの葬りの備えなのだと、イエスさまは言われました。イエスさまは十字架につけられ、そして葬りの備えをすることもできずに、墓に納められることになります。その葬りの備えを、あらかじめいま行なってくれたのがマリアなのだと、イエスさまは言われました。貧しい人々にはあなたたちがこれからも一緒にいることができるから、これからいろいろな機会に、貧しい人たちを大切にしてあげてほしい。それはイスカリオテのユダが言うとおりだ。でもわたしはいつまでもあなたたちと一緒にいるわけではない。わたしはもうすぐ十字架につけられ、あなたたちから離れていくことになるのだから。そのようにイエスさまは言われました。
テレビのワイドショーをみたり、インターネットのニュースなどをみたりしますと、コメンテーターと言われる人たちが、いろいろと「このようにするのが正しいのだ」というようなことを言うのを目にすることがあります。どういう基準でこのコメンテーターって選ばれているのだろうと思うこともあります。「ちょっと、それ、非常識すぎるだろう」というような意見をいう人もいます。またとても合理的な意見をいう人もいます。イスカリオテのユダの意見は、どちらかと言えば合理的な意見です。まあ正しい意見です。この「ベタニアで香油を注がれる」という出来事が行われた後も、「まあイエスさまはああ言われたけど、でもイスカリオテのユダの言ったことも一利あるよね」という人は多かっただろうと思います。たぶん正しい意見なのです。
しかし正しい意見であるからこそ、そこに愛がないことに配慮をしなければならないのだと思います。イスカリオテのユダの言ったことは、正しいけれども、愛がないのです。そしてまた先のことは、私たちにはわからないのです。イエスさまが十字架につけられたあと、みんなあとから思ったのです。「ああ、あのとき、マリアがイエスさまの足に香油を塗ってさしあげて、葬りの備えをしてあげることができて、ほんとによかったよね」。そのようにみんなあとから思ったのです。「わたしもイエスさまに香油をぬってさしあげたかった」とみんな思ったのです。
合理的に考えるとなんかちょっと変だよねと思えることだったし、イスカリオテのユダがそのことをはっきりと口に出して、マリアを叱ったけど、でもなんかマリアは何かに突き動かされるように、イエスさまの足に香油を注いだんだよね。いまから考えると、あのとき、マリアがイエスさまに香油を塗って差し上げて、ほんとによかったよね。神さまの導きとしか思えないね。聖霊の働きだよね。
私たちは普段は合理的な考え方をしていますから、自分がマリアのようにイエスさまの足に香油を注いだりしないような気がします。そのように思いつつ、しかしやはり私たちの心の中には「わたしもイエスさまに香油を塗ってさしあげたかった」という思いがあるのです。私たちもまたイエスさまに仕えるマリアであるのです。イエスさまのために良いものをおささげしたいという思いをもっています。自分の思いとも思えないほど、きれいな思いが私たちのこころのなかにあるのです。神さまが私たちにくださる愛による思いなのです。
レント・受難節も第四週になりました。イエスさまがイスカリオテのユダの裏切りにあい、ユダヤの指導者たちによってつかまるときが近づいてきます。イエスさまが十字架への苦しみの道を歩まれます。私たちはイスカリオテのユダのように、イエスさまを裏切るような弱い心をもっています。しかしまた同時に、「わたしもイエスさまに香油を塗ってさしあげたい」とのやさしい心も持っています。神さま、どうか私たちを、あなたの良きことのために用いてくださいと祈りつつ、このレント・受難節のときを過ごしたいと思います。
(2024年3月10日平安教会朝礼拝式・受難節4)
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